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Wow! ★映画ジャンキー♪ ドキュメンタリー映画
という
共犯のマナー。
movie days and nights !


Camera! Camera! Camera! キュンメンタリー
4人のバカな男の「生き方」と、「死に方」という、もうひとつのドキュメンタリー。

text by.うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (更新日;2008年7月15日 2:59Am)
映画に




黒木 和雄
(くろき・ かずお、
1930年11月10日〜2006年4月12日、
享年75歳)

やっぱ、映画館で観たい♪映画監督作品
1974年 『竜馬暗殺』
1975年 『祭りの準備』
1988年 『TOMORROW 明日』
2003年 『美しい夏キリシマ』
2004年 『父と暮せば』
黒木 和雄(くろき かずお, 1930年11月10日 - 2006年4月12日 )の殺され方。Wow! ★映画ジャンキー♪

2004年★黒木和雄〜『美しい夏キリシマ』の北海道公開時に。
 戦争の本当の恐ろしさは、自由がなくなること。それを際立
たせたかった。
 当時の人は戦争をニュースで聞くだけ。農村の生活はのどかな
まま。不安はあってもだれも反戦を叫ばず、仕方ないと思って
いた。今の日本と変わらない。


2006年、追悼時に★菅野みゆき(朝日新聞社学芸部記者)
 空襲の中、頭が割れ、助けを求めるように
手をさしのべた友人を置き去りにしたことを悔やみ続け
体験をもとに『美しい夏キリシマ』を撮った。
 次の構想は、映画監督・山中貞雄と画家・藤田嗣治を「戦争の
犠牲者」として描くことだった。


2006年、追悼時に★黒木暢子(未亡人)
 映画を作ることで解放されたかったのでしょう。


2006年、追悼時に★原田芳雄(俳優)
 撮影現場もみんな横並びで、映画『竜馬暗殺』では、ロケバス
運転手の「違うんじゃない?」との意見を受け入れて撮り直した。


2006年、追悼時に★土本典昭(ドキュメンタリー映画監督)
 40年以上前、一緒に映画作家のグループ「青の会」を作った。
未完成の若者が自由に芸術論をぶちまけられる場だった。
映画に
小川 紳介の殺され方。Wow! ★映画ジャンキー♪ 小川 紳介
(おがわ・しんすけ、
1935年6月25日〜1992年2月7日、享年56歳)

やっぱ、映画館で観たい♪映画監督作品
1967年 『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』
1968年 『日本開放戦線 三里塚の夏』
1977年 『三里塚 五月の空 里のかよい路』
1982年 『ニッポン国 古屋敷村』
1987年 『1000年刻みの日時計 牧野村物語』

1982年★小川紳介〜『ニッポン国 古屋敷村』の公開時に。
 じいさまたちの話が、村のなかでおのずと語りつがれているのなら、
僕らが撮る必要はなかったのかもしれない。ところが、そんな話は
若い人は聞こうともしなかったし、語る場もなかった。だから、僕らが
聞かせてもらった。映画に撮ってみんなでもう一度聞きなおしてみようと思った。


1992年、追悼時に★波多野哲朗(映画評論家)
 近代的な分節的思考の中では、すぐ対立物になってしまう関係を、次々と
巻き込んでゆく。そういう大きな渦として、小川伸介とその映画があるのではないか。


1992年、追悼時に★内藤正敏(カメラマン)
 おそらく小川さんが記録映画に魅せられたのは、
事実に隠されたドラマを発見する驚きにあったのではないかと思うんです。


1992年、追悼時に★鈴木一誌(グラフィック・デザイナー)
 みんななんかこう深さを追求してますよね。だけど、小川プロの映画っていうのは、
どんどん退化する欲望っていうかね、平面に向かうっていうか。


1992年、追悼時に★淀川長治(映画評論家)
 この方がいちばん深沢七郎文学を本当につかまえると思った。溝口健二は
谷崎潤一郎をつかむでしょう。けど、深沢七郎の土の匂いは、もういま
小川さんがいちばんいいだろうと思った。だから私は惜しいなあと思った。


1992年、追悼時に★伏屋博雄(小川プロ・プロデューサー)
 こういう仕事をやってますとね、たとえばドキュメンタリーは時間がかかるとか、
あるいはお金がかかるという言い方をともするとしがちですけれども、
小川さんそれを逆転して、お金をかけなくちゃいけない、時間をかけなくちゃ
いけないんだ、そうでなければいい映画は出来ないんだと。





佐藤真の殺され方。Wow! ★映画ジャンキー♪ 佐藤 真
(さとう・まこと、
1957年〜2007年9月4日、
享年49歳)
東大哲学科卒。飛び降り自殺。

やっぱ、映画館で観たい♪映画監督作品
1992年『阿賀に生きる』
2001年『SELF AND OTHERS』
2005年『エドワード・サイード
Out of place』

1992年★佐藤真〜小川伸介の追悼集会で。
 撮れなかったこと、あるいは撮ってはいけないことを、
映画という全体の中で伝えようとする強い意志が、見る者の
心を揺さぶるのです。
・・・・・・
 何物かを映画の中で使わないふんぎりをするために
何かを撮る、というふうに映画を撮ってきた部分もずいぶん
あるんじゃないかと思うわけです。


1992年★佐藤真〜『阿賀に生きる』の公開時に。
 公害や自然破壊を言うだけの映画は作りたくなかった
・・・・・・
 現実の中でイメージが変わったらそれを受け止めなくては。
公害を扱っても紋切り型で悲惨さを描き、
患者の実感と違ってしまうのが一番いけないと思う。


1997年★佐藤真〜阿賀での新潟水俣病について語る。
 発生から20年たち、問題が見えにくくなっている。
それを分かりやすく単純化することは、意地でもやめよう、と。
・・・・・・
 「××問題」の映画は撮りたくない
 『水俣病問題の映画』だと、水俣病関係者しか見ない。
それでは広がらない。
『問題』に無関心な人でも面白く見られる映画を撮らないと。


1999年★山根貞男〜第二作『まひるのほし』の公開時に。
 入り口は知的障害の問題にちがいないが、出口では人間の
生命活動という本質に触れていく。そのことが、映画館に
入ったときより、出ていくときの心のボルテージを鮮やかに
高くするのである。


2007年、追悼時に★山上徹二郎(プロデューサー)
 『ずらす』という言葉が好きだった。ものごとを真正面から
相対するのではなく、別の角度からより深いところを見ようとした。


2007年、追悼時に★阿部嘉昭(評論家)
佐藤さんと森達也を比較すると、
佐藤さんのほうが真摯だという評言は当たらないだろう。
どちらも真摯、というのが正しい。
ただ佐藤さんが森さんにたいし絶対量の多さを誇るべきものがある。
「孤独」の分量がそれだ。
対象に単身突入する森さんを想定するとヘンな物言いかもしれない。
「そうはみえない」という意見が趨勢だろう。
だが僕には「そうみえた」。
だから佐藤さんの作品が僕には貴重で忘れがたかった。
佐藤さんの穏やかな風貌からそんな奥行も感じられた。
殺し。
土本 典昭
(つちもと・のりあき、
1928年12月11日〜2008年6月24日、
享年79歳)
早稲田大学文学部を学生運動のため除籍。
山村工作隊に加わって逮捕された。
若手創作グループ『青の会』で、
小川伸介、東陽一、黒木和雄の各監督らと交流。

やっぱ、映画館で観たい♪映画監督作品
1969年『パルチザン前史』
1973年 『水俣一揆−一生を問う人々』(青林舎)
1973年 『水俣レポートI 実録公調委』(東プロ)
1975年 『不知火海』(青林舎)
1982年 『原発切抜帖』(青林舎)
1984年 『海盗り−下北半島・浜関根』(青林舎)
2004年 『みなまた日記 甦える魂を訪ねて』
土本典昭監督が、6月24日午前2時47分にご逝去されました。享年79才。★映画ジャンキー♪

1992年★土本典昭〜小川伸介の追悼集会で。
 岩波映画で、やりたいようにやっていいっていうんで、やりたいようにやった
僕の作品の『東京都』と『山梨県』、それから黒木の作った『群馬県』というのが、
スポンサーの忌避によって放送禁止になりました。
・・・・・・
 土本は水俣に暴力思想を持ち込んだ男であると、共産党の機関誌と、
チッソの御用組合の機関誌でやられました。それは最近もしょっちゅうぶり返し、
同じパターンでやられます。これは僕にとってはなんともないことなんですけれども、
やはりもし僕が自分の映画の主人公を裏切ったらですね、それを水俣の人は、僕が
水俣を裏切ることと同じだというふうに取ると思うんですね。そのへんは、被害者の
非常にシャープな勘がそうさせると思うんです。


2008年、追悼時に★石牟礼道子(作家)〜「日本経済新聞」2008年6月28日より抜粋。
 『水俣――患者さんとその世界』(1971年)という記録映画には情愛のこまやかな
夫婦の姿がさりげなく出てくる。たとえば、水俣病になった夫のこぼすご飯つぶを、
妻が丹念にひろって食べる場面などがある。
 へんてつもない夫婦の姿だが、ふかぶかと胸をうたれる。水俣病という事態が
かぶさったことによって、人間関係は深化し、この人々が低い声で語る日常が、
全人間的な光芒を放っていて、土本作品の人々の表情は、実に美しい。


2008年、追悼時に★石牟礼道子(作家)〜「朝日新聞」2008年7月2日より抜粋。
 60年代から知っている。死の4時間ほど前には電話で語りかけた
・・・・・・
 数ある作品の中で原点となった『水俣――患者さんとその世界』の中で、
名人といわれる人が、タコ採りをする場面がある。
場所はチッソの真裏にあたる水俣湾である。
 映像であらためて観ると、
この海辺が、いかに生命感あふれる漁場であったかと胸うたれる。
・・・・・・
 水俣病以前、この地方にはおおらかで上代的な、神遊びに近い漁法が
さまざまあった。今は考え方も労働も、暮らしの中身も、田舎なりに近代化された
わけだが、私どもは大切な何かを失った。
何を失ったのかさえ、思い出せないかもしれない。
・・・・・・
 遊びに近い労働の妙味が失われたことを、土本典昭さんは映像で表現してみせた。
・・・・・・
 記録映画作家のすごさというものを、私は三里塚農民を撮りつづけた小川伸介監督
にも感じていたが、このお二方に共通していたのは、と、もの腰のやさしさだった。
よもやお二人が、みんなより先に逝ってしまわれるとは、思いもつかなかった。
・・・・・・
 「お逢いする度、上品になってゆかれますね」
本気でそう言った。


生かし。