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パラパラ・・・脚本を読んで


監督;熊切和嘉
(1974年9月1日、北海道帯広市、出身。1998年デビュー。)

原作;佐藤泰志
(芥川賞候補に5度ノミネートされながら、41歳で自殺。)

脚本;宇治田隆史
(1975年2月2日、和歌山県、生まれ。熊切監督と多く組む。)

音楽;ジム・オルーク
(1969年1月18日、アメリカ、生まれ。元ソニック・ユース。)

出演;加瀬亮、三浦誠己、小林薫、南果歩、谷村美月、
竹原ピストル、あがた森魚、伊藤祐子、黒沼弘巳、大森立嗣、
山中崇、東野智美、森谷文子、村上淳、西堀滋樹、中里あき
エコーが止まらない。
2010年5月7日、電光石火に脚本が、映画製作実行委員会から届けられた。
想像力の解像度
★火星大接近の日に、火星が、ぼくの眼球に乗り移った♪久保の眼
映画を観ながら考えたのは、
「これは原作者のせいか?監督のせいか?」
とゆーことだったんだけど、
さらに脚本を読めばそこに
「これは脚本家のせいか?」が加わる。

もちろん作られてゆく全ての映画は、傑作になる可能性を持っている。
と、ゆーコトは、傑作にならない可能性もある、とゆーことだ。
その分かれ目のかなり初期の段階を担っているのが、脚本、なのだろう。
だから脚本には、
責任と無責任と、やりがいと少しの無力感が同居しているかのようだ。
その厳しい位置で数ヵ月後に完成されるであろう映画を想像する解像度に
息をこらすのが脚本家なのだろう。

映画を観終えてから脚本を読むと、
脚本には書かれていないが映画ではされた演出が多いことに気が付く。
その典型が映画の終盤に東京から来たセールスマンが入ったバーで、
働いている女が水割りを作りながら、
ひとりでぺちゃ&くちゃ長回しのおしゃべりをするシーン。
この神がかりで奇跡的な(=つまり、「映画的」な)場面は、
まるで隠し撮りのように撮られ、
一瞬、ドキュメンタリー映画を観ている錯覚すら与えてくれるのだから、
ここは脚本から遊離した特権的な場面であってしかるべきなのだろう。
もちろん、この偶然(?)を引き寄せたのが、脚本である、
という言い方もできるのだが、しかし脚本には、
ドキュメンタリー風の撮影の成功を期待するようなことは書かれてはいない。

その他の脚本に無い映画のシーンは、たとえば、
同じシーンでホステスが客の年齢を当てる場面で、
映画では客が「30歳。」と答えると、
ホステスが「30って顔してるよ。」とギャハハと笑う。しかし店内の空気は凍りつく。
ここも脚本よりも、映画の勝ち。

さらに燃料屋の若社長が妻に暴力を振るうシーンは、
脚本では淡白に描かれているが、映画では長回しになっている。
妻役は地元のシロウトが演じたそうだが、かなりの回数の撮り直しがされたそうだ。
監督にとっては重要なインパクトを持ったシーンと思ったのだろう。
ここは海の底。クラクションが止まらない。
もっとシャワー。
小説が原作の場合、脚本の仕事は、
抽象を具象に翻訳することだと思う。
雑な言い方をすれば、
芥川賞の作品を、直木賞の作品に書き換える、ような(笑)。
つまりは、脚本家に求められる才能は、ストーリーテラーぶりだと思う。

もちろん、優れた物語を担保するのが小説に込められた抽象だ。
たとえば、三島由紀夫の原作で『春の雪』を2005年に撮影した直後の
行定勲(ゆきさだ・いさお、1968年8月3日生まれ)監督はインタビューで、
人を傷つけ翻弄するが、
その先にある衝動が抑えられない感じというか、
あまり普通の人は持たない屈折した感情が
面白くてしょうがなかったんです。」
と語っているのは、物語だけが持ちうる魅力的な抽象のことだと思う。
また同映画で行定は脚本家の伊藤ちひろと、
(原作に)忠実にやりたいと思うけれど、
ディテールを原作からきれいに拾って
答え合わせをするようなやり方は、
現代の僕たちの作り方ではないよね、
という話をしました。」

という。
つまり脚本家は原作が面白い小説である理由の中心となる物語を、
まるで小骨の多い魚から背骨だけを抜き出すような作業と、
たとえその物語を脚本に写し取らなかったにせよ、
小説家がその物語に向かった抽象的な情念を書ききらねばならないのだ。
それは一見まったく逆の作業のように見えるが、
それこそが脚本家による脚本化のダイナミズムなのだろう。
では脚本家は、それを成し遂げるために
他のジャンルには無いどんな技術を使うのだろうか?
脚本家であり、放送作家であり、映画監督でもある
君塚良一(きみづか・りょういち、1958年4月21日生まれ)が
ネット上のインタビュー「映画を脚本で読むということ」
語っている中にいくつかユニークな視点があった。
抜書きしてみよう。
「ズラシの手法」。
最初の感動の頂点をピンポイントで終わらせないで、
ものに置き換えながらズラしていき、
感動を持続させていく、これがズラシの手法です。

脚本は数式じゃないんです、
エラーが起きているから、ダメっていうものじゃない

『わらの犬』を冷静に観ると、脚本家がすごく迷ってるのがわかってくる。
そういうところでぼくも一緒に迷って、ハマったんです。
エラーのままいっちゃうことってあるんです。
ぜんぜん気づかないときや、気づいてもそこをなおすことよりも
他にやらなくちゃならないことがたくさんあるときとか。

なるほど。脚本家、そして脚本とは、なんとも特殊な存在だということがよく分かる。
しかしここで言ってることは現実の日常生活では、よくあることであり、
むしろ、こちらのほうが通常だ。
我々はいかに毎日、ズレた感性で過ごし、
エラーしまくりの日常を過ごしていることか。
そうか。完璧な脚本は、現実を表現し得ない、ということか。
ピンボケでエラーが起きている脚本は、現実を巧みに真似ている
ということか。
ぐるぐる指がぐるぐる。
文字が消えてゆくぜ、マイ・ダーーーーーリン!
そう考えれば私が本作で不快に感じた2点、
ストライキの解除に怒る若者、
と、
妻のホステス業に不満をつのらす夫、
は、
あまりにもピンポイントに怒り、
あまりにも正確に情けなかったから、かもしれない。

観る者の想像力の範囲内の「感動」は、鼻白む
表面的な分かりやすさのみを求めるとき、本質をつかみ損ねるのだ。
そして『海炭市叙景』は、まさにそれを伝えようとして作られたはずだから、
上記の二つのエピソードでは
映画自らが、その穴に陥ったと私は残念だったのだ。

もちろん、その反対に脚本が準備したすばらしいシーンもたくさんある。
たとえば、燃料屋の若社長が居酒屋で友人に浄水器を売ろうとすると、
友人から「何の為にやってんのよ、それ」と言われ空気が一瞬で変る場面。

その若社長が、引退した父から浄水器の販売を「やめれ」と
進言されるシーンの函館弁でのセリフの流れ。
この父を地元のシロウトが演じているのも心地よい驚きだった。

若社長が妻を殴った後に妻が「ぜったいアンタに幸せにして貰うから」と
言うまでの冷たい流れ。

若社長が足にガスボンベを落として苦しんでいる途中に
通りかかる若いカップルの浮世離れした感覚のセリフのやりとり。

燃料店の事務所でベテラン女性の従業員が、若社長の家庭の乱れを
それとなく進言する「ちゃんとした方が良いです」に
若社長が「分かってます。アイツ、病気ですから」と交わらない答えをする場面。

さらに、スナックのママが客に「つまんないヤツ」と言い、
それから絶妙の間を置いてから「気取った、ただの田舎もの」と言い切る場面。

これらの場面を読むことは、脚本を読む楽しみを教えてくれる。
それでいて、大道具も巻き込んで決定的に私の感性と違うところもある。
立ち退きを迫られている老婆は豚を飼っているのだが、
映画では豚小屋を映し出していなかったのだ。豚の姿すらも。
それは脚本でも同様だった。
その判断は、差別に対する先回りの気の利かせようなのだろうか。
もしくは、豚を調達する予算が無かったのか?
いずれにせよ、豚のえさである残飯のくさい匂いが
スクリーンから漏れ出てくるような昭和の時代には日本中の地方にあった
木造の豚小屋が、この映画に正確に再現されて登場してきたら、
この映画の成功に大きく近づくファクターとなりえていただろう。
この映画が海外で上映されたとき、
インターナショナル性を獲得できたシーンだったかもしれないので、
豚小屋の映像の不在はつくづく残念だ。

あがた森魚が演じるおしゃれな喫茶店のマスターが、
店の近所にあるのだろう豚屋を話題にして
「あの匂いだもん。こう言うのも台無しよ?」
と、コーヒーを出すシーンが脚本にあるが、
これは「言う」ではなくて、「こうゆうのも台無しよ?」のミスだろう。
せっかくのコーヒーのイメージと香りが
豚屋からの匂いで「台無し」になる、ということなのだから。
それを強烈に印象付けるためには、
やはり言葉ではなく映像の力を見せて欲しかった。これは映画なのだから。

脚本に場面転換のように挿入される短いシーン91に、
燃料屋の若社長がプロパンガスの交換を民家でする場面があるが、
このささいな場面にこそ、一般の民家ではなくて、
何気ない偶然として豚屋でのプロパンガス交換にすればよかったのだ。
ガスボンベを取り付ける時のガラガラとかカンカンという音に豚が鳴き騒ぎ、
ガス交換の作業をしながら匂いから鼻を手で押さえるシーンに交えて、
実際の豚の顔のアップや、豚小屋のディテールを細かくつなぐのも
効果的だったろう。
そうすれば、複雑な音と光をフィルムに閉じ込めることができたはずだ。
そこで観客が見るのは豚屋の豚と老婆の醜さや差別感情ではなくて、
豚の高貴さと、老婆のプライドであるはずだ。
だから脚本の段階で豚小屋の映像を避けたのは、この映画のひとつの敗北だ。
内側で血が飛び散っては、止まらない。
だからダンス。すてきな、ダンス。
あと原作から遠くなるかもしれないが、
燃料屋の物語の終盤に、従業員が帰宅途中の路上でポケットから
「望遠鏡と書きかけの文字」が書かれたくしゃくしゃになった紙を取り出す。
このエピソードはここで終わるが、紙に書かれた望遠鏡の文字に
さらなる展開がもう少しあっても良かったと思う。
このようなオムニバス映画は徹底して、終盤にくると、
ジグソーパズルが完成するように全貌が見えてくる鮮やかさが
欲しいのだから。
そこに脚本家の自由度と腕の見せ所があると思うのだが、いかがだろうか。

そうそう、終盤のスナックに別のスナックの女が醤油を借りに来るが、
脚本を読んで私は初めて気が付いたのだが、この女はなんと、
燃料屋の若社長がプロパンガスを足に落として怪我をしたときに
アパートの階段を降りてきて通りすがった若いカップルの「桃子」だった。
この重要なディティールは、もっと観客に分かるように演出してほしかった。

さらに映画が終盤に近づいたシーンで、それまでのバラバラの
エピソードの登場人物たちが夜の路面電車の車内に、乗り合わせる。
もちろん、お互いに他人だから、彼らが実はどこかでつながっているのが
分かるのは、この映画をずっと観てきた観客だけだ。
このシーンは、森田芳光監督の1985年の映画『それから』の
電車内の幻想的なイメージを髣髴させるいい絵が撮れている。
残念なのは、燃料屋の若社長とその息子が隣り合わせているのだが、
親子に見えないのだ。ここにはつながりの熱が感じられる工夫が欲しかった。

脚本のほとんどラスト・シーンには、立ち退き予定の豚屋にも春が訪れ、
「やがて雪もショベルも塀もゆっくりと消えて更地になる。」と書かれているが、
予算なのか、CGは使わない主義なのか、
この鮮やかなイメージは観た者の記憶に残っていない。

映画とは集団で見る夢だ。
その最初期の夢の一滴をたらす脚本家は、
まだできあがっていない映画への想像力の解像度で、
日常の生活と、未来の映画をつなげる。
しかし、映画や監督や俳優が論じられることはあっても、
脚本だけをつまみ出して批評されてきたことは今までほとんど無かった。
ここにも批評の不在が罪となる現場があるのだ。
市民が映画を作り上げられる時代だからこそ、
脚本の批評を活性化してゆく必要がある。
我々の想像力の解像度を磨くために。