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moto_kubo@hotmail.com

2011年
11月
映画
た びたび
他にも何か書くことあった気がするのだけれど忘れてしまったからもう出す。
脳内共犯
としての
映画館

脳 味噌共犯 movie days (and movie nights !!)  暗闇の私。≒ 私の暗闇。

2011年11月27日(日)
I went down to the crossroads
螺旋形の字路

2011年11 月27日 日曜日 午後2時13分談志んぐ・くぃーん。気温1.8℃
←■まだ考えなければいけないことが、いっぱいあるのに、時間は過ぎるよねー。でも、「過ぎる」と「終わる」は、違うよね。



11月27日 とは、
1896年甘いニヒリズム。ニーチェを原作にしたリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」が、ドイツのフ ランクフルトで初演 され、
1931年フィギュアスケートは、すべらないけれど、お口がすべる。毛沢東が主席となり、中 華ソビエト共和国臨時政府が、樹立した日。

この1896〜1931年は、浅田彰が言うところの、イギリ スが先行した「自由貿易で強いものが勝つという帝国主義」を追い上げようと、
ドイツが「ナショナリスティックな心情に裏打ちされた国家装置による上からの統一」を進め
、世界地図に国 家と いう概念が色濃く登場する時期だ。

さらに、これに先行して1870年前後、世界各地では、
アメリカ
1865年
南北戦争による国家統一
日本
1868年
明治維新
ドイツ
1871年
普仏戦争によるプロセイン国家の勝利
イタリア
1870年代
国家統一
と、フロンティアに個性的な文化がある地域が、他国に対する相対的な対立軸の国家へと変貌する準備がなされてきていた。

内なるフロンティアの消費の終焉が国家の誕生ならば、次に国家が行ったのは外なるフロンティアへの拡大であった。
それが、「帝国主義」による「植民地」への「戦争」である。
国家とは、少なくとも初期の段階は、戦争が必要な装置であった。
戦争の理論としてナショナリズムは有効であり、国家との親和性も高かったのだ。

これら西欧諸国や日本に対して、中国はまだナショナリズムの意識が無かった。
明が清になった1644年以来ずっと、中国は少数の満州族が多数の漢族を支配してきた。
しかし、1840年に清がアヘン戦争でイギリスに負けたころから、
清朝の官僚の無能と腐敗に、中国の青年たちは、清朝を打倒しなければならないという「民族主義」をいだくようになる。
それは、欧米列強に対抗する国民意識よりは、まず満州族=清朝を打倒し、漢族へ権力を戻そうとする「滅満興漢」の民族意識だっ た。
なんとなく、日本の幕末の「尊王攘夷」に似てもいる。
清朝が強制する辮髪を革命運動家は切り、徳川幕府の風習であるチョンマゲを薩長が切ったところも、似ている(笑)。
んで、柄谷行人は、満州族VS「漢民族という意識は、ネーション(=国民、国家。)を 構成するどころかそれをさまたげるもの」と見抜き、
だからこそ、日清戦争(1894年7月〜1895年3月)に 負けたあと ではじめて中国にナショナリズムが出てきた、と説く。

1900年の忍者かっ!義和団の乱は、「満族か漢族か」の国内の民族紛争より重大な「外国からの侵略」という危機にさらされたために、
「滅満興漢(満族から漢族へ)」のスローガンに代わって、「扶清滅洋(清朝を扶け、西洋を滅ぼす)」がスローガンとして叫ばれて起きたの だ。

そんな清朝打倒の若い活動家が、秀才は、切れる。徐錫麟(じょしゃくりん、1873年 12月17日 〜1907年7月6日)と、
秋瑾(しゅうきん、1875年11月8日〜1907年7月15日)だった。
ふたりは、紹 興酒まぁ、ひとつ。グビグビ。の産地として有名な紹興の出身である。
また、近代中国の文豪であるピッチャーが手にしている白い粉は、アヘンじゃなくてー?魯 迅(ろじん、1881年9月25日〜1936年10月19日)も同じ紹興の出身であり、
さらに偶然、この3人は同時期に日本に住み、交流もしていた。

徐錫麟は、1903年に日本を訪問し、大阪博覧会を見学し、東京に滞在し、1904年に上海に戻った。
秋瑾は、夫と2人の子を捨て、1904年に日本を訪問し、1905年2月に帰国して徐錫麟と会い、再び日本に行き、12月に上海に戻っ た。
魯迅は、1902年2月に横浜に入り、1904年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学し、1906年3月に退学し、 東京に住み、 1909年6月に帰国。

1904年に3人が日本で会っていたとすれば、徐錫麟は31歳、秋瑾は29歳、魯迅は23歳。

当時の日本における中国人リーダーは、1895年の日清戦争直後に亡命した38歳のタフな長いお茶会へ、ようこそ。孫文(そんぶん、1866年11月12日〜1925年3月12日)。
孫文らの日本での中国革命運動に対する取締りが 強化され、
1905年11月2日に清からの「性行不良」留学生の入学を禁止する規定が作られた。
「性行不良」に革命運動も含まれるとして、授業のボイコット運動が起きた。
その留学生会館での集会で、秋瑾は全員帰国を主張し、
いつも身に付けていた短刀を演台に突き刺し、→
そのための一斉退学に反対する学生達に「死刑」を宣告した。

しかし、反対運動をしていた留学生も、秋瑾の過激な言動には反対した。
魯迅も、秋瑾が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃したが、
賛成しなかったために、秋瑾から死刑を宣告された。

留学生の全員総帰国を主張した秋瑾は、1905年12月に帰国した。
どすこい。
きゃぁ〜怖いっ。任侠映画かっ。

このあまりにも劇的な秋瑾は、とーぜんのように 映画化されている。

ナイフも手紙のうち。
定評のある評伝。
秋瑾は、信じられるものが、あまりにも少なすぎるから。リルケ(1875年12月4日〜1926年12月29日)と同じ年 に生まれた。
だから、とゆーワケではないが、革命家であり、詩人でもあった。

少女時代から、杜甫を愛唱していた。
そのロマンチックなストイックさが、時代の閉塞に向かったときに
過激な行動に結びつくのは古今東西のパターンかもしれない。

有名な写真は、短刀を手にしている。
まだポートレイト撮影が貴重であった時代に、
あえて、こんなポーズをカメラに向けることで、
彼女の激しさは現在にも伝わってくる。
そうじゃ、そんなことがある。
現在、入手しやすい評伝。

そして帰国した秋瑾は徐錫麟と合流し、当時、連発で行われた反清朝運動のひとつである、1907年7月の安慶事件を起こす。
この事件を、魯迅はのちに秋瑾の決起を小説「薬」(1919 年)で、徐錫麟の決起は小説「范 愛 農(ファンアイノン)」(1926 年)で、描く。


そして、
こーゆー本がある。

当時、この事件は
日本でも大きく報道された。
啄木は新聞社で勤めていたので、
よく知っていたはずだ。

当時の啄木の軌跡。
1907年5月5日函館へ到着

9月13日函 館から札幌へ

9月27日札幌から小樽へ

1908年1月21日小樽から釧路へ

4月24日釧路から函館経由で東京へ

4月 28日東京に着き与謝野家へ
裏庭の杉木立よ。透明な石をもて終る。
内田弘『啄木と秋瑾 啄木歌誕生の真実』
(社会評論社、2010年)
内田 弘(うちだ・ひろし、1939年生まれ、専修大学・名誉教授)の
論文パラパラ・・・「啄 木の秋風、秋瑾の秋 風 ― 石川啄木の回心と明治日本論 ―」
(『専修大学社会科学研究所月報』No. 540 2008年6月20日)
は、ネットで読むことができる。
学者らしい堅さはあるが、なかなかスリリングな内容だ。

内田は啄木と秋瑾の共通点として、
1.詩人
2.新聞への徹底した関与
を上げている。

秋瑾は、決起の 6 ヶ月前、1907 年 1 月 14 日に
中国最初の女性向けの新聞『中国女報』を口語文で創刊している。
その巻頭で、下記のように宣言している。
「中国の女性たちを、
なにも分からないままに据え置く《暗黒》から脱出するために、
この新聞を発刊する」
「世論を左右する力を備え、国民を監督する責任を担うものとして、
新聞を措いて何があろうか」

また、秋瑾の辞世歌は、陶澹人の漢詩「秋暮遣懐」の一節、
「秋雨秋風愁殺人(チュウ・ユィ チュウ・フォン チュウ・シャ・レン)」で、
意味は、「秋雨、秋風、厳しい季節の秋、愁いは深まり、耐えがたい」。
そして啄木は秋瑾が死刑にされた2カ月後の9月に、
函館の北門新聞社の記者として、『北門新報』に「秋風記」を載せる。


このように国家が個人に染み込んでくることにまず違和感を感じるのは、哲学者や文学者などの繊細な魂を持つ思索家や表現者だ。
ニーチェは『反時代的考察』(1873年〜1876年)で、
「普仏戦争に勝利したのはドイツの文化ではなく、国家であり、国 家的方法にすぎない。」
と、ドイツ人ではなく、ヨーロッパ人として書いた。
普仏戦争以前のドイツは、青い花を、君のお布団に投げ入れたくて。ノ ヴァーリスやマルクスもいつも兄弟だから、貧しいお前と森で愛し合おう。グリム兄弟に代表されるように、
国家意識よりも、整理されていない≒消費され尽くされていないフロンティアとしての、大地や森林などの神話的な過去が共同幻想だった。
編集も文学のうち。国木田独歩(くにきだ・どっぽ、1871年8月30日〜1908年6月23日)らが北 海道の森にロマンを求めたのも、同じ嗜好だ ろう。
独歩の死が1908年という国家主義の敷衍が進む中での時期であったのも象徴的だ。享年36歳。
独歩は25歳の1895年9月に、美貌と教養を兼ね備えた進歩的な17歳の恋人セブンティーンは、地獄の季節。佐々城信子との新しい生活を夢見て、北海道に渡る。
知人の内村鑑三を通して、札幌農学校教授の新渡戸稲造から開墾するのならばと、空知川の流域を推薦してもらう。
独歩が新天地を探して歩いたのは、滝川市、歌志内市、赤平市など空知川の周辺で、私にとってはご近所なのだが(笑)、
独歩は開拓民になるには病弱すぎ、たった12日間で東京へと戻った。
しかも、この北海道行きに美少女・信子は着いてこず、何度も手紙で呼んでも無視された。その後、結婚するが、たったの5か月で離婚。が くっ。
この独歩を愚かだ、甘いと真面目ほどバカ。笑うことも可能だが、この精神が日本文学 の黎明期の美しいエンジ ンとなった。
啄木は独歩の死にショックを受け、日記に次のように書いている。

「国木田独歩氏、わがなつかしき病文人がついに茅ヶ崎で肺に斃れた(昨夜六時)と聞いた。驚いてそのまま真っ直ぐに帰った。
独歩氏と聞いてすぐ思い出すのは自然主義という闘い。『独歩集』(1905年)である。
ああ、この薄幸なる真の詩人は、の 間、人に認められなかった。認められてわずかに三年、そして死んだ。
明治の創作家中の真の作家――あらゆる意味において真の作家であつた独歩氏はついに死んだのか!」

啄木が書いた独歩の「十年の間」とは、北海道から戻った1895年から1905年までで、「認められてわずかに三年、そして死んだ」のが 1908年。
そして啄木も独歩と同じ肺結核で、4年後の1912年に独歩よりも10歳若い26歳で死ぬ。

さて、さらなる余談。
美少女・信子は、医師・伊東友賢(のち佐々城本支)の不倫関係であった星艶(のちサフラジェットシティの夜明けの口笛。佐々城豊寿)との私生児だった。
母親の佐々城豊寿は当時でも先進的なウーマンリブの運動家で、廃娼運動、節酒運動、女子参政権を求める運動を組織した。
そんな豊寿にとって長女の信子と独歩との破たんした結婚生活は、彼女の思想と大きく矛盾していた。
娘の破婚によって豊寿は、娘の情操教育を誤ったものと世間から糾弾を受け、雪深い北海道へ隠棲した。
同行した信子は、そこで独歩との間にできた浦子を1897年1月に産み、浦子を里子に出して3年間、札幌に住んだ。
空虚な理想で北海道へ行きながら、たった12日間で挫折した独歩と、その遠因で思想が否定されて北海道に隠棲することになってしまった豊 寿。
なんという皮肉。

もっと有名な文壇話は、信子は有島武によって1911年から連載の小説『或る女』のモデルに勝手にされ、1918年に刊行。
しかも、なんとヒロイン早月葉子が死んでしまう結末にした。信子は有島に抗議に行こうと思っていたが、1923年有島は恋人と情死してし まう。
信子は、戦後の1949年まで生き延び、母の念願だった婦人参政権も経験する。

ここで国木田独歩が登場したのは、もちろん『共犯新聞』的つながりごっこ脱線だが、日本が国家へ向かう過程での重要な思索者として、だ。
自動車会社が完成品を作る前に「試作車」を作るように、歴史の過程で「思索者」が登場する。
日本における明治とは、国家への試作の時期であるが、そこに違和感を感じる思索者が登場する。
キーワードは、「腹が減っては、いい草ができん!キリスト教」、「自然」、「国家」であり、それぞれの代表作は下記だ。
黎明期
1886年
高田半峰『当世書生気質の批評』
キリスト教
1895年
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
自然
1896年
国木田独歩の北海道と恋の挫折。
国家
1910年
石川啄 木パラパラ・・・『時代閉塞の現状』

そして&もちろん、上記の表は時代が進むにつれ、より深く優れた思索となり、啄木は日本の近代批評の到達点と言える。

人間は思索する時に、よりどころがあれば楽になる。
裏返して言えば、ペラ&ペラと楽に語る思想なんぞ、ただ単に「よりどころ」を語っているだけで、自らを語っているワケではナイのだ。
で、あるから、時代のキーワードはまず「よりどころ」として登場し、より優れた思索者によって乗り越えられて消費される。
「キリスト教」がそうであり、次に「自然」であり、さらに「国家」へと、より巨大な=楽ちんな「よりどころ」へと交互に登場したのだ。
そして、1910年の段階で、「国家」はあまりにも巨大な「よりどころ」であり、ほとんどの思索者は「よりどころ」にしたままで思考停止 に踏み込んだ。
そうではなかったところに、啄木のスゴ味と現代性と永遠があるのだ。

また、この表で、独歩のみ作品ではなく体験であるところがユニークだが、体験が時代の思索になるところが挫折した本人には恐縮だが、おみ ごと♪

野口武彦は「近代日本文学と「批評」の発見」(1991年)で、独歩のみじめな北海道(=「自然」)と恋の挫折を、こうまとめている。
近代文学史上、何がむしろ問題であるか というと、キリスト教から離れた人々な のである。
理由はいろいろある。
外国人宣教師がいやになったというのもいるし、当の内村鑑三についてゆけなくなったというのもいる。
その中から三人代表を挙げると、
肉体と言葉の精進としての、恋。北村透谷国木 田独歩岩野泡鳴と いうグループがおのずとできあがる。
内村の「信仰」プロパーに対して、この三人は、なんらかの理由で信仰を棄てることによって、「批評」プロパーに達したのである。」
明治のキリスト教的恋愛の特質を突出的に、あえていうなら悲喜劇的に体現し たドラマが、いかに独 歩という文学者を誕生させたかは、

生前未公開の日記『欺かざるの記』に赤裸々に書きたどられ ている。
独 歩にとって「女」の喪失は、「自然」の欠落であり、ひいては「キ リスト教」からの自 己切断であった。」

ちなみに、ドイツ出身のアメリカの政治哲学者、ハンナ・アーレント(1906年10月14日〜1975年12月4日)は、
帝国主義時代を、アフリカ分割を協議したベルリン会議の1884 年から、1914年の第一次大戦の終戦までの30年間と定義している。


3:47Pm
ケント・デリカットかっ。
次女の視力検査。レディ・ガガかっ。
さて、そんなワケで(?)
私の2011年
11月27日
〜。
4:24Pm
どぉもぉ〜。ぼくです。
同級生のおとうさんのお見舞い。
つるつるのつぼ。麺屋 天晴れ魂

北海道旭川市緑町12-3860-38

悪くない店だったけど、
2012年だったかに、閉店。

確か店内に、
スタイル・カウンシルとかの
80年代ニューウェーブの
ポスターとかが飾ってあって
気になっていたのだが(笑)。

その後、同じハコに
違うラーメン屋が
早い回転で開店&閉店を
くり返しているようだ。
ラーメン新店の実験の場か(笑)?
5:06Pm
どぼん。
このハコでは一番、良かったかも。
実は私は最近の旭川ラーメンは、
中だるみ期に入っているのではないか、
と感じている。
飲食店を開店しよーとすれば、
確かにラーメン屋は新店でも
客が入って来るので、
新参者にもハードルが低い。
が、それは先人たちが築いてきた
「ラーメンなら間違いない。」
とゆーパブリック・イメージのおかげだ。

また、山頭火などが海外で成功するなど
すでに本気&実力派は
旭川市内での精進に
興味が無いのかも。

しかし、客はまだいるのだ。
1.盛り付け。
2.麺の堅さ。
3.スープの繊細 さ。
基本だが、ここをしっかりして欲しい。


そして、私はひとりで映画館へ。



歴史に飛び込め!
5:50Pm8:05Pm
ディ ノスシネマズ旭川
会員割引き \1500♪
原題;『辛亥革命』 英題;『1911』、または『1911 Revolution』
監督;ジャッキー・チェン、チャン・リー
脚本;ワン・シントン、チェン・バオクアン
出演;ジャッキー・チェン、ウィンストン・チャオ、リー・ビンビン、フー・ゴー、ジェイシー・チェン、ジョアン・チェ ン、スン・チュン、ジャン・ウー、ニ ン・チン、ユィ・シャオチュン

赤い目が後ろの穴から、ころりんこ。久 保の眼
私は2008年 に映画を75本観たが、その年の最下位がやっぱ、映画館で観たい♪『レッドクリフ パート1』だっ た。で、本作もチラシのキャッチ・コピー通り、「『レッドクリフ』のスタッフが贈る」『レッドクリフ』並みの作品だっ た。がくっ。そもそも私は『三国志』 を知りたくて『レッドクリフ』を、孫文&辛亥革命を知りたくて本作を観よーとした理由もあったから、そんな下心は、歴史 は単なる舞台であり重要なのはド派 手なスペクタル、と思っている映画製作者たちには無意味なのだろう。
しかし、こうして毎度、「『レッドクリフ』的はダ メ。」をくり返していても深みが無いので(笑)、今回はなぜ「『レッドクリフ』的はダメ。」なのか?を考察してみる。
カ ンフー映画の文法、とゆーのがある。それはブルース・リーのアクションの拡散だ。つまり、俊敏な動きと、静止したときの キメのポーズの繰り返し。「ア チョー!」と叫びつつ、鋭角なストロークのチョップやキックを連発させ、突然、ピタッと止まっては、アゴを突き出して相 手をにらみつける。・・・ワイ ヤー・アクション全盛期の現在でも使われるカンフー映画のパターンだ。確かにパターンとは個性だし、メリハリのある演出 はスリリングだ。しかし、このパ ターンがいつの間にか、一部の中国映画製作者たちに染みついてしまい、アクション・シーンだけではなく、映画の全編がこ のパターンの文法で押しまくられる ようになった。その結果、我々は2時間前後の平板な演出に付き合わされることになってしまった。つまり映画製作者側がメ リハリを求めたのとは真逆の効果に なってしまったワケだ。そんな私の危惧を彼らが気付いたのか(?)、この手の映画は、さらに莫大な予算を投入し、よりス ペクタクル度をアップし続けている が、文法が同じだから、さらに息苦しい平板さが津波のように押し寄せてくるダケ〜。
しかし、私のように感じている人が少ないのか、こー ゆー批判は まったく聞かない。ハリウッド大作への辛口コメントは珍しくはないが、アジア大作へはなぜか優しい日本の映画ギョーカ イ?それでも、ブロガーたちは時に 「眠たくなっちゃった〜。」とか、「なんだかなぁー。」とか、つぶやいている。残念なことに、それらがいつもアホな文法 だから、ギョーカイは安心して無視 することができ、また次の大作で金儲けをしようと、ちょーちんを灯す。・・・これって、不毛じゃん。まぁ、だからこそ 『共犯新聞』の社会的意義(笑)があ るのだが〜。
そんな中、ずいぶん前だが、四方田犬彦は1988年 に朝日新聞の コラムに、「ジャッキー・チェンと安聖基(アン・ソンギ)をくらべてみれば、同じアジアの映画でも、香港と韓国とがいか に違っているかがわかるでしょう。 香港では派手なアクションを通して、すべての感情を明るみに出してしまわなければなりません。韓国はそれに対してはるか に内省的で、真面目です。一 度は信じることのできた夢の栄光とその挫折と いうものを、安聖基ほどに心憎く演じられる人も稀ではないでしょうか。」と、私の説に近い角度の視点を書いていた。しか し、このコラムは天才=四方田にし ては、あまりにも教科書的すぎてツマラナイ論旨だったためか、1995年のテレビNHK教育『人間大学』「映画はついに 100歳になった」の中では、キー トンやロイドらの優れたサイレント映画の継承者として、ブルース・リーやジャッキー・チェンを論じており、これらには「音声を獲得する前に映画が満喫し ていた、身体運動をめぐ る幸福感へのノスタルジアが漂ってい る」と持ち上げ、結局、私の意見とは真逆だ(笑)。ぎゃふん。もちろん、四方田の1988年の教科書的なご意見と比較す れば、1995年の議論のほうが創 造的だから、その点では私も認める。
んが、やっぱり、『レッドクリフ』的はダメ。四方田 の魅力的な議 論を継承して批判すれば、優れた身体運動とは、全体の「息継ぎ」と「関係」のなかでこそ表現されるものだ。カンフー・ア クション的手法の映画は、そこを 「突然、ピタッと止まっては、アゴを突き出して相手をにらみつける」メリハリによって切断してしまい、単に情報量の多い ぶつ切りコマの連打になってしまっ ている。映画の愉楽とは、むしろ連打を生むための「息継ぎ」と「関係」の底でしゃがみこんでいるものだ。そして、それは 歴史論でもあるのだ。

なんと、この映画は、
冒頭とエンディングが、首枷をかけられた喰うべき詩。秋 瑾が処刑されるシーンでサンドイッチされていた。
やはり、中国にとって 秋瑾はすでに「物語」なのだ。

先に書いたよーに、啄木の人生のほとんどは新聞社に勤務し、多くの新聞を精読しており、日本人の中でも早い時期から中国や孫文に強い関心 を抱いていた。
たとえば、1908年の時論「空中書」(1908年10月13日・14日・16日)で、
孫文たちの「広州事件」(1895 年)に関与した反体制秘密結社「哥老会(かろうかい)」に言及している。
日清&日露の戦勝で大国意識でアゲアゲな日本人を批判し、
「哥老会、常に人材を擢んで海外に学ばしめ、資金幾億、皆一私人の名を以て世界各所の銀行にあり、
兵力八十余万、訓練欠く所なく、其制度の整頓せる、恰も一大国家の如し」と、中国の中南部の民間の動向を紹介した。
ここは「国家」を思索した最初期の重要人物としての啄木の嗅覚だ。

さらに100年後の今日を見すえて、
「世界二十一世紀の劈頭に大呼するもの、夫れ李杜(=李白と杜甫)二聖を出せる民乎」
と予見する。
啄木は李白や杜甫などの漢詩を精読していた。
20世紀初頭の清朝官僚の無力、民間の底力を対比し、
李白・杜甫を生んだ中国の民衆が21世紀初頭までに中国の大きなプレゼンスを示すだろうと見通している。

ついでに書けば、秋瑾と啄木は、深いところで杜甫という同じ源泉があったと断言してもいいだろう。

また啄木は、死去する少し前、1911年に清朝を打倒する「辛亥革命」が起こると、
「革命戦が起こってから朝々新聞を読む度に、支那に行きたくなります」
と切望した。

↑この周辺の考察は、内田弘の論文が詳しい。

1910年、石川啄木は処女歌集『一握の砂』を刊行し た。同年、オーストラ リアのリルケは『マルテの手記』を刊行。
この両作とも、田舎から都会に出てきた詩人の孤独を描いた作品だ。
つまり、20世紀の初頭、繊細な感性を持った詩人は、近代化という個人と国家の整合性を強制する時代に違和感を感じ、その孤独が文学へ向 かせたのだ。

すでにそれだけで啄木が世界文学たる重要性と共通項があるのだが、
もし、「繊細な感性を持った詩人」が文学の内面だけではなく、社会にコミットメントしたら、どうなるのか?
そんな興味深い実験のような現実が、そのすぐ翌年に待っていた。

1911年の出来事。
啄木は孫文より20年若く、13年早く死んだ。


弱さという武器。啄木 (1886年2月20日〜1912年4月13日)
タフな長いお茶会へ、ようこそ。孫文 (1866年11月12日〜1925年3月12 日)
1月
3日 啄木の友人の生田長江が、1909年から翻訳していた甘いニヒリズム。ニーチェパラパラ・・・『ツ アラツウスト ラ』(『ツァラトゥストラはかく語りき』)を、刊行。

3日、啄木が関係していた『明星』の同人であり、『スバル』の出資者であり、友人で幸徳秋水の弁護士の平出修へ年始に行 き、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」 を借用する。
啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し 始める。

4〜5日 幸徳の「陳弁書」を、すべて写す。

10日 アメリカ合衆国で秘密出版され、日本国内に送付されたピョートル・クロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』を歌人 谷静湖より寄贈され、自宅で愛読す る。

11日 啄木が勤める朝日新聞に幸徳事件の抗議書が送られてきたが、会社は新聞に出さないので啄木が持ち帰り、友人の丸 谷宅へ行き、来ていた並木にも見 せ、意見交換をする。
啄木は、「平民の中へ行きたい。」と言った。

13日 土岐哀果と会い、雑誌『樹木と果実』の出版計画を相談。

16日 土岐と「我々の 雑誌を文学における社会運動という 性質にしよう」と意見が一致。

17日 土岐と暗くなるまで気焔を吐く。「明日」!それが話題であった。

18日 大逆事件の裁判で幸徳秋水ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下す。啄木は、午後2時30分に朝日新聞社内で 仕事をしている最中に、それを知 る。啄木は何も考えないようにし、定刻まで仕事をし、帰宅。「日 本はダメだ」と漠然と考える。日記に、「今日ほど予の頭の昂奮していた日はなかつた。そうして今日ほ ど昂奮の後の疲労を感じた日はなかっ た。」と書く。

19日 大逆事件の被告中、12人が無期懲役に減刑。
読売新聞が社説で国定教科書における南北朝並立の記述を批判。
いずれの皇統が正当かをめぐり帝国議会での論争に発展。(南北朝正閏問題)

24日 大逆事件で、幸徳秋水ら11人の死刑執行。

25日 大逆事件で、管野スガも死刑執行。
啄木は新聞で、前日の死刑囚の死体の引き渡しと、火葬場でのできごとを読み、「内 山愚童の弟が火葬場でカナヅチで棺を叩き割った」こ とに激しく心を衝かれる。

26日 啄木は帰社後、平出修の家へ直行し、明日も学校だよ〜。深夜12時まで膨大な裁判の書類を読む。日記には、「頭 の中を顔が立たない。底 から掻 き乱されたような気持で帰った。」と書いた。

発病

30日 座禅のお彼岸。西田幾多郎『善の研究』
30日 清末に武漢新軍の中に設立された革命団体「振武学社」が文学社と改名。基本方針は、「漢族の復興と 満族の排除、専制政治の転覆、漢族による政権奪取」。
最後の4つの詩を伝えるための人生。蒋翊武(しょう・よくぶ、1884年12月21日 〜1913年10月9日)を社長、・大悲を文書部長、劉復基を評議部長に選出。
文学社は新軍内部の青年軍人組織であり、革命思想の新軍内部への浸透と武器調達を担当し、武昌起義で指導的な役割を果た した。
煉瓦で作られているのよね。
文学社の秘密基地。
後日、日中戦争の時に破壊された。

2月
初旬 慢性腹膜炎のために、東大病院へ入院。手術をするが、良くならず。

21日 夏目漱石、博士号を辞退する。

3月
1日 退院。

11日 日本で、普通選挙法が衆議院で可決される。
武漢新軍内部に文学社が組織された。
4月
土岐との雑誌『樹木と果実』の出版計画を進めていたが、ついに挫折。

病状は一進一退。

社会主義の関係の読書、幸徳事件の関係書類の整理に没頭。
「ヴ・ナロード・シリーズ」を編む。

5月
啄木の幸徳事件への興味は尋常ではなく、膨大な公判記録を部分ではあるが読み込み、裁判全体は政府による でっち上げだっ たと確信する。

幸徳の弁護士宛の意見書を写したものに「A Letter from Prison」と題し前文を書く。
清朝は軍機処を廃止して内閣を設置したが、内閣成員の半数が満族、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、憲 政移行を求め る知識人の間に失望が広がった。
6月
15日から17日にかけて長編詩を執筆、「はてしなき議論の後」と題す。

7月
28日 妻の節子も、肺尖カタルと診断される。 日本の法政大学での留学から帰国していた中国のトロツキー、か?宋 教仁(そう・ きょうじん、1882年4月5日〜1913年3月22日、享年30歳。)が、中国同盟会中部総会を設立し、清朝を打倒す る運動を強める。
8月
7日 病気回復のために、環境が少し良い小石川区久堅町74へ移る。

月末 母が発病し、寝たきりになる。

9月
1日 平塚らいてうらが、文芸誌『青鞜』、創刊。生田長江が応援する。

3日、父が、また家出をする。
24日 文学社と共進会は武昌で双方の責任者と新軍代表60余名で会議を開催、武装蜂起の統一指揮部(起義 総指揮部)を組織、文学社の蒋翊武が総指揮に、共進会の孫武が参謀長に、同じく共進会の劉公が政治準備局総理に選出され た。
10月

9日 漢口で中国同盟会の党人20名が逮 捕され、武昌に送られる。
いつも、オーライ♪
10日 武昌でも73名が逮捕。そのうち軍籍のある3名が総督公署の前で斬罪に処される。清朝の湖北新軍の内部に孫文が 指導する共進会などの革命軍の工作 が進められ、多くの兵士が革命運動に覚醒していたのだ。
 「党員名簿」が官憲の手に入ったという噂もあり、新軍内部は逮捕処分されるおそれのため、非常な動揺が起こり兵士間に 緊張が走る。
午後9時、孫文が指導する共進会や、同学会、文学社の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展し た。
宋教仁も、武昌に入る。
当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを 誰にするかで争った。

11日 正午に武昌全城が、革命軍になった湖北新軍の手に落ちた。

宋教仁が、日本の思想家デヴィッド・ボウイと眼球をチェンジズ。北 一輝(きた・いっき、1883年4月3日〜1937 年8月19日)を電報で呼ぶ。北は黒龍会『時事月函』特派員記者として、上海で宋教仁のもとに身を寄せる。
11月

宋教仁は、各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。

革命派がどんどん優位になったので、清朝内の満州貴族らは、失脚していた軍人の袁 世凱(えん・せいがい、1859年9月16日 〜1916年6月6日)のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命する とともに、反乱軍の鎮圧を命じた。
保身こそが、革命なのか?
袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革 命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総 統就任の言質を取るや寝返り、清朝の要路者に政権の交代をうながした。
12 月
腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続く。

21日 妻の妹と結婚した函館の歌人、宮崎郁雨(いくう)の手紙に、「君、僕はどうしても僕 の思想が時代より一歩進んでいるという自惚をこのご ろ捨てることが出来ない。」と、書く。
2日 江蘇・淅江革命連合軍が、南京を陥落し、臨時政府を武 昌から移す。
南京を攻撃する革命軍

モンゴルでも、外藩蒙古の中から独立運動がおこる(モンゴル国)。
これにより、清は完全な内部崩壊を迎えた。
ただし、満洲とチベットでは蜂起が起こっていない。
武昌蜂起の報せをうけ、デハンナ号でフランスから上海へ向かう孫文たち。
25日 孫文が上海に帰着。革命派はそろって彼の到着に熱狂した。

そして、1912年


啄 木 (1886年2月20日〜1912年4月13日)
孫 文 (1866年11月12日〜1925年3月12日)
1月
23日 母の病気が肺結核と判明。啄木は、激しく動揺する。
1日 中華民国が、南京に成立。孫文が、臨時大総統。
「滅満興漢」の「興漢」は達成された。
しかし、この時点では、北京に清朝が存続。
「中国を代表する」政府が、南北に2つある状態。
2月
20日 1902年、17歳から書き続けてきた日記の最後を書く。
「2月20日
日記をつけなかった事12日に及んだ。
その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。
39度まで上がった事さえあった。
そうして薬をのむと汗が出る為に、体はひどく疲れてしまって、
立って歩くと膝がフラフラする。
そうしている間にも
金は
サンタクロースだった明治時代を想い出す〜。ド ンドンなくなった
母の薬代や私の薬代が一日約40銭弱の割合でかかった。
質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、
たった一晩家に置いただけでまた質屋へやられた。
その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。
医者は薬価の月末払を承諾してくれなかった。
母の容態は昨今少し可いように見える。しかし食欲は減じた。」
12日 清朝最後の皇帝である宣統帝(愛新覚羅・溥儀)が、退位。
清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。
これにより、中華民国が中国を代表することになった。

孫文は当時国内で最も軍事力を有し、
また清朝の全権を握っていた袁世凱と交渉し、
南北分裂状態であった中国を臨時政府によって統一させるため、
宣統帝の退位、臨時約法の遵守といった条件と引き換えに
臨時大総統を袁に 譲った
世渡り上手な軍人という闘い方。
3月
7日 母のカツ、死去。

21日 妹の光子へ手紙を書く。それが、現存する啄木の最後の文章。
10日 袁世凱が、中華民国の臨時大総統に就任。
組織は、何のために?

中華民国、内閣の初組閣。記念写真の後列左が農林総長の宋教仁。
議員内閣制の夢。
4月
9日 土岐が、啄木の第二歌集を出版する話を啄木に伝える。

13日 午前9時30分。啄木、小石川区久堅町にて肺結核のため、死去
妻、父、友人の若山牧水に看取られている。享年26歳。

15日、浅草等光寺で葬儀が営まれ、漱石も参列する。
土岐が生まれた寺で、彼が葬儀の世話をした。

5月


6月
14日、節子が、次女を出産。
房州(千葉県)で生まれたため房江と名付ける。

20日 第二歌集『悲しき玩具』が出版。土岐がタイトルをつける。

7月


8月

7日 臨時約法下で定められている国会開設に備えて、
100以上もの各種政党が乱立した。
宋教仁は、その整理が必要だと合併を進める。

25日 宋教仁を中心として、
孫文が日本で清朝を打倒するために作った中国同盟会が、
統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会と合併して、
北京で国民党が 成立した。
9月
4日 節子は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰る。

10月


11月


12月
透明な砂。
妻の節子、長女の京子、二女の房江。
長女・京子と二女・房江は
母・堀合節子の祖父・堀合忠操に引き取られて、函館で成長した。
京子は1926年、須見正雄と結婚し、
長女・晴子と長男・玲児をもうけたが、24歳で病死した。
房江も、同年19歳で病死。
国民党が、選挙で圧勝。
この勝因は、国民党の実質的な指導者である宋 教仁の 主張である、
「最高権力者の権限を制限し、議 院内閣制が必要で ある」が、
当時としてはかなり新鮮であり、多くの国民の心を捉えたためだ。

これに対し、袁と孫文は反対であり、
「乱れやすい中国をまとめるためには、
元首が強権を振るべきだ。」と考えていた。

袁は、大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、
懐柔策をしばらくとり続けたが、
ついに1913年3月、国会議員選挙において、
孫文が理事長である国民党が870議席の内401議席を獲得。
同党の実質的な指導者である宋教仁が、総理となる。
その直後、 袁は宋教仁を暗殺し た。

同年7月〜9月、このような袁世凱の独裁化に対抗しようと、
国民党の急進派も参加して第二革命が起こったが失敗。
参加者の多くは日本などへ亡命するか、中国国内の南方へ逃亡。

同年10月9日、辛亥革命を起こした英雄の蒋翊武が、
袁の伐戦役に失敗し刑死。

同年11月4日、 袁は、さらに国民党を強制的に解散させた。
日本などに亡命せずに中国に残った国民党の議員は、
袁世凱により指名手配されたり、処刑された。
その後も大総統の権限を強化したり、
任期を長くするなど自らの強権に努めた。

結局、啄木は孫文のその後の挫折や、中国やロシアでの革命、紹興酒一滴、シナ海に沈む。台湾への分離を知らずに死んだ。
我々が最も知りたいのは、その時、啄木という時代のセンサーは何を感じ、どう表現したか、
だが、
そこからは我々へのバトン・リレーなのだろう。

孫文は袁世凱との政争に敗れ、1913年〜1916年の間、日本へ亡命中する。
この間の1915年10月25日、孫文と英語という窓から大きく息を吸う27歳の1920年宋慶齢(そ う・けいれい、1893年1月27日〜1981年5月29日)との不倫後の結婚を整えるなど、
資金を含む多くの面で支援をしたのが、日本人の梅屋庄吉だ。

建て替えるときの建前の祈り。
中国人が日本を観るという斬新な視点。
←『孫文の革命運動と日本』を
ダニ啓は、下記のようにamazonで書評し た。



当時の日本にとって辛亥革命は、
決して対岸の火事ではなかったのであるが、
正しい意味でのアジア連合、
国際協力の意識に欠如した政治家や、
己の実力を試したい軍部などには理解されないばかりか、
列強の覇権主義を真似することになっていく。

しかし一部の日本人には
アジア、特に大国中国の近代化民主化が
なによりも急務であることを実感し、
資金や政治活動によって革命を支持していた。
壮大な実験室であった中国に
日本人のセンサーは
どう動いたのか。
故郷でなくても、言うことなし。
この本も、現在は入手が困難。

鬼のいない間に、とゆーか、ジャマ者を暗殺&亡命しつくした袁世凱は、なんと1916年にお前は、ナポレオンかっ?皇帝になる。がくっ。
しかし、とーぜん人気は無く、それに便乗した日本が、同年6月6日に、こっそり毒殺。
その後、中国は再び、10年間ほどの乱世が続く。


机を並べ、椅子を燃やす。

1925年3月12日、孫文は旅行先の北京で死ぬ。南京に葬られた。
孫文の有名な遺言、
「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」
は、 汪兆銘がゴースト・ライターだ。

政治の夢を、文学の自由で語ろう。
1933年2月17日、上海の『中国民権保 障同盟』。
左から2番目がイギリスの劇作家バーナード・ショー。
代表作は、映 画『マイ・フェア・レディ』の 原作である『ピグマリオ ン』
その右が孫文が亡くなって8年が過ぎた未亡人の宋慶齢。通訳として参加。
一番右が、54歳の魯迅。
袁世凱の死後、孫文の後継者であるつなぐ難しさ。蒋介石
(しょう・かいせき、1887年10月31日〜1975年4月5日)が
全国統一を目指す北伐に成功し、
1928年から1931年、中華民国の統一を果たし、最高指導者となる。
しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて
1949年より台湾に移り、1975年に死去するまで国家元首ではあったが、
大陸支配を回復することなく没した。

私は台湾への旅行中、
全ての台湾人が
蒋 介石を良く言わなかったことが印象的だった。
台湾人にとって蒋介石とは、
建国の英雄というよりは、
どこかポル・ポトのような印象が強いようだ。


私はまだ中国には行ったことは無いが、
2012 年2月に初めて紹興酒一滴、シナ海に沈む。台湾へ行った

その最終日に飛行場で見つけたお土産が、コレ→
実際に、このツーショットはあったのか?
なんと毛沢東と、孫文!しかも、かわいい (笑)。買っちゃった〜。
帰宅後、
宅浪中の長男に見せて
「どっちがイイ?」
と聞くと、即答で
「孫文。」。

ほほ〜。
おそらく日本の若者でも
30年以上前なら、
即答で毛沢東を
選んだであろう。

今の日本の若者にとっては、
毛沢東よりも孫文なのだ。

私は、
なんだか、
すげー納得した(笑)。

そんなワケで今、
東京の長男のアパートに
孫文がいて、
私の共犯書斎に
毛沢東が、いる。

さて、第二次世界大戦中、最初はつなぐ難しさ。蒋介石と敵対し、最後は和解の工作を計った
大日本帝国陸軍の陸軍大将の藩士の夢のまた夢。板垣 征四郎(いたがき・せいしろう、1885年1月21日〜1948年 12月23日)は、
岩手県の盛岡中学で弱さという武器。石川啄木と同級生だった。
ちなみに同じ学校の2級上に東京での啄木を支えた北海道で裏返し。金田一京助が、
12級下にどこへ。宮沢賢治がいた。



「人類の歴史は共犯の歴史である」とは、有名な『共犯新 聞』の言葉だが、
歴史は常にクロスしている。
しかも、螺旋形に。


text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2013年5月27日 月曜日明日も学校だよ〜。4:36Am)



俳句は、パンク。今日の一句
当時の日本にとって辛亥革命は、決して対岸の火事ではなかったのであるが、正しい意味でのアジア連合、国際協力の意識に欠如した政治家や、己の実力を試したい軍部などには理解されないばかりか、列強の覇権主義を真似することになっていく。しかし一部の日本人にはアジア、特に大国中国の近代化民主化がなによりも急務であることを実感し、資金や政治活動によって革命を支持していたのである。

支 那人を
危(あや)めてしぐる
花車権輿(けんよ)

(久保元宏 2002年12月8日)

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史か ら飛び出せ!
たとえば→5月27の歴史
おくちの恋人♪
Happy Birthday
to
Mr.
歯ごたえのあるやつ。Hiroshi Nakagami !


2011年
11月
映画
た びたび
他にも何か書くことあった気がするのだけれど忘れてしまったからもう出す。
脳内共犯
としての
映画館

脳 味噌共犯 movie days (and movie nights !!)  暗闇の私。≒ 私の暗闇。

2011年11月23日 (水)

2011年11 月23日 水曜日 勤労感謝の日 午前2時10分もんもんもこもこの雪なんです。気温-2.1℃←■やっぱ、スピーチは 春美ちゃんじゃなくって、私がするのか?

1: 45Pm
次女の用事の運転手として、旭川市へ。
決めていること、まだのこと。

次女が用事中、私はひとりで映画館へ。

肉体という悪魔を憐れむ。
2:10Pm4:10Pm
ディ ノスシネマズ旭川
会員割引き \1500♪
原題;『Contagion』
監督;スティーブン・ソダーバーグ
脚本;スコット・Z・バーンズ
出演;マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ジュード・ロウ、ローレンス・フィッシュバーン、グウィネス・パルト ロー、ケイト・ウィンスレット

赤い目が後ろの穴から、ころりんこ。久 保の眼
ソ ダーバーグは監督名で映画が観たくなるひとりだが、本作を観たら、次作からは、そーゆー積極的な嗜好が薄れちゃった。確 かに26歳でのデビュー作『セック スと嘘とビデオテープ』(1989年)は全てが新しかったが、いつの間にか1963年生まれのベテランの域に達した彼の 経歴のピークは『トラフィック』 (2000年)であり、だからこそ私は期待してきたのだが、そこを超えられていない。やっぱ、映画館で観たい♪『チェ』2部作(2008年)には満足 させられたが、それも長いキャ リアの中に置いてみると、 自らの監督キャラクターへの言い添えのための仕事だったようにすら見えてくる。そして&さらに本作を観てしまうと、彼の 本質は『オーシャンズ11』&やっぱ、映画館で観たい♪『12』(2004 年)のよーなエン ターティメント大プロダクション系なのではないのか、と思ってしまうのだ。
で は、何がソダーバーグに足りなくなってしまったのだろうか?それは、撮影と編集のヒリヒリするリアルさだ。実は彼は『ト ラフィック』で監督のみならず、自 ら撮影や編集も兼ねて担当した。ハリウッドでは組合の問題から、監督が撮影や編集の独占ができず、そう規制するためにク レジットが認められないから、別人 がやったよーに記録されているが、実際は彼が全部やったのだ。『セック スと嘘とビデオテープ』が提示した新しいリアルとは、まさに、重たいカメラを抱える監督のフィジカルが、編集というデジ タルと幸福な融合をした歴史的マニ フェストであったのだ。確かに本作の映像は密度が高く美しいし、情報量の多いソースが端正に編集されている。が、それは ハリウッドとゆー巨大システムゆえ の ツールであり、作家性とは別モノなのだ。だから、ツールを使いこなせる彼が作る『オーシャンズ11』は面白いの だ。・・・しかし、『共犯新聞』が求めるも のはソコには無い。
と、 上記に私が書いた構造の本質に、ハリウッド組合の規則があるのなら、ソダーバーグの罪は浅い。が、この映画には彼がその 罪を犯す当事者でありえる決定的な 暴露が描かれている。それは、世界的大流行に向かう病原菌ウィルスの存在をネットで暴露するブロガーを愚かなアジテー ターと描いている点だ。その一方で、 大手マスコミと、WHO(世界保健機関)やCDC(米国疾病予防管理センター)などの大組織の役割の重要性を明示してい る。もちろん、それもひとつの見識 だろう。しかし、インディーズ映画でビギナーズ・ラックを得、現場で自ら重たいカメラを抱えて最高傑作を撮り、チェ・ゲ バラに賛辞を贈った表現者のポジ ションとは真逆では ないだろうか。それが今の彼の姿勢であれば、ハリウッド組合の規則は彼をしばり付けるのではなく、むしろ彼こそが規制す る立場に転向してしまったとゆーこ となのだろう。残念だ。この映画は目に見えないウィルスと巨大組織の戦いを描き、そこにからんでくる市民ブロガーを愚か なウィルスの戯画にするために、滑 稽なクズに描いている。この図式は、 悪の【ウィルス&ネット=得体のしれないもの】VS善の【清潔な大組織】だが、私が愛したソダーバーグはむしろどこまで もウィルス的であったのに〜。

映画が終われば、沼田町での次の行事まで時間があまり無い!
しかしか・・・・・・・・・死?し、この行事は私抜きでは始めることができない〜。
法定速度を厳守して、沼田町商工会へ。

5Pm
沼田町で働く人たちの、恒例の行事。

しかし沼田町は
いつしか企業の撤退などで
「職場」が無くなり、
「働く人たち」も少なくなる一方。
この二つは、町の両輪だ。
小さな車輪では、法定速度☆以下、だ。

私が沼田町で働き始めた1990年の
生産人口(=労働者の数)は、
ほぼ現在の全人口と同じなのだ。

人 口
生 産人口 (15〜64歳)
1990年
5,292人
3,456人
2012年
3,536人
1,940人
この激減に、あぜん・と、する。
職場の思想。
おめでとうございます♪
5: 44Pm
今年の町長表彰は、
私もよーく知っている方。
その他、永年勤続の表彰者に
私の同級生がいたりして、
知人の努力が評価されるのは嬉しい。

たまたま私は、
この会の主催者なので、スピーチ。
また今日も、移動祝祭日なのか。
8: 11Pm
「元宏にスピーチしてもらって、
うれしいよ。」と、先輩に言われ、
「モトがスピーチで俺のことを
言ってくれて、うれしかった」と、同級生。

2次会で彼らのカラオケを鑑賞し(笑)、
3&4次会で久しぶりに語り合う。

・・・そんな夜から、1年半。
私は
彼らの「職場」に有効だったのか?
久々のレパートリー炸裂!
これからの話をしよう。

11: 45Pm
お開き。
この夜の私は、ふだんは、なか&なか会えない先輩&同級生たちと
じっくり一緒の時間を過ごすことができた。
だから、いい夜だったのは間違いない。

そしてまた、くり返し想う。
・・・そんな夜から、1年半。
私は彼らの「職場」に有効だったのか?

私がした≒できたコトは、彼らの「職場」のプライドを、
表彰することで担保するだけだったのか?

人は「経営者」と「従業員」に、優劣で二分されているわけではない。
その証拠に、
久保商店の「経営者」よりも、三井物産の「従業員」のほうが優秀だ。
さらには、
三井物産の「従業員」は、三井鉄工所の「従業員」のスキルが無い。

ソ ダーバーグ監督は自らカメラマンができるのに、放棄し、
巨大なプロダクション・システムに身を淫することで
映画産業の「職場」&「働く人たち」をキープし、有名監督になり、
自らの「作家性」を失った。

なんでもそーだが、我々は気が遠くなるダイナミズムの中の
偶然の組み合わせの一つに、たま&たま・いるだけだ。
では何で東京には「職場」&「働く人たち」があり、
それ以外には無いのだろう。
その不満に気が付き&声を上げる前に、国家は地方に交付税を配る。
地方は、いただいた交付税で「職場」&「働く人たち」を増やそうとする。
その結果は、ご存じの通りだ。
曲がり角。
不器用なラジオ。
11: 58Pm
帰宅し、テレビをつけると、
ずらしながら、崩しながら、つなげてゆく。立 川 談志(1936年1月2日〜2011年11月21日)が
死んだ。

古典芸能は、組織や序列の典型だ。
それを談志は、
1983年に落語協会を脱会して、落語立川流を創設、家元となる。
才能があれば、社会の文脈から自由になれるのか?

実は私は、どうも談志が苦手だ。
ゲーノー人にとっては、
しろーとから好き嫌いを言われるのも仕事のうちだろう。
だから少々、好き勝手なことを書かせていただく(いつもだけど・笑)。

私が談志が苦手なのは、
彼は組織や序列を否定したのではなく、
別の組織や序列を作っただけで、
むしろ組織や序列をシステムとしては肯定している点。
それは、「家父長制的なマッチョイズムが再導入」された、
と、パラパラ・・・宇 野常寛っぽく表現することも可能だ。
その点では談志は革新ではなく、保守に保守を上塗りしただけだ。
落語界を新しくしたのではなく、さ らに大声で古さを肯定しただけだ。
確かに、「芸」はうまい。
なにより、チャーミングで、セクシーだ。
つまり、魅力的だ。
それだけで、ゲーノー人としてはOKだ。

しかし、これは落語か?と、私は思ってきた。
落語ではないから、落語立川流を創設したのだろう。
それも、よし。

それでも私を落ち着かない気持ちにさせるのは、
強烈な個性が生き延びるには、
「家父長制的なマッチョイズム」が必要である、とゆー状況。
ナイーブな魂は、どうする?

強烈な個性が「職場」を仕切り、
「働く人たち」は、そこに付いて行ったり、「職場」が無くなったり。

すべての人が談志にはなれないのだから、
「談志」的なるものが状況を面白くするのだから、
「家父長制的なマッチョイズム」が必要である、とゆー状況。

談志のファンは、
談志が自分らしくあろうとして戦ってきた姿にしびれるのだろう。
そして、談志に付いて行く。

そして私も、
自分らしくあろうとして苦戦しているすべての人を愛おしく想う。
それは、談志&談志のファンとはまったく違う文脈で。
おまけは後から。

たとえば、こんな風に。


All Tomorrow's Parties
どーせ重要なのは、なんでも&かんでも、明日のこと、ばっか!なんでしょ。
Music and Lyrics by ♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieLou Reed
Produced
by Andy Warhol
Performance by The Velvet Underground & Nico
共犯意訳;うぇ〜ん!久 保AB-ST 元宏

And what costume shall the poor girl wear
たとえば、かわいそうな女の子は、
To all tomorrow's parties
あしたのパーティに何を着ていけばいいの。
A hand-me-down dress from who knows where
やり手のコンパニオン会社の社長が、使い古しの制服を
To all tomorrow's parties
あしたのパーティ用にと貸してくれるってさ。

And where will she go and what shall she do
じゃあ、その子はどこへ行けばいいの?何をすればいいの?
When midnight comes around

何にも分からないまま、またしてもパーティのお開きの時間はやってきて、
She'll turn once more to Sunday's clown
あの子は日曜の夕方にテレビの『サザエさん』を観終わった淋しさに放り出されてしまう。
And cry behind the door
そしてドアに隠れて泣くんでした。

And what costume shall the poor girl wear

そんな、かわいそうな女の子に似合う服なんて、あるのかしら。
To all tomorrow's parties
ましてや、あしたのパーティだけのために。
Why silks and linens of yesterday's gowns
すぐ脱ぐのが仕事だからと言って、まさか今夜着ているシルクやリンネルの薄いぺらっ&ぺらのガウンを、
To all tomorrow's parties
たいせつなあしたのパーティに着てゆくわけにはいかないし。

And what will she do with Thursday's rags

平日は地味な服を着て、コンビニでアルバイト。
When Monday comes around
月曜になれば、
She'll turn once more to Sunday's clown
前夜のお仕事を想い出しては、
And cry behind the door
またドアのかげで泣くんでした。

And what costume shall the poor girl wear

とにかく今すぐ決めなきゃいけないのは、
To all tomorrow's parties
かわいそうなこの子が着てゆく、あしたのパーティ衣装。
For Thursday's child is Sunday's clown
ふだん地味子が、日曜だけハジケるために。
For whom none will go mourning
誰もあの子が死ぬなんて思っていない。だって、まだ明日になっていないから。

A blackened shroud, a hand-me-down gown

死者に着せるシルクの黒い服、
Of rags and silks, a costume
それがあの子の衣装になるなんて。
Fit for one who sits and cries
座り込んで泣きじゃくっている誰かさんにぴったり。
For all tomorrow's parties
すべては、あしたのパーティでの出来事。


手に入れたものは?
こ うして発生したポストモダン的なアイデンティティを
山本少年は
自分よりも弱い少女の支えになること
=確実に意味のあること
によって解決する。
逆に言えば、
自らの生に意味を与えるために
山本少年は自分より弱く、傷ついた少女を
所有することが必要
だったのだ。
ここでは明白に
家父長制的なマッチョイズムが再導入
され ている。


宇野 常寛 「郊外文学論
―― 東京から遠く離れて」
雑誌パラパラ・・・『思想地図 β』 Vol.1
(2011年1月1日、初版、コンテクチュアズ)
定価\2415→古本\700

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2013年5月1日 メーデー 水曜日 0:40Am)




2011年11月12日(日)
♪クリックして、見よっ!You've been running and hiding much too long.
だけど赤い薔薇を隠し持って、逃げ惑うなんて、お前にはできないはずさ。
Lyric and music ;♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieEric Clapton
『クマのプーさん』とは
即ち部屋 の中 の森、の物語だ。
ことのついでに中沢新一流で言えば、
ポケットの中の野生、 の物語である。
部屋がクリストファー・ロビンの時間を
きちんと収納する場でありながら、
物語の内なる世界を外世界からきちんと切断する
枠物語の語りの枠のメタファーで もあるところが、
結局は『クマのプーさん』の全てである。

高山 宏 「プーはそこに降りて
―― 子供部屋の中の森について」
雑誌パラパラ・・・『飛ぶ教室』
(2006年7月25日、初版、光村図書)
特集「プーの森で語り明かそう」より

米屋から、米屋へ「運ぶ」。 9:30Am
ミーのカーに
米を136kg積み込み、
自宅から出発。
参加するための、「仕事」。
「呼んだ」から。
午後のための、午前。
むくどりの啼くころ。
11:24Am
ようやくたどり着いた
同業者の倉庫に
積んで来た136kgの米を、
降ろす。
金は現金でいただく。

買う。
運ぶ。
金に、換える。

どこが他の仕事と違うのだろう?
どこが他の全てと違うのだろう?
移動祝祭予定日。



1:25Pm3:59Pm
ディ ノスシネマズ札幌劇場
メンバーズ・カード割引、\1500♪
やっぱ、映画館で観たい♪『恋の罪』
監督&脚本;園子温
出演;水野美紀、冨樫真、神楽坂恵、児嶋一哉、二階堂智、小林竜樹、五辻真吾、
深水元基、町田マリー、岩松了、大方斐紗子、津田寛治

赤い目が山から追い出されるまで。久 保の眼
ほとんどの人にとって、映画よりも人生のほうが長い。で あるから 映画が過剰なので
はなく、人生が過剰なのだ。それなのに園子温の映画は過剰だ。その長さも2009年の
やっぱ、映画館で観たい♪『愛 のむきだし』の 237分(=ほとんど4時間だよ、おい。)には及ばないものの、
本作も144分と充分、長い。もちろんこの長さに意味があるのが園子温の特徴だ。たと
えば何度もしつこく繰り返す小説家と妻の毎朝の出勤風景。この繰り返しが生むグルー
ブが映画全体の長さの背骨になっている。
さて、2009年『愛のむきだし』でベルリン国際映画祭 国際批評 家連盟賞やカリガリ賞
を受賞、2010年『冷たい熱帯魚』でヴェネチア国際映画祭、2011年は本作でカンヌ国
際映画祭と、いつの間にか3年連続で三大映画祭に出品しちまった園子温だが、では
映画の技術がずば抜けてスゴイかと言えば、むしろ下手とは言わないが上手ではない。
映像は計算しつくした映像美を目指してはおらず、ベタなカメラ・アングルや、平面的な
照明など、安易なテレビ・ドラマのようですらある。それらの犠牲(?)の上で撮影時間を
長時間にすることで手に入れているのが、他の映画ではなかなか観ることができない俳
優に憑依する非日常的な凄みだ。それが世界中の映画マニアを夢中にさせるのだろう。
それでも私は本作には最高点は与えられない。理由は、ふ たつ。ひ とつはストーリー
が園子温にしては予定調和すぎ。「猟奇」のイメージをなぞっている(だけ?)印象が勝
ってしまう。繰り返し引用される田村隆一の詩「帰途」も、物語と溶解しておらず映画に
芸術色を付加するための言い訳以上に感じられない。
ふたつ目は、タイトルが作品を体現していない。この映画 はセック スへの衝動と理由
を超越する快楽の本質へ迫ろうとはしているが、「恋」を描いていない。描こうとすらして
いないようだ。園子温はタイトルの閉じられた完成度に満足してしまい、映画製作中に
作品との誤差から変更する作業を放棄したのかもしれない。ならば、恋を描く次回以降
の作品で使っても良かった。ただ、英語題の『guilty of Romance』であれば、落ち着き
は良い。英語の「Romance」と「恋」との差異の考察が足りなかったのが本作の最大の
失敗だろう。英語の「Romance」には「小説」の意味もあり、「恋愛事件」や「作り話」など
の意味もある。園子温は過剰さを温存しながら、そこをもっと映像に構築すべきだった。
あらゆる罪は、恋である。

4:30Pm
北海道中の大手の米屋が集まる商談会。

前半は、
今年から実験的に2年間開始された
米の「先物取引」の勉強会。
「先物取引」とは、数ヶ月以上先の売買を
予想でするギャンブル的(?)商取引。
金や小豆、ガソリンなどがやっているが、
72年前まで、米もやっていて、
私の住む沼田町でも
高穂という農村部でやっていたらしーが、
しばらく禁止されていた。その勉強会。

後半は、通常の米の売買。
私は、たくみに、さくっ、と大もうけ。
私が「もうかった」のなら、
相手は「損した」のか?
いや。それでも相手は私にのったのだから、
さらにこの先には、
もうひとつの「もうけ」があるのだろう。
商談会は、タイミング。反射神経の地獄。
説明、という「届け」かた。
先物取引のプロの岡 安商事が説明。
説明責任か?死か?
私の母も驚いた喪中のハガキ。
私の家の二軒となりにあった雑穀屋のご主人が、今年、亡くなった。
その雑穀屋は、第二次世界大戦の直後、小豆の「先物取引」で大もうけ。
で、数百万円づつ、親戚に配った。当時の数百万円は今では1億円?
が、翌年、小豆が大暴落。
その人は兄弟&親戚から、配った金を回収したらしい。
そして、その人は町を去り、行方不明。その人が、亡くなった。
予想するけだもの。
60歳以下は、「先物取引」は初めて〜。
人魚とコウモリ。
ホテルの弁当は、豪華っす。


ラビット・アンラッキー・ホール。
7:40Pm9:14Pm
原題;Rabbit Hole
監督;ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作&脚本;デヴィッド・リンゼイ=アベアー(トニー賞&ピュリツァー賞)
出演;ニコール・キッドマン、アーロン・エッカート、
ダイアン・ウィースト、サンドラ・オー

赤い目が後ろの穴から、ころりんこ。久 保の眼
喪失から始まる物語が最近、多いような気がする。今まで の物語は 日常
に喪失が起こり、それを解決してハッピー・エンドになるか、解決できずにア
ンハッピー・エンドになるかであり、それが起承転結だった。しかし最初から
喪失しているのであれば、物語は「転」から始まることとなる。巨大な「転」を
冒頭に置いて、その喪失の安値安定(?)的日々を描くのだから、転承承結
とゆー感じ、かな。転のドラマチクックを描くのは簡単だが、承の持続を表現
するのには高度の感性が必要となる。それは、緊張感と集中力の持続であ
るからだ。
そもそも、このタイトルに非現実的女優(?)ニコール・ キッドマ ン主演だし
ポスターとチラシのデザインもラブリーだから、私を含む多くの観客は観る前
に『不思議の国のアリス』のバリエーションであるファンタジー映画と勘違いし
ちゃうだろう。ポスターとコピーを考えた配給会社も、わざと勘違いを植えつ
けて集客を狙った感じが強いぞ〜。確かにそうまでしないと、売り出すのが難
しい地味な映画だ。しかし、あえてキッドマンはこの脚本を選び、自ら初プロ
デュースした。キッドマンは、その顔ゆえに、なかなか心理劇に採用されてこ
なかったが、2002年のやっぱ、映画館で観たい♪『め ぐりあう時間 たち』で開花した複雑な表現力
への興味をよりデリケートに演じてみたかったのだろう。その女優魂には感
服するし、監督の演出力も加わって、演技レベルの高度化に成功している。
そして得た演技力で表現したのは、「悲しみ」を共感する ことで、 本来は個
性のある感情が鋳型にはめられることに抗う意思。確かに「悲しみ」を理解し
合うことで「悲しみ」の重みは減少するだろうが、そのために、固有の感情が
一般概念にすり替えられてしまう。主人公は、「悲しみ」が減ることよりも、自
分固有の「悲しみ」を抱えることで喪失の大きさと、失われたもののいとおしさ
を忘れないようにしようとする。それは厳しい選択であり、周囲の者に不快感
を与えることもあるだろう。しかし喪失こそが自分自身であることを「悲しみ」と
呼ぶのだ。その時、「悲しみ」を慰めようとする共感や優しさは、「悲しみ」の個
性を奪う暴力になる。であるから、「悲しみ」とは一種類では無いのだ。そして
「悲しみ」はひとつづつ違うのであり、それを救うものもひとつづつ違うのだ。


9:20Pm10:49Pm
シア ター・キノ
「深夜」割引き、\1200♪
やっぱ、映画館で観たい♪『エッセンシャル・キリ ング』
原題;Essential Killing
監督&脚本&製作;イエジー・スコリモフスキ
出演;ヴィンセント・ギャロ、エマニュエル・セニエ

赤い目が山から追い出されるまで。久 保の眼
セリフ無しで、砂漠から雪山までを、ひたすら逃げまくる 男の物 語。そのスト
イックな映像と物語には感嘆するが、「だから、どうなの?」が観終えた感想。
たしかに、そんな内容だから「緊張感と集中力の持続であ る」。し かしこの
物語には、説得力が欠けている。理由なき逃走、でもいいだろう。その理不尽
さが現代社会の構図を浮き彫りにすることも可能だから。残念ながらこの映画
は、その領域にまで到達していない。その原因は主人公を、耳と会話が不自
由な障害者にしたところにあるだろう。それは監督の大きな賭けだったのかも
しれない。確かに、この設定が重苦しい雰囲気と理不尽さをより効果的に表現
することを可能にした。が、同時に主人公が逃げる相手であるアメリカ兵もまっ
たく無関係な民間人も同等に「逃げる」目的のために殺してしまう。確かに目的
が「逃げる」ならば、それでいいだろう。しかし、「逃げる」は手段であって目的
ではない。たとえばアメリカ軍による中東への侵略を糾弾するのであれば、善
良な森の労働者を残虐な方法で殺す必要は無かったはずだ。
そんな主人公が接触しながら唯一、殺さなかった相手が、 同じよう に耳と会
話が不自由な山小屋に住む主婦であった。緊張感の連続の本作が最後にこ
のシーンを用意する意図は何だろう。障害者同士だけが理解できる「言葉」が
あるとでも言いたいのだろうか。そこの説明も説得力も映画は用意していない。
それでは単純な、おとぎ話に物語が回収されてしまいかねない。
ヴィンセント・ギャロという特権的な俳優は、彼自身がす でに野生 の森だ。こ
れが主人公をハリソン・フォードにしたら、説得力は得られるだろうが安易な勧
善懲悪になってしまうし、メル・ギブソンが監督になれば押し付けがましく説教
臭い図式になっちまうだろう。だから、この映画はこれでいいのか?しかし、冒
頭はアメリカ兵への糾弾で始まり、最後は身体障害者の慈愛で終わるところに
監督が野生を信じきっていないゆらぎがある。それを、「弱さ」と指摘してもいい
だろう。であれば、本作の失敗の原因は監督が意味の誘惑に一瞬ゆらいでし
まったところにあるのかもしれない。
森の小屋が終着駅ではなかった、のか〜。


text by
うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2011年11月17日 木曜日 2:51Pm)


2011年11 月13日 日曜日 午後1時59分月見酒ができるかな、明日。気温11.0℃←■昨日は札幌で映画を3本。その合間に、小さな仕事と大きな仕事。 真夜中、座禅しながらミーのカーを 運転して帰宅。




俳句は、パンク。今日の一句
鱗粉を畳に残し夏が去る (久保元宏 1997年8月)
うしなひし さまざまのゆめ

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出 せ!
たとえば→8月19の歴史
一緒に見る夢のことを、「未来」と言うんだよ。
The Japanease government
made
Mr.
サルトルも、ロンパリだった。Ikki Kita
the death penalty.

Because they saw
he is a  theoretical leader of
海とピストルと毒薬。2.26 coup,
and
his ideas as
disruptive and dangerous !