さっちゃんも、プールに行きました。I'll follow you wherever you may go!
top page⇒うぇ〜ん!『共犯新聞』♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieROCK★ロック パラパラ・・・偏愛書物★Book グルメとは、肉体の共犯♪好物★Gourmet やっぱ、映画館で観たい♪映画★Movie Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!美術★Art
moto_kubo@hotmail.com
2012年
1月
映画
た びたび
他にも何か書くことあった気がするのだけれど忘れてしまったからもう出す。
脳内共犯
としての
映画館

脳 味噌共犯 movie days (and movie nights !!)  暗闇の私。≒ 私の暗闇。

2012年1月25日 水曜日 午後9時49分真冬の座禅道。気温-10.1℃←■テオ・アンゲロプロス監督、新作映画の撮影中にバイクにひか れて事故死。いよいよギリシャ、たち ずさんで。
年内。 鶏の水餌。

遠霞
MAGNA GRAECIA
(マグナ・グラエキア)
一「点」

(久保元宏 2002年5月)

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出 せ!
たとえば→1月14日の歴史
アメリカの天才クリエーター集団!

Happy Birthday
to
Mr. ロサンジェルスでの映画製作共犯者♪Hone-King !

7つ数えろ。

再会
時代
Reunion - Life Is a Rock
(But the Radio Rolled Me)
二人は蔓草のようにからみ あった。
なぜなら私たちは草木と同じであったから。
二人は仔山羊のように戯れあった。
なぜなら私たちは獣と同じであったから。

北杜夫ねえ、ダフニス。『神々の消えた土地』
(1992.9.20、初版、新潮社)
定価\1262→古本\500


また&また、去年の(!がくっ。)お正月のハナシで恐縮なんだけどー。

パラパラ・・・やっぱ、映画館で観たい♪12月31日
古本1冊&映画2本
やっぱ、映画館で観たい♪Oh ! うめぇ〜♪ジューシーな豚肉ソティ!1 月1日
映画1本&フレンチ
やっぱ、映画館で観たい♪パラパラ・・・2日
映画1本&古本6冊

2012年1月2日(月)

8: 56Am
東プロシアの想い出。
札幌で、2回目の真冬の座禅道。朝。
9: 08Am
いたるところに神が。
読書中のギュスドルフパラパラ・・・『言葉』は、 相変わらず、おもしろい♪


ひ とりで、映画館へ。
10: 31Am
順番に海へ。
ふつか連続の、テレビ塔。
地下鉄駅から、てく&てく。


捕まったのは、ぼくのほうだった。
10:40Am12:27Pm
ディノスシネマズ札幌劇場
モーニング・ショー、\1200♪
あの映画館のシートは、まだあるのかな。『宇宙人ポール』
原題;『Paul』
監督;グレッグ・モットーラ
脚本;サイモン・ペッグ、ニック・フロスト
出演;サイモン・ペッグ、ニック・フロスト、セス・ローゲン、ジェイソン・ベイトマン、クリステン・ウィグ、ビル・ヘイダー、ブライス・ダナー、ジョン・ キャロル・リンチ、ジェーン・リンチ
カメオ出演;スティーヴン・スピルバーグ(本人の声)、コーリー・ウォーカー(漫画家)、ロバート・カークマン(漫画家)、ライアン・オットレー(漫画家)

巴里の赤い目。久保の眼
日 本で一番有名な宇宙人は、鳩山由紀夫だが、世界一有名なのはE.T.だろう。スピルバーグの映画『E.T.』は本国アメリカで1982年6月11日に公開 されて社会現象になり、日本でも同年12月4日に公開されるまでに半年も待たされた演出もあってか、まるで歴史的イベントであるかのように大騒ぎのまま大 ヒットとなった。私は当時、東京に住む20歳で、映画館でE.T.と書かれたピンク色の缶バッジをもらって、観た(笑)。が、観終えたら、なんじゃこれ は、『幸福の黄色いハンカチ』じゃんか!
デヴィッ ド・リンチの1980年の出世作『エレファント・マン』は公開当時、差別される側の哀しさを訴えた社会派として集客されたが、後のリンチ作品を知っている 現在から観ると、まったく反対に差別を見せ物にする状況の胸騒ぎを楽しんでいるリンチの視線に気が付く。このように、ついつい善意の視線で見てしまう観客 を優秀な監督は逆利用するのだ。その結果、『E.T.』は善意の反差別映画としてイノセントをテーマに大成功をもくろみ、思惑通りの巨大な利益を上げた。 E.T.バッジを胸に付けて最新の欧米文化に触れたといい気になっていた私は、自分がモヒカンのパンクスであることに気が付き、E.T.的なるものと自分 の表現領域の趣味の断絶にあぜんとなり、すぐにバッジをパティ・スミスに変えた(笑)。
閉 鎖された社会が持続可能であるのは、外部の価値観を排除できるからだ。その滑稽な排他性を外部は、さげすむ。それは、をたくだけではなく、宗教や国家もそ うであり、だからこそこの映画は、偏狭なクリスチャンやアメリカを笑い飛ばしても、いる。をたくをバカにして優越感に安住しているコンサバ野郎も、同じ閉 鎖された価値観の住人にしかすぎない、ってコトを悪意を持って(笑)指摘しているのだ。そして閉鎖された社会を解放するのは、概念としての「宇宙人」だ。 E.T.からT.P.P.まで、我々は優しく指を差し出す外部という宇宙人から狙われているのだ。そんな情報社会という宇宙時代に、宇宙人ポールは善意す らも相対化し、ケツをむき出しにしてマリワナをふかしながら、我々の既成概念を鍛えてくれる(笑)。


12: 59Pm
いろんなドアーズ。
かなり豊作♪
旧スガイでヲタク映画『宇宙人ポール』を観て
出てスグのところにあるアークスのラルズが
正月恒例の『古書&古本市』をやっているので
吸い込まれてしまった。
1: 03Pm
ピストルに弾は何発まで?
あ、『死の棘日記』!がーん。もう1冊。

当初は冷やかすだけで何も買わない予定だったんだけど、
村上春樹訳のフィッツジェラルドパラパラ・・・『マイ・ロス ト・シティー』の初版本が300円で売っていたのが呼び水になっちゃって、けっこー買ってしまった。
かなりいい本をたくさん手に入れられた。ブックオフでは並ばない本をいくつか入手できたのが良かった。
時間があれば、それだけで『共犯新聞』で特集をしたいんだけど。

あ、そうそう、ここで言いたいのは、この『マイ・ロスト・シティー』なんだけど、
この本を読んでいて私は初めて自分よりも年下の村上春樹、 を意識した。
今までずっと村上春樹は私よりも年上だったんだけど、この1981年の本は年下の村上春樹を意識させられた。
この本は「フィッジェラルド作品集」と副題があって、さらに「村上春樹 訳」と表紙に大きく書かれているから翻訳本だと思われがちだけど、
実は村上春樹によるフィッツジェラルド「研究本」な んだよね。
冒頭に彼のフィッジェラルド「論」が置かれている。
ふつーなら、訳した作品の最後に「あとがき」風に掲載するんだけど、こうして冒頭に置かれているのが、「研究本」宣言だなーと・感じたー。
で、この「論」には隙が無いんだけど、だからなおさら、 「青臭い」
その正面からの取り組みっぷりが、1981年の段階での彼の単行本には無かった、と思う。
実は私はこの本、今回まで買わなかったんだけど、この取り組み姿勢が、たぶん、この時期の彼にしてはやや売れなかったかもしれない。

たとえば、こんな文がある。

「憧憬」という言葉はあるいは奇異に響く かもしれないが、
戦争をも革命をも失くしてしまった青年にとって、崩壊は確実に、ある種の憧憬の対象であるはずだ、
と僕は思う。

この文章は中心になっている2行目の部分だけでいいのに、
彼は前後に、このように書かなくてはならない精神構造を持ってしまっていた、とゆーこと。
考えることは、孤独なこと、とゆー定義を思い出させる。作家になるまでの長い時間が解凍されている最中のような「青臭さ」。
それが私に彼を年下として感じさせたんだろうな。

さらに村上春樹は、2013年5月6日に京都大学で行った講演と公開インタビューで次のように語っている。

世界の終わりのコーヒーもう一杯。
全局の夜のニュースで即、報 道。
デビュー作パラパラ・・・『風の歌を聴け』から
短編集パラパラ・・・『中国行きのスロウ・ボート』
までは
ジャズ 喫茶を経営し ながらの執筆だったため、
「断片 をコラージュ するという書き方しかできなかった」。
店を閉めてからはまとまった時間ができ、
「物語」に軸足を置くようになる。



日本経済新聞 匿名コラム「文化往来」
2013年5月17日(金)
より
ろんぐ、ろんぐ、ろんぐ。
国民作家、だな〜(笑)。

そうなのだ。村上春樹が32歳の時に、ジャズ喫茶☆コーヒーの湯気。『ピーターキャット』を友人に譲り、小説家業に専念を開始したのが、
この『マイ・ロスト・シティー』が出版された1981年だった。
それからというもの、1982年、33歳『羊をめぐる冒険』で第4回野間文芸新人賞を受賞。
1985年、36歳、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で第21回谷崎潤一郎賞を受賞、と怒涛の長編”物語”作家=村上春樹が登場するの だ。

だから、もしかしたら『マイ・ロスト・シティー』とはフィッツジェラルド「研究本」である以上に、村上春樹の小説家「宣言」なのかもしれない。

ちなみに私の1981年は、札幌から東京へ引っ越し、バンドに専念を開始した年(笑)。


さて、この日に買った6冊の古本の中で一番先に読んだのは、北杜夫ねえ、ダフニス。『神々の消えた土地』。
翌日の1月3日、一日で読み終えた。

1972年に私の両親が地元にある唯一の本屋「キミヤ書店」から買い揃えた
(が、本人たちは一度も開いていない。飾りとして買っただけ。)全55+2巻の河出書房『カラー版 日本文学全集』の、
53巻が「阿川弘之・曽野綾子・北杜夫」で、その巻末の北杜夫の年賦に、

昭和24年 1949年 22歳 2千枚の長 編小説にいき なり着手し、大学ノートに書きはじめたが中絶。

と書かれているのが、彼が初めて小説に取り組んだものらしいんだけど、
それってどんなのかなー、と、北の愛読者だった1975年ごろの中学生の私はここを読んで想像していたんでした〜、
が、この『神々の消えた土地』ってのは、1992年になってから、その半分書かれたノートに後半を加えて完成&出版したもの。

私は、この本を1月3日に一日で読んでから、
ずーっと書斎の隅に積み上げてあった2006年の1月共犯書斎の多くの主の一部。月間ぜんぶの日本経済新聞
連載されていた「私の履歴書」の北杜夫をぜんぶ読んで&ラインマーカーを引いて、切り抜いた。

すると、同じページの下に渡辺淳一ちらりずむの彼方。『愛の流刑地』が連載されていた(笑)。
しかも、北の連載最終日の1月31日が同時に最終回。

リスト・マニアかつ、生産的な寄り道&記録が好きな私の脳味噌は、螺旋形の運動体だ。
てなワケで私は、この2日後の1月4日に渡辺淳一まさか読むとは思ってもいなかった本なのにね〜(笑)。『愛の流刑地』を旭川市のブック・オフで105円で買って&読んでいる(笑)。

で、『神々の消えた土地』は大家=北杜夫らしからぬ、読みやすい、ケータイ小説(←読んだことないけど。)的。
もちろん、22歳のときの処女作だからって理由もあるけれど。
でも、読み終えると、ボリス・ヴィアンこんな川のこちら側。『うたかたの日々』を連想させる純粋な恋愛小説で、いい印象を持った〜。
中に、ギリシア神話の「ダフニスとクロエ」が出てきて、高校生の恋人同士がお互いにそう呼び合ったり。
で、これはほぼ自伝小説なんだけど、恋人のことも本当なのかな?と思って
私は切り抜かずにとっておいた未読の2006年の1月月間ぜんぶの日本経済新聞に連載されていた北杜夫の「私の履歴書」を
あわててすぐに読んだんだけど(笑)、残念ながら書いていなかった〜。

で、戦時中の恋愛だから現在とはずいぶん違うんだけど、
知性のある(←この書き方も誤解呼びまくりだけど、無防備にこう書いちゃうけど、たぶん、もっと正確な言葉はあるはず。)男女が
偶然めぐりあって一目ぼれをしてから、お互いに遠慮しながら接近を止められない、ってのは、
恋愛とは違っても、私の書いた「むっくさん的な人」の生き方のメタファーだと思った。

ローラに花束を!→ ソクラテスのカフェで北杜夫が見つからない代わり?に、フィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』を買ったの。
で、主人公2人の、恋に落ち方にとてもリアリティを感じたのでした。

それと、脱線しまくりだけど、北杜夫の「私の履歴書」はユーモア満載。文体が硬質なぶんだけ、そのフザケぶりが憎たらしい(笑)。
私が中学時代に北杜夫に熱中した感覚はもう忘れたままだと思っていたけれど、北杜夫の「私の履歴書」を読んで一発で蘇った(笑)。
そして強く感じたのは、
私は北杜夫からユーモアを教わったのではなく、
自分の持っているユーモアが許されたと北杜夫を読んで中学生の私は実感したんだろうな、ってこと。

ローラに花束を!→ ユーモアを教わったのではなく、「自分の持っているユーモアが許されたと実感した」というの、よく解る。

ってな風に語りだしたら止まらない&読みだしても止まらないお宝6冊。

スクラッチという名前の街で。
買った時は気が付かなかったけれど、こうし て並べると、
テーマは理由よりもバスに乗ろうよ。ビートルズ以前の時代(=1950年代)における、表現する悩 み」、かな。

アヴァンギャルドという自然体♪勅使河原蒼風(てしがはら・そうふう、1900年12月 17日〜1979年9月5日)パラパラ・・・『ヨーロッパの旅』(1956.1.20、初版、東峰書房)定価\380→古本\500
考える鍵盤♪林光(はやし・ひかる、1931年10月22日〜2012年1月5日)パラパラ・・・『死滅への出発』(1965.10.8、初版、三一書房)定価\850→古本\500
新聞記者の上手な、はみ出し方♪竹岡和田男(たけおか・わだお、1928年10月21日 〜2000年9月4日)パラパラ・・・『感情的 批評と創造』(1971.7.1、初版、玉木書房)定価\880→古本\500
ノルウェイの巡礼♪村上春樹(むらかみ・はるき、1949年1月12日〜)パラパラ・・・『マイ・ロスト・シティー』(1981.5.10、初版、中央公論社)定価\980→古本\300
医者の言葉♪北杜夫(きた・もりお、1927年5月1日〜2011年10月24 日)パラパラ・・・『神々の消えた土地』(1992.9.20、初版、新潮社)定価\1262→古本\500
沈むゼロ戦。島尾敏雄(しまお・としお、1917年4月18日〜1986年11月12日)パラパラ・・・『死の棘日記』(2005.3.30、初版、新潮社)定価\2310→古本\1000

上記は出版された順番に並べたのだが、書か れた順番に並 べると、こうなる。
1920年
パラパラ・・・『マイ・ロスト・シティー』 フィツジェラルドのデビュー年に書かれた短編などと、訳者の村上春樹による評伝。
1950年
パラパラ・・・『神々の消えた土地』 著者が大学2年生、23歳の時に、戦争中の恋愛の実体験を書いた処女作の小説。
1954年 パラパラ・・・『死の棘日記』 著者の情事と妻の狂乱を書いた私小説『死の棘』の元となった、その当時の日記。
1955年
パラパラ・・・『ヨーロッパの旅』 まだ自由に海外へ行けなかった時代に、パリやカイロなどで創作や交流の旅日記。
1959年
パラパラ・・・『死滅への出発』 のちに巨匠になる現代音楽の作曲家が、クラッシックからロックンロールまで論じる。
1959年 パラパラ・・・『感情的 批評と創造』 創作と批評を北海道で続けることにこだわった新聞記者の、1970年までの評論集。

1920年代論はジャズ・エイジとして、1960年代論はビートルズ・エイジとして、などの時代論はよく語られるが、
魅力的な時期ではあるのに語られないのが1950年代論だ。
それが今、日本では映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に回収されそーになっているが、そこで取りこぼされるもったいない思想地図を、すくい上げたい。

1950年代はフランスでは第三者に支配されることに嘔吐できる才能。サルトル、アメリカではあれ〜ん!ビートニクであり、時代のBGMはぱらぱらぱらら〜♪モダン・ジャズだった。
日本では東大医学部を出た27歳の壁の中の天使たちよ。安部公房が、1951年に「壁 - S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞する。
そこから10年間は、60年安保へ向かってインテリと大衆の共闘を模索する激動だった。もちろん今の日本には、そんな統一感や熱さは、みじんも無い。
その推進力とは、60年安保闘争が何か巨大な解答を差し出してくれるのではないのかという期待であり、幻想であった。
60年安保は解答どころか、ある種のリセットを起こしたため、2年間の失語症を経て、
ようやくうぇ〜ん!久保AB-ST 元宏とこよなき誘惑者。ザ・ビートルズが産まれ、時代が加速される。
1950年代は素材が多いのに語られない理由には、そんな経過があるからかもしれない。


そんな魅力的な1950年代の素材が、今回、私が買った古本たちの偶然の共通テーマだった。

 
島尾敏雄のパラパラ・・・『死の棘日記』には、妻や長男の白い眼に憔悴しながら、若き日のここにも、ピーター・キャットが。吉本隆明たちが遊びに来たり、北村太郎の詩集を 読んだりしている。
これまた私が読み終えたばかりの小 田久郎ギターに深いエコーを。『戦後詩壇私史』で書かれている同時代だ。
改めて若き日の吉本隆明は詩人として認知されていたんだなーと実感するなど、知識のパースペクティヴな肉付け。


そんな島尾敏雄の高貴だが地獄の日々が、日本の知識人の貧乏生活の記録であるとすれば、同時期の日本の知 識人の超金持ち生活の記録が、コレだ。

開いたら、こぼれる。
本フェチ好きには、たまら んっ。
出版された1956年の2月1日から
都電が13円に値上げした。
現在は、160円だから、
当時380円の本は、
現在では4,677円か?

いや、この本、当時は
もっと高価な存在であっただろう。
それだけ、ブルジョア臭にあふれ、
それ以上に
凝りに凝った装幀。
こんな本、現在では無理だろう。

たぶん著者が家元をしていた
華道草月流のお弟子さんたちが
買った&買わされた
んだろーな(笑)。

私はこの本の存在すら知らなかったが、
稀代の歴史に残すべき書物だ。
すれちがいざまのサイン。
このページは、和紙に版画!
基本的には、著者が
ヨーロッパやカイロを
お花の展覧会をしながら
地元の文化人たちと交流した、
って本。

主なページは上に写真、
下にエッセイで、
現在のブログっぽい。
・・・てか、『共犯新聞』的(笑)。

が、そこはお花の家元、
本の細部にまで
こだわりすぎ〜。
ゆるい文章も魅力的だが、
たとえば紙質だけで
6つの印刷所に分けて印刷させている。
和紙と製本にいたっては、
個人が請け負っての手作業!
赤い記憶。
色の発光が美しい著者による5 枚の切紙絵 も。これは、「エッフェル塔」。
持ってこれるもの、持ってこれないもの。
「パリの水はまずいがパンはう まかった。」 とか、貴重な文化人類学の資料。
こっちだよ。
いきなり、「ドアノさん」と か、「ジャッ ク・プレベールさん」とか!すごすぎ。
もちろん「ドアノさん」って、写真 家の
ロベール・ドアノー
(1912年4月14日〜1994年4月1日)。

ドアノーが連れてきたモデルの
頭の上に生け花(!)をしたり、
「一日誰もいない森の中であそびたい」
と誘われて、
森の中の枯れた木で生け花をしたら
ドアノーが感動して写真を撮りまくった
とか、そんな話の連続〜。

他にも、「藤田嗣治さん」と一緒に、
「オードリー・ヘプバアンとか
ジャン・ギャバン」らが集まる
パーティに行ったり、
石井好 子さん」と
「モンマルトルの寄席」で
マルセル・マルソーの楽屋」に
遊びに行ったり・・・。

フレンチ好きには、たまらんっ。
午前2時のフランス人。
そう、「ドアノさん」って、こ の人。
今では伝説の写真家も、
この本では生き生きとした
同時代のアーティスト仲間として
書かれている自然体が、すてき♪
同じように伝説の写真家、
「ブレッソンさん」も登場する(笑)。
そんな伝説の人たちが、1955年のパリで勅使河原宗風と親交を深めるのも、
もちろん、彼が伝統と前衛を同時に表現するアーティストとして
パリの芸術家たちから尊敬されているから。

また、つい読み流してしまうようなところにも興味深い人物が登場する。
右のページは、戦後の最初のフランス大使である西村氏。
苗字しか書かれていなにので、つい読み流してしまうが、

大使は文学者でもあるから、むろんわたしの仕事にも理解はあるし、
劇の話などは特に力をいれて話さ れた。
いま書いているという支那風の戯曲のことで抱負を聞かされた」

なぁ〜んて書いてあると、私は、がぜん、「西村って誰よ?」と興味が湧く。

西村 熊雄(にしむら・くまお、1899年1月27日〜1980年11月12日)は、
歴史に残る大きな仕事をした日本の外交官。佐賀県出身。
1923年、東京帝国大学卒、外務省入省。
1947年、条約局長として、
サンフランシスコ平和条約、日米安保条約締結の事務にあたる。
その後、フランス大使になった時に、日本から来た勅使河原宗風と会ったのだ。
さらにハーグ常設仲裁裁判所判事、原子力委員会委員も勤めているから
『共犯新聞』が書いてきた歴史の表(?)で仕事をしてきた人と、言える。
想像力のリレー。
右上の写真で帽子を持っている のが当時の初 代フランス大使、西村熊雄。
まじめかっ。
条約局長時代の西村。
右上のフランス大使時代の
優雅なファッションとは
かなり違う敗戦国の官僚の姿だ。
ここから、麻生太郎先生につながるなんて・・・。
1951年8月31日、サンフ ランシスコ講 和会議へ
向かう機上の白洲次郎(左)と首相の吉田茂。
西村も条約局長として同行した。
この条約により、連合国による日本の占領は終わり、日本は主権を回復した。
彼らを羽田空港で見送った白洲次郎の妻、精進する手のひら。白洲正子
9月2日の毎日新聞に寄せた手記「講和を迎えて――夫を桑港に送って」で
「本当の敗戦を味わうのはこれか らだ」と、 指摘している。
白洲次郎は政府の終戦連絡事務局次長として
マッカーサーらと渡り合っていたが、この時は東北電力の会長だった。
西村が後に原子力委員会委員になるのと合わせて考察すると、
日本の原発政策は、主権回復との連続性の果てにあることが想像できる。
また西村は、1962年10月7日 に
ホテル・オークラにて挙式した
小和田恆&優美子の媒酌人を
妻のとよと務めている。
現在の皇太子徳仁親王妃・雅子の親。
おほほ。
結婚当時の優美子。
美人だ(笑)。
チッソ元会長・江頭豊の長女。
1938年生れ。
さて、西村はこのように日本史の重要な脇役(?)なのだが、
先に引用したように文学者でもあるのであり、その守備範囲は戯曲だ。
特に現在でも読み継がれているのが、
『ジロドゥ戯曲全集 第2巻』(白水社、1957年)収録の梅田晴夫との共訳「間奏曲」。
尿毒症のため、パリ1区のホテルで急死。61歳。ジャン・ジロドゥ(1882年10月29 日〜1944年1月31日)は、
フランスの劇作家・小説家だが、外交官でもあったことも西村を刺激しただろう。

ジロドゥは、外交官としてナチス・ドイツに対抗する。
さらに1940年〜1944年のナチスからの被占領中は、レジスタンスに協力し、
ルイ・アラゴンらとも通じていた。
ナチス占領末期のパリに尿毒症のため、
パリ1区のホテルで急死。享年61歳。

西村は同時期に外交官だったから
リアルタイムにジロドゥの活動も知見していたと思う。
しかし、日本は親ナチスかつフランスは敵国だったのだから、
敵国の同じ外交官の作品に興味を持っていた、
とゆー事実は私の想像力を膨らませる。
文学の彼岸。
初版当時の『ジロドゥ全集』。 現在は新装版 で入手可能。演劇人のバイブル。
さて、私が正月にこの勅使河原蒼風の本を読み終えて、10カ月後。日本経済新聞が2週に渡っ て下記のような豪華な特集をした。
すでに忘れ去られていた人なので、まるで本を読み終えた私のためのようなタイミング♪
文化の花と根。
2012年10月28日(日) と、11月4 日(日)の日本経済新聞は、見開きカラーで特集を組んだ。文中のピンクのマーキングは私が引いたもの。
君はぼくの絵を描く。
保存不可能な芸術である生け花 を選んだ表現 者の境地を考察する。
ぼくは別のぼくに、変わる。
いずれも、今、観ても超アヴァ ンギャルド。 右下は、ガラスの花瓶の中に卵!
レコードの針を変えよう。
ここまで来ると、生け花を通り 越して、彫刻 だ。
私は先ほど、つい「 すでに忘れ去られていた人」と書いてしまったが、
この連載の最後の章で、その裏付けのようなことが書かれている。

「しかし、国内の美術界においては主流芸術とは見なされなかった。
晩年に 脱税事件で摘 発されたこともあり、
蒼風は「色物」の評価を脱出できないまま、 79年に78歳で没する。」

実際、私がリアル・タイムで蒼風を認識したのは、1970年の脱税事件だけだった。
それは、寺山修司が晩年に「のぞき見事件」で印象付けられたのに似た不幸だ。

不幸は続き、『ヨーロッパの旅』で蒼風に同行し、
その美しい容姿の写真も数多く掲載されている草月流の後継者であった娘の霞も
脳腫瘍で何度かの入退院を繰り返したのち、父を追うように翌年、亡くなった。

しかし、それでも&なぜか、日本経済新聞は、突然、今、蒼風の特集を組んだ。
特集の最後は蒼風自身の言葉で締めくくられている。

若(も)しこの世に植物が一つもなかったとしたら・・・土を活けるだろう

ここまでの境地に達した表現者を無視して過ごすことはこれ以上は無理だ。
それは、私にとっても、日本にとっても。
そして、世界はとっくの間に蒼風に最大のリスペクトを送っていた。
その記録が、私が読んだ1955年に書かれた『ヨーロッパの旅』だったのだ。


てな具合に、私が買った古本が、現在に思わぬよみがえりをすることがあるが、
もっとビビったのは、
私は林光の本を今回初めて買ったのだが、買った3日後に、林光が 死んだのだ。
しかも私が買ったのが作曲家である彼の片手間の(?)処女著作であり、書名が『滅への出発』とゆーの も、ドキリとさせられた。
もっと林を。
まるでキーワードを散りばめた ような死亡記 事に踊る言葉たち。
1965年 に出版された『死滅への出発』は、
1959年から5年間に書かれた評論などが5部の問題別に並んでいる。

この本は副題通り、「評論集」なのだが、
リアル・タイムの芸術を真摯に考察する20歳代後半の若者の視線は、
半世紀以上たち、ましてや死後に読むと、
そのまま告白的な自伝として立ち上がってくる。

本人は意識していなかったのだろうが、
まとめて読むこと、どの批評もが同じテーマに向かっている。
その向かい方が、悩みながら、戦いながら、なのが若者らしくて良い。

私が感じたそのテーマとは、
新しい 世界を目指す時に先立つ旧・左翼の負の遺産の超克、だ。
彼の後の世代は、自らを「新・左翼」と名付けてカテゴライズするのだが、
まだ林光の世代は、戦後の左翼の可能性がありがたがられていた。
だから、林のように考えるだけで、「戦い」に見えてしまうのだろう。

今まで『共犯新聞』に登場してきた作家や 思想家を世代順に並べてみて、時代ごとの差異と変遷を整理してみよう。

1924年生まれ
愛国少年の科学的左翼人生。
吉本 隆明


21歳の時
1945年
敗戦体験型左翼
1927年生まれ
医者の言葉♪
北 杜夫

21歳の時
1948年
旧制高校型左翼
1931年生まれ
考える鍵盤♪
林 光

21歳の時
1952年
血のメーデー
1935年生まれ
ドイツの森よ、大学のジャングルよ。
柴田 翔


21歳の時
1956年
六全協型左翼
1938年生まれ
こうして時は過ぎてゆく。
青木 昌彦


21歳の時
1959年
ブント新左翼
1949年生まれ
ノルウェイの巡礼♪
村上 春樹

21歳の時
1970年
全共闘新左翼

上記の表で私は、あえて雑に「左翼」とゆーカテゴライズを用いたが、もちろん、ここで言う「左翼」とは、旧態を疑える能力のことだ。

特に、北杜夫を「左翼」とカテゴライズすることに違和感を感じる向きも多いだろうが、そう定義すれば納得していただけるだろう。

で、ちょっと「左翼」の歴史に詳しい人向けに上記の表をもっと分かりやすくするのならば、「1927年生まれ」の欄に北杜夫と同年に生まれた
アヴァンギャルドという自然体♪勅使河原 蒼風の長男、だって君は今でも。勅使河原 宏(てしがはら・ひろし、1927年1月28日〜2001年4月14日)を置けばよいだろう。

宏は、1944年東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画学科に 入学。3年後に洋画科に移る。
つまり宏は、考える鍵盤♪林光の大学の4年先輩であり、この4年の差がそのまま「左翼」の歴史の差とな る。

宏は、壁の中の天使たちよ。安部公房や詩人の関根弘(せきね・ひろし、1920年1月31日〜1994年8月3日)らによる 前衛芸術の会「世紀」に参加。
在学中、 日本共産党に近づき、1951年の五全協以降の武力闘争路線のもとで山村に住むフランソワは、ピアニスト?山村工作隊に参加し、
東京都小河内村に建設中だった小河内ダムの破壊 工作を目指した小河内工作隊に配属された。
美大生である宏の任務は、奥多摩地域の農民向けに発行されたガリ版新聞に版画を刷り入れることであった。
工作隊のメンバーには、のちの共産党の国会議員・津金佑近や、映画監督の俺の声が聞こえるか?土本典昭などがいた。


宏は卒業後の1953年、友人から美術映画『北斎』の企画を持ち込まれ、これを監督したことから映画界に入る。
この時期に書かれた父の蒼風世界は花か?『ヨーロッパの旅』にも、ヨーロッパから宏への手紙が何度か引用されているが、
そこには映画の制作に夢中な宏へのアドバイスが中心だ。
しかし、実は同時にあまりにも過激な左翼活動から、ようやく映画に興味が移った長男の姿に安心している父の心情が裏読みできるのである。

宏は1964年、勅使河原プロを設立。安部と組み、『砂の女』で、カンヌ国際 映画祭審査員特別賞など世界的に評価される。
さらに、1966年アンダー・カバー・オブ・ザ・ナイッツ!『他人の顔』カー・レースの記録やっぱ、映画館で観たい♪『暴走』、1968年『燃え尽きた地図』 と傑作が続くが、
1972年の『サマー・ ソルジャー』以降はしばらく映画を離れ、福井県宮崎村の草月陶苑で越前焼の作陶に打ち込んだ。
それは1970年に父が脱税事件を起こしたことも影響しているのだろうか。
私の世代にとっては、1989年に久々の 劇映画『利休』で復活し、1992年に宮沢りえ主演で『豪姫』を放ったことが印象的だ。
しかし、その巨大な才能を惜しまれながら2001年4月14日、逝去。享年74。


さて、勅使河原 宏より4歳年下の林光は、宏の世代が反面教師だったのか、過激な破壊活動はせず、純粋な左翼理念にあこがれるが、
1952年5月1日の思想とは、暴力なのか。『血のメーデー事件』で大きなトラウマを負う。
林光は幼少のころから天才作曲家と呼ばれ、家系も宏と同様の有名な芸術家一族なのだが、この事件がきっかけで、
大学の方針を批判し、翌年、中退する。
すでにクラッシック作曲家として定評があったので、大学卒業と言う権威を否定したかったのだろう。
その直後から、交響曲、合唱曲、バレエ音楽などを多作し、1956年には第4回尾高賞を受賞している。

その時期に書かれたのが、私が古本として買った評論集『死滅への出発』だ。
たとえば、『共犯新聞』読者には気になる(笑)こんな題の評論も掲載されている。

ロック夜明け前。
初出は雑誌『芸術生活』 1963年7月号。まだ日本とアメリカにビートルズが知られる1年前のこと。しかし、すでにロックの可能性を嗅いでいる。
さて、私にとって大きな興味があっ たのは、
小 田久郎ギターに深いエコーを。『戦後詩壇私史』で書かれていた、
林光が作曲した60年安保のデモ隊が歌った賛歌『たちあがれ』を
林自身がどう回顧し、どう評論していたか、だ。

しかも作詞をしたのは、
勅使河原 宏と一緒に前衛芸術の会「世紀」を組んでいた関根弘だ!

そして、安保条約を締結した条約局長が、勅使河原蒼風と
パリで交友したスネークマン・ショーでは、ありませぬ。西村熊雄なのだ。

この螺旋形の人脈に偶然以上の、
思想の秘密を感じるのは私だけではあるまい。
言葉と音は、共犯が可能か?
小田久郎『戦後詩壇私史』で は、このように書かれている。


『戦後詩壇私史』は、詩の立場から、政治活動歌「たちあがれ」の限界を笑う。
しかし、林光は歌詞ではなく、曲で闘ったのだから、林の限界は『戦後詩壇私史』の守備範囲を超えている。
そこが音楽の可能性の中心だ。


女王陛下の青い薬びんを、一番うしろの君に。
1960年6月 15日 5:35Pm、国会の前。
たちあ がれ

作詞;関根弘
作曲;ことぶき、ではなく。林光

たちあがるときだ
たいせつなときは、いま
こどもたちの未来のために
憎しみの火
燃えあがらないうちに
ひと足早く
絶やしてしまうのだ
たて たて たちあがれ!
寒冷前線は時間を固有のものにしたのか。
市民は、負けた。


さて、林自身は、60年安保から5カ月後の1960年11月10日に、こう書いている。
ずっと、夜明け前。
熱い。熱すぎる〜。こんな姿勢 で曲を書くことは表現者としては幸福でもあるだろう。しかし、当時の当人にはその余裕は無かった。





このように私は6冊の古本を読んだ。
そしてそれは、
私が本を読む理由、のような読書体験だった。



古本市の獲物をぶら下げて、三越デパートへ。
私への某協会のギャラが、三越の商品券だったから(がくっ。)。

1: 43Pm
腰から、指へ。
どうも、物欲を刺激してくれない。
三越で一 生懸命
働いている皆さんには申し訳ないが、
私は三越にいつ来ても、
特に買いたいモノが無い。

考えた末(?)に
ベルトを買うことにした。

ちなみに、左右の写真に写っている
ベルトとは違うベルト〜。
1: 44Pm
親鸞も、パンクスだったー。
パンクのゴッド・マザーの商品も。
絶賛宅浪中の 長男と合流して、
ダイエー東札幌店のラーメンとは、一杯のフル・コース。『福 八』
ラーメン。
3: 00Pm
ラーメン・ヘアーのラーメン学。
私は、広東ラーメン、800円。
長男を札幌に残し、
私は沼田町へ帰宅。


そして、実はこの日、私が高校を卒業して32年目にしての、初めての同窓会があった。
んが、私にとって高校時代とは、無かったことにしたい3年間(笑)。
なもんだから、どーも体が行きたがらない。
5Pmから始まるから、5Pmごろには自宅に戻ったのだが、どーも体が行きたがらない。
でも、数人の同級生から熱烈に参加を誘われていた。・・・が、どーも体が行きたがらない。
それで、5Pmから始まっているだろーから、2時間過ぎた7Pmには終わるだろ〜☆と、6:45Pmごろ同級生に電話してみた。
「久保です♪いやぁ〜、今ごろ自宅に帰って来てさぁ、もう同窓会、終わるよね〜。ごめんね〜。じゃ、また!」
と、言って電話を切ろうとしたら、
「あ。久保くん?だいじょーぶだよ、7時30分までやるから。おいでよ〜♪まってるよ〜♪」
・・・だって。


7: 1 5Pm
日に3度の水も、う・ま・い。
う〜む。なんか、見覚えがあるような、無い よーな皆さん。
で、行ってみた。

正面に大きく・・・「絆」。
がくっ。
同級生の書家、三上くんが書いたものだ。

こっそ〜り、中に入ろうとしたら、
元気よくトイレに向かう男2人組とぶつかりそうになり、
「あ。ども。」
だが、相手の名前が出てこない〜。
お互い様か(笑)。

中に入って、しばらく、ボーッとしていると、
すげーさわやかな笑顔でかけよってくる男性が、
「よっ!久保くん、トップ当選、おめでとー!」
と、握手をしてくれた。
「あ、はい(笑)。」

どーやら、3年生の時のクラスごとに座っているようだ。
こっそり、自分のクラスの席へ行ってみようか(笑)。
あ、 知ってるヤツラだ(笑)。

座ろうとしたら、同窓会の幹事が、
「久保くん、スピーチをしてよ。みんな、したんだからさー。」
と言うので、はい&はい、と、
「えー、みなさん、憶えてないでしょうが、久保元宏です。
私は高校時代、勉強もスポーツもできず、
いつも新聞会で悶々と記事を書いていました。」
と、言うと、
「新聞会(笑)!」と失笑する声がどこからか聞こえたら、
あらま、当時の新聞会のメンバーが遠くに座っていた。
が、この日、その人に挨拶すらしなかった私なんだけどー。
7: 17Pm
ジョンとジョージ?
ノザパーに、小平くんじゃんか。
7: 25Pm
透明人間希望。
なんかメッセージを書くように言われて、書 く(笑)。
空 いてる席に、そ〜っと座ったとたんに、
男がひとりズカズカやって来て私の隣にドカンと座る。

「まいったな〜。何か話さなきゃならんのかなぁ〜。」
と、思った瞬間に、その男はまくしたてた。

「俺は今日、久保くんに会いに来たんだ。」
「あ、はい。」
「高校の学校祭のクラス対抗の応援団長のことさー。」
「あー。そんなの、あったような・・・気がする。」
「あれ、久保くんが俺に、やれ、って言ったんだよなー。」
「は?」・・・完璧に忘れている。
「応援団長ってさ、長ぁ〜い口上を言うじゃんか?」
「ああ。あのトイレットペーパーみたいな長い巻紙を読むやつね。」
「そーそー。それを、応援団長が書かなきゃならんのだけどさ。」
「書けばいいじゃん。」
「それが俺、書けないから応援団長を断ったんだよ。」
「それは、どうも。」
「そしたら、久保くんが俺のところに来て、こっそり・・・」
「え?」
「口上は俺が書くから、応援団長はお前がやれ、って言ってさ。」
「へぇー。」
「で、久保くんに長い口上を書いてもらったんだよ。」
「そんなコトあったんだ・・・。」
「そのおかげで、その口上が評判で、応援団合戦で優勝したんだよ。」
「あら、ま。」
「久保くん、ありがとう!」
「ど、どうしまして。じゃなくて、どういたしまして、かな?」

それを聴いていた他の男2人が、
33年前に私が書いた応援団長の口上を言い出した。
「耳の穴をかっぽじいて聴きやがれ〜」・・・って(恥)。

よく憶えてんなー。
7: 26Pm
何書いてんだ、おれ?
なるべく、存在感を無くすようにしている 私。
7: 26Pm
まだ書いてるしー。
存在感を消すことに成功中の私。
そんなワケで、同窓会の1次会は7:30Pmに 終わった。
私が会場にいたのは、15分間。
酒も呑まなかったので、会費はとられなかった(笑)。
数人から2次会を誘われたが、ちゃんと断って、帰宅。
7: 26Pm
なるほど〜。
みなさん、変わっていない、よーな気がいた します(笑)。
7: 27Pm
回り舞台〜。
みんな、たくましく自分の場所を築いている。
7: 30Pm
それぞれの透明な石。
最後の締めは、応援団長が自分の言葉で (笑)。









宇宙人ポールも、
古本の中の青春も、
同窓会の私も、
みんな異邦人。




誰にも似ていないヤツと再会する時、
記憶は海の粒のように
つながりながら
何にも似ていない螺旋形を描く。




そして記憶はいつも
過去のためではなく、未来のために。
9: 40Pm
オクトパス・ガーデンのワイン。
自宅にもどって、海ぶどうで日本酒♪


が、
しかしか・・・・・・・・・死?し!


カラオケおじさん、かっ?・・・あ、テルコーもいる。
こ、これじゃー、すげー喜んでいるオジサンだぁ〜。
その月末、
同窓会の幹事から、この日の集 合写真が送られてきた。
集合写真は、会の冒頭に撮影されたようだ。
大勢が並んでいる中、
写真の右上に、はめ込みで
満面の笑顔でマイクに向かって話している私が・・・。
目立たなくするつもりが、これじゃ、一番目立つじゃんか!

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2013年7月9日 火曜日 1:54Am)



グスタフの湖畔で歌曲を。

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