あのブールで。その山の上で。I'll follow you wherever you may go!
top page⇒うぇ〜ん!『共犯新聞』♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieROCK★ロック パラパラ・・・偏愛書物★Book Oh ! うめぇ〜♪肉体の共犯としての食犯。好物★Gourmet やっぱ、映画館で観たい♪映画★Movie Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!美術★Art
moto_kubo@hotmail.com
2010年2月
映画たびたび
他にも何か書くことあった気がするのだけれど忘れてしまったからもう出す。
脳味噌共犯
脳内共犯としての映画館
暗闇の私。≒ 私の暗闇。
movie days
(and movie nights !!)
やっぱ、映画館で観たい♪『共犯新聞』映画館
Oh ! うめぇ〜♪肉体の共犯としての食犯。『美食狂時代2009』
ざらっとした森で見たブライアンのプール。久保元宏 ★ 2009年に買ったモノ!

2010年2月27日 土曜日 午後12時10分森ガ〜ルの脳味噌チップよ、やっほー♪気温-3.1℃←■がーん!『Dr.パルナサスの鏡』の上映が終わってた・・・。あとは、苫小牧と函館と帯広だけだ・・・って。ふげ。
2010年2月11日 木曜日 紀元節
2:20Pm〜4:45Pm
ディノスシネマズ旭川 「男性」割引き \1000
やっぱ、映画館で観たい♪『ラブリーボーン』
原題;The Lovely Bones
監督;ピーター・ジャクソン
音楽;ブライアン・イーノ
出演;マーク・ウォールバーグ、レイチェル・ワイズ、スーザン・サランドン、
スタンリー・トゥッチ、マイケル・インペリオリ、シアーシャ・ローナン
もらったものをリストアップしようかな。でも、私は正確な日付を覚えていないものがあるな。
赤い目が山から追い出されるまで。久保の眼
ほとんどの映画には製作予算を集める悩みがつきまとうが、金と才能とスタッフ
に恵まれた監督ならば、どんな作品を作るのだろうか?世界同時不況の現在、そ
んなぜーたくが可能な数少ない映画監督のひとりが、『ロード・オブ・ザ・リング』や
『キング・コング』でネーム・バリューと資金を得ているピーター・ジャクソンだ。では
ジャクソンが得た自由と予算でどんな映画を作ったのか?ってーと、意外にも得意
の超大作スペクタル・ファンタジーではなくて、ミニマム(?)ファミリー・ファンタジー
であった。こりゃ、映画会社の営業マンは試写後に悩んじゃっただろーなぁー。
結論から言えば、失敗作。しかし、好意的過ぎる解釈かもしれないが、ジャクソ
ンは数多くの超大作を監督してきた経験から、超大作ゆえに作品中でどんどん広
げてゆく大風呂敷をエンディングに向けて、つじつまを合わせるために回収してゆ
くとゆーおきまりの作業が、予定調和の不快として生理的に拒否してしまうように
なってしまった結果、観客が消化できない作品にしてしまったのではないのか、と
私は一方で思ってしまった。それは超大作での大成功作品を連発した表現者の
みが持ってしまう神経症の一種だと思う。
と言うのも、この映画には魅力的なキーワードや、印象深い詩的な映像が惜し
みも無く連続して登場してくるのだ。ただ、それらが最近の映画の流行の手法の
ようには、結論に向けて一直線につながらないだけなのだ。たとえば、殺人犯人
が好む穴の中の隠れ家と、主人公の父親の趣味であるボトル・シップは、穴の中
の閉じられた幸福な完成された世界の象徴だが、そのふたつのイメージを溶解し
て映画全体のパラノイアに止揚することも可能だが、ジャクソンはそれをはるか手
前で放り出している(と、私は思う。)。もしそれをすれば、死んだ主人公の死の世
界の荒れた海でたくさんの巨大なボトル・シップが難破船となって、海岸に打ち付
けられてボトルを割ってゆくという美しくも恐ろしい幻想的な映像に、観客の誰もが
瞬時にイメージできる具体的な比喩を染み込ませることもできたはずだ。
また映画の時代は1973年なのだが、その必然性の説得力も無い。時折、朝食
のBGMがポール・マッカートニーの「アナザー・ディ」であったり、通り過ぎるレ
コード屋の店頭にストーンズのベロ・マークやデビッド・ボウイの『アラジン・セイン』
の巨大なポスターが貼ってあって、私なんぞは萌える(?)のだが、それ以上の効
果は感じられない。1973年と言えば村上春樹『1973年のピンボール』だが、そも
そもジャクソンは1961年10月31日生まれで私と同級生なのだが、春樹のような全
共闘世代が感じる特別な年とも思えない。幸福な少年時代の象徴の年なのか?
そんな中途半端さと未消化の謎以前の疑問が多い映画だが、もっとも説得力
を持った存在が主人公である殺された14歳の少女を演じたマーク・ウォールバー
グのキャスティングだろう。たぶんジャクソンはやっぱ、映画館で観たい♪『つぐない』を観て彼女を発
見したのだと思う。さらに『つぐない』の監督ジョー・ライトはジャクソンよりも11歳も
若い、1972年生まれだ。まだ3作しか監督していないが、それが2005年の『プライ
ドと偏見』、2007年の『つぐない』、2009年の『路上のソリスト』なのだから、超大作
ばかりで48歳になっちまったジャクソンが種明かし以外の映画を目指した理由も
分からないでもない。『ラブリーボーン』は当初、2009年3月19日に全米公開予定
だったが同年12月11日に変更となった。その公開延期には監督と営業との「表
現」と「分かりやすさ」をめぐる葛藤があったと想像するのは私の深読みだろうか。
いぜれにせよジャクソンが体験してきた映画界での実績は無駄ではない。私が
今、彼に助言ができるとすれば、まずは物語の全体でドキュメンタリー級のリアリ
ズムの映像を重ねてゆき、終盤でそれら全てを象徴する抽象的なファンタジーを
ひとつ優雅に差し出すことだ。ジャクソンはそれができる監督であるし、今回の失
敗作(?)もその日のためだと思いたい。
Oh ! うめぇ〜♪肉体の共犯としての食犯。Ristorante Know no Bounds (リストランテ・ノウ・ノー・バウンズ)
旭川市10条通り20丁目3-22 電話;0166-32-1899
ランチ;11:30Am〜3Pm ディナー;5〜9:30Pm
定休日;水曜日 駐車場;たっぷ〜り、あり 予約;必要なし
→じゃあ、今度喫茶店に連れていってね。
赤い目が山から追い出されるまで。久保のベロ
上記の写真中央の「バウンズ・ロール」\1300を食べた。ハンバーグが得意なオ
ーナー・シェフによるオリジナルなのか、もちっとしたケチャップ・ライス(?)がハン
バーグの衣に包まれている。親しみが沸く、とゆーか、なぜか懐かしさすらある。
そもそも、このレストランは高級感のある建物に、まるでスーパー・マーケットの
チラシのようにキッチュな(?)カンバンが掲げられているアンバランスさがある。
たぶん旭川市ではセンスがありすぎては客は来ないのだろう。それに、ここはレス
トランと言うよりは、いわゆる日本的な”洋食屋さん”が正しいカテゴリーだと思う。
ラーメン屋全盛の現在、日本の洋食屋の伝統はほとんど無視されているが、そこ
で築かれてきた食文化はきちんと評価し、継承しなければならないものだと私は
常々思ってきた。ただ、「レストラン」と名称すればフレンチとイタリアン以外は、
どこの国なの?って反応しかでないのが銀座以外の日本だ。どこの外国でもない
日本の「レストラン」が、洋食屋なのだ。しかし、旭川あたりでは洋食屋は定食屋
と区別されないのが哀しい現状なのだろう。実際にここのメニューを見ても、営業
的に本領が発揮されるのはお得感のあるサービス・ランチやワン・プレート定食
だったりする。だからなのか、我々がセット・メニューではなくて単品づつしかオー
ダーしなかったことに、ウェイトレスはやや驚いてすらいたよーな気がしちゃう。
パスタはやや弱いが、スパイシーなビーフシチューは赤ワインと合いそう。スモ
ーキーなコーヒーは旭川グランドホテルと同じ味で、これが旭川のコーヒーの味な
らば私は”旭川コーヒー”のファンだ。そうなのだ。たぶん、オーナーは夜、ワインと
ともに肉料理を楽しむ夜のオトナのレストラン=洋食屋にしたかったのではないの
か?それが旭川に合わせた営業形態を模索した結果、ランチ・タイムがメインの
定食屋になった・・・・・・のだと思うが、どうだろう?そんなオーナーの悩みと葛藤
そのものが建物とはアンバランスなカンバンに表出されているとも思う。もし私が
旭川市に住んでいたら、気軽にここでワインを楽しむんだけどなぁ。どうですか、
旭川のオトナのみなさん?外食産業って、食べる側も試されているんだよね。
text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2010年2月15日 月曜日 2:27Am)
2010年2月24日 水曜日
Oh ! うめぇ〜♪肉体の共犯としての食犯。Fleur d' Olive
フルールド・オリーヴ
札幌市豊平区6条6丁目5-16
電話;011-815-5151
地下鉄東豊線学園前駅2番出口すぐ
北海学園大学の斜め前
ランチ;11:30Am〜3Pm
ディナー;5Pm〜12Pm
定休日;月曜日
駐車場;10台

2001年に死んだ私の「塩」の先生、
”伯方の塩”の松本永光・社長(当時)
と、待ち合わせをしたレストラン

そーゆー意味で、
私にとっては
感慨深いレストランなんだけど、
2001年から9年ぶり(!)に来てみた。
北海道産冬の野菜80%のオードブル♪
北海道産の黒豚♪
味はイイけど、温度が低いな。脂の良さが出切っていない〜。
ワインは、コート・デュ・ローヌ♪グルナッシュの濃い香りが、たまらんっ。
フランクな対応がうれしい♪
デザートは、どれも美味♪
赤い目が山から追い出されるまで。久保のベロ
『冬のビストロディナー』を食べた。
最初の「サプライズ」はカボチャを裏ご
ししたスープに、ニョッキひとつと小さな
生ハムが浮かんでいて、濃厚な海にしょ
っぱさを差し込むアクセントのセンスに
期待がふくらむ〜♪
「オードブル」はこの日一番の美しい
盛り付け♪見た目でパイナップルかと思
うと、温かくてやわらかい大根だったりし
て、シェフのアイディアいいぞ♪
「本日のパスタ」は自家製手打ち麺。
あっさりスープにボンゴレ。これがこの店
のスタンスだと見た私(笑)。
「北海道産”黒ブタ肉”」は温度が低い
のが残念。脂身のうまみが出ないから。
デザートもパンもエスプレッソも美味
しい。予約なしで、この味と雰囲気。悪
くないね♪昼は1000円以下のランチも
あるから、長く愛されてきた店なんだな。
やっぱ、映画館で観たい♪『人間失格』
監督;荒戸源次郎
原作;パラパラ・・・太宰治
脚本;浦沢義雄、鈴木棟也
撮影;浜田毅
美術;今村力
衣装デザイン;宮本まさ江
出演;生田斗真、伊勢谷友介、森田剛、小池栄子、坂井真紀、室井滋、柄本佑、
寺島しのぶ、三田佳子、石橋蓮司、石原さとみ、大楠道代、麿赤兒、絵沢萌子
赤い目が山から追い出されるまで。久保の眼
キャスティングもいいし、俳優の気合も入っ
ているし、美術は昭和初期の怪しさと、はかな
さに幻想シーンも加えてゴシック調にまとめて
いるし、なによりもこの原作だし。・・・なのに満
足感が得られないのは、前半に鈴木清順フォ
ロワー、後半に寺山修司コンプレックスを感じ
てしまう私の映画あたまでっかち(?)のせい
だけなのか?
これが監督3作目となる、ベテラン映画プロ
デューサーでもある荒戸(1946年10月10日〜)
は日本経済新聞のインタビューで「商業性を
意識した初めての作品」と明かしている。その
理由は、今の邦画は「原作がコミック、(製作
に)テレビ局が付き、2人以上の人気若手俳
優を配した映画ばかり。観客もまるでテレビを
見るように、出演者が何かをする前に待ち構
えて笑い、泣く。」のでこの情況を打破するた
めに従来の芸術系(?)ではなくあえて商業
性で闘いに挑んだようだ。そのココロザシ、よ
し。しかし彼の師匠(?)である鈴木清順(1923
年5月24日〜)も寺山修司(1935年12月10日
〜1983年5月4日)も良き商業センスを持って
いた。それはエンターテイメントへ翻訳が可能
な「大衆性」であり、「猥雑さ」であった。それを
個性的なユーモア・センスとして発露されるデ
ィテールで読み取ることが可能だった。そして
それは実は太宰文学の性格でもあった。そう、
それが「本質」ではなく「性格」である点に絶対
孤立者としての表現者の因果性もあるわけだ。
もちろんそれは優秀な映画人である荒戸に
も分かっていたことだろう。それが石橋蓮司や
伊勢谷友介の過剰な演出に記録されたのだが
それらはふたりの優秀な俳優がただ凡庸に見
えただけだった。
いいことだけじゃなくて、逆のことの方がより一層。ありふれたこととか、ツマラナイこととか、そういうことの方がより一層。

そもそも、「男の誇りと勇気とストイシズム」の時代に、その逆を書いた太宰は彼
の時代にはアヴァンギャルドだったのだ。しかし、そうではなくなった時代に同時代
的共感を演出するのは可能か?つまり、文学の普遍性は存在するのか?(→実は
私はここで、「青春の普遍性は存在するのか?」と、言い切ってしまいたいのだが・
笑。)と、ゆーのが今、『人間失格』を映画化する課題と理由の中心だと私は思う。
おりしもサリンジャーが死んで『ライ麦畑でつかまえて』の再読機運が起こっている
偶然も、この際、我々は「猥雑さ」を持って抱きしめ奪いこんでしまうべきだろう。
三島由紀夫が太宰のアンチ・テーゼとしてスタートしたのは有名だが、それは両
者の対立ではなくて、そこには「家族」を文学的コンプレックスに昇華するときのバ
リエーションを見るべきだろう。「家族」の存在も価値も(?)希薄になった現代だか
らこそ、その図式が明確に見える。つまり、私は三島は太宰の「文学的」弟だと読
む。「文学」という「父親」へのコンプレックスを表現するときの差異が、それぞれの
「文学的」差異にしかすぎないのだから。
そして敗戦をはさむ彼らの世代は、天皇というすり込まれた「父親」の存在がさら
にコンプレックスの迷路を複雑にした。また、同時に天皇の存在が文芸評論家には
解読しやすいキーワードとなりえたために、文学者の複雑さを複雑さのままに魅力
として抱きしめる作業を見失ってもしまったのだけれども。
今回の映画が私に満足感を与えなかった理由のひとつは、主人公の「父親」の
描き方があまりにも雑すぎたからだと思う。たとえ、父親は不在でもいい。それはそ
れで父親の強調であるから。しかし、この映画は父親を無視してしまった。そこから
始まる太宰のコンプレックス・ドミノ倒しは、「失格」する資格の背景である「男の誇
りと勇気とストイシズム」の時代も、エディプス・コンプレックスも、天皇制も喚起する
ことがなかった。
エンド・ロール後の太宰への賛辞の文章もいらない。映画の敗北宣言をするの
には、63歳の荒戸は、まだまだ若すぎるのだから。

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2010年2月25日 木曜日 12:17Pm)

2010年2月7日 日曜日

のための

The Top for The Map.
The Map for The Top.
のための

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
(2010年2月10日 水曜日 2:43Am)

金曜日まで−18〜−20度の極寒が続き、土曜日はやや温かく(?)なったとは言え、ようやく−10度。が、今度は突風を含んだ猛吹雪!
ちょっと外を歩いただけで、全身に雪がまとわりつき、髪の毛は(いつもの?)超フラクタル。
そのままアーケードに入ると、横目に雪だるまが見えた。・・・と、思ったらショーウィンドウに映った雪まみれの自分だった。がくっ。
雪まつりで賑わう札幌にやってきたアジア各地からの観光客はさぞ、「ザ・北海道」を体感できたことだろう。
大都会=札幌なのに、まるで雪原を開拓するかのように、私は新雪をブーツで踏み潰しながら、映画館の穴倉へ。

目的の映画館と同じ一角(ちょうど真裏)にあるのが、Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!ギャラリー・エッセなので、映画までの時間つぶし。
常設展(?)なのか、絵のキャプションも無いまま、複数の作家の絵が飾られていて、ぼんやりとした展示。まるで店員とコーヒーの無い喫茶店のよう。
たとえば、ラジオでDJが曲名を言わないで突然かけた曲に新鮮な発見を感じたりするけど、
画家の名前も、絵の題名も、製作年も説明をしないってーのは、そーゆー効果を狙ったのかな?・・・まさか(笑)。
もちろん、絵の価値は画家の名前で決まるわけではないし、絵の題名に頼らなければ解釈できない絵はすでに文学に敗北している。
いつの間にか私も絵には「言葉」(=作者名や作品名。)が、もれなく付いているものだとの自明性に犯されていた、のか?
でも、やっぱり絵の説明は、絵のすぐ下にではなくても、ギャラリーのどこか一ヶ所にまとめた掲示や用紙にでもいいから欲しいなぁ。
と、いつの間にか私は地図を失った旅行者のような気分で、半地下の広い無人のギャラリーで立ち尽くしてしまった。
鳥って小鳥?飼われている?? そんな中、
北海道に住む
美術評論家
5人が共同で
発行している
フリー・ペーパー
『美術ペン』の
最新号があった。
手に取ると、
なんと
巻頭のエッセイは

彼女の今年の
年賀状に、
「深川は、
本当に
楽しかった
です。」
と書いてあって、
去年の
深川市での
大(?)回顧展は
彼女にとって
とても
充実したものに
なったようだ。

書かれている
エッセイは、
その回顧展に
至るまでの
心理が
独特の文体で
書かれていて
とても
興味深かった。
そうか、悲鳴の哀しさは、お終いの痛みなのか。

書かれていることを少し抜粋しながら紹介すれば、
彼女にある日、私の中のカーテンを一時閉めた日が訪れたそうで、その体験から得たことが書かれている。

彼女にとってそれは、
悪い意味での
「ひきこもり」ではなく、
むしろ、そうすることで、
自分を取り巻く世界の多様さ果てしなさに気が付くことが出来たように思います。
そして、そこに私と言葉との隙間を埋めてくれる何者か達が、
沢山隠れていると感じたのです。
と、生産的な「孤独」だったようだ。

その「カーテン」の中で彼女は、
漠然とした思惟をまず「言葉」に置き換えるが、
「言葉」とは自分のものではなく、
他者が作った記号にしかすぎないという
考えに行き着き、
ふと、自分のいる場所が
何も無いがらんどうの空間に感じられるのです。
そして、その奥に
私のもう一つの現実への入り口を見つけるのです。
これは優れて抽象的な説明
(まるでデヴィッド・リンチ監督のドラマ『ツイン・ピークス』の
精神世界のようですらある。)だが、
まさしく、これが彼女の作画技法なのだろう。

文章は後半になると、
やや凡庸なまとめに入ってしまうが、
「美しい」と、言葉にする前の未整理なままの気持ちを大切にしたいという宣言(?)は、とてもたくましい。

ある意味、「言葉」へのアンチ・テーゼとも読めるし、
美術評論家たちの同人誌(?)に、美術「言語」を超えることについて書いているのだから、挑戦的と読めないこともない。
しかし、北海道の画壇のスーパースターとは言え、1980年生まれの彼女はまだまだ中堅からもはるか以前の年齢だ。
これは、画壇という地図上に刺した、自分と言う針の頂点に立つ孤高の表現者の謙虚な制作秘話と読むのが正しいだろう。

彼女がここで使った「言葉」とは、自明のもの、既成のものの総称と私は読んだ。
ややもすると現代は情報の流通のスピードを速めるために、あらゆることをデータ化するために、あらゆるものを流通可能な記号に置き換えようとする。
そこにタイクツな自明性の罠が待っているのである。
記号化される以前の「未整理なまま」を絵筆の向こう側に描きとめる。
それができる高度な技術が担保されている彼女の今年の新作もまた楽しみだな〜♪


12:35Pm〜2:55Pm
蠍座 2本で\1200

やっぱ、映画館で観たい♪『劒岳 点の記』
監督&脚本&撮影;木村大作
原作;新田次郎
出演;浅野忠信、香川照之、松田龍平、仲村トオル

★火星大接近の日に、眼球に乗り移った火星♪赤い惑星が眼球に焼き付いた!?久保の眼
昨年、2009年にひっそりと上映されたが、年末になってから
多くの賞を受賞して、映画館で見逃した映画マニアはあわてた
ことだろう。実は私もその一人であり、この映画の存在は知って
はいたが、まったく感心の外だった。蠍座のような「二番館」は、
ロードショー上映が終了後に沸いた興味を回収してくれるから
ありがたい(笑)。
で、その受賞の理由は、木村大作(1939年7月29日生まれ)
とゆー職人肌の映画撮影技師が、73歳にして初監督をして、
空撮やCG処理に頼らず、体感温度が氷点下40度の立山連峰
や剱岳で山小屋やテントに泊まりこみ、長期間をかけ丁寧に撮
影を行った・・・とゆー超「手造り」な姿勢への業界的(?)リスペ
クトが大きかったと私は思う。やはり、「真面目」は「真面目」で
あるとゆーだけで充分に価値があるし、その機会があるごとに
きちんと評価の声を意識的にやや大きな声で上げておかねば
ならないとも、私ですら思う。
そうなのだ。「真面目」には、「評価」が必要なのだ。私のよう
に幼少期から現在まで「評価」の外で生きてきた(がくっ。)者に
は、なにやらその構図そのものが座り心地が良くない、にせよ。
そんな「真面目」の「評価」は、軍隊や学校や会社に代表され
る組織の維持装置にもなっている。また一方で、組織の責任を
軽減する役割として、「真面目」は同じ体験をした者にだけ
共有できる「仲間」意識を準備する装置でもある。この映画の
スタッフ・ロールはまさに、監督もエキストラもスポンサーもが「仲
間たち」とゆー職名(?)の下に公平に(?)名前が羅列されて
いる。
別にわざわざヘソマガリなことを書きたいわけではないが、私
2006年に羊蹄山に登山をしたときに強く再確認したのは、
まさに私が幼少期からずっと抱えてきた「仲間」意識とゆー特
権意識に閉じる幸福感への違和感だったのだ。
「幸福のしるし」確かにそうかも・・・信頼してもらえるってことだから。信頼してない人には、頼みごとって出来ないし(どうでもいい頼みごとほどそうだと思う)。

その私の羊蹄山での体験記の冒頭の一部分をここに転記しておこう。
なぜならば、これは私が物心ついた一番最初の時期からずっと持ってきた感情だから。

私は、羊蹄山に登った。
それは、スゴイ体験だった。これから、それを説明しようとしている自分の文章力を、書く前から疑ってしまうほどに、スゴイ体験だった。
もしかしたら自分の人生は、「羊蹄山を登る前」と「羊蹄山を登った後」の二種類に区分できるのではないか、とゆーホドである。
それほどまでに強烈な体験であったのに、その体験を読む人に正確に伝えられるかどうか、書く前から自信が無い。
いったい、この巨大な体験を、どのように言葉で伝えればいいのだろうか?
写真をもってしたところで、まだまだ正確には伝えられないだろう。
もちろん、一番、ハードでヘビーな状態にはカメラを持つ余裕なんて無かったから、手元に残った写真は、楽しいハイキングのよーな、お気楽なスナップばかりだ。
いや、もし、マイナス気温の濃霧、激しい嵐の中、ずぶ濡れになって崖に足をとられ、転落しそうになっている場面の写真があったとしても、
『共犯新聞』読者に正確には伝わるまい。

そんな時に、私が想ってしまうのは、たとえば、真夏のグラウンドで長時間、ボールを追った共通体験で芽生える「友情」とゆーヤツへの、違和感である。
また、「とにかく、言葉なんて必要ない。ストーンズ、最高!」とか、
「この本の感想?とにかく、読め!」とか、
「素晴らしい美術作品に言葉など不要だ。」とゆーヘドの出るようなクソ発言。
それらは、明らかに「批評」の敗北である。
しかし、私が今、羊蹄山で全身に得た体験を言葉(=人文知)によって回収できないのであれば、私もまた同罪なのである。
羊蹄山も巨大であり、さらに、それを表現する言葉を作り上げることも、同様に巨大なのである。

共犯遠足日記 『羊蹄山を、脳味噌に「回収」せよ。』 より text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2006年9月22日 金曜日 3:30Am)


映画『劒岳 点の記』は1907年(明治40年)に、地図を作るために前人未到の山の頂点へ昇る物語だったが、
この日に観た3本の映画はどれもが、
頂点をめぐる物語であった。

私は同じ映画館の座席に座ったまま、今度は「芸」の頂点をめぐる、「落語」という地図の物語を体験することになる。


本当の「仲良し」は、普段は手続きが要らないようにやりとりが出来て、でも。肝心な時というのを見逃さず、手続きの変更時期を逃さず察知できる、 という緊張感と、信頼の両立の関係、なんだろうなー。
3:05Pm〜4:55Pm
蠍座 2本で\1200

やっぱ、映画館で観たい♪『小三治』
監督;康宇政
出演;柳家小三治、入船亭扇橋、柳家さん八、柳家小里ん、
三遊亭歌る多、桂ざこば、立川志の輔、柳家三三、桂米朝
語り;梅沢昌代

★火星大接近の日に、眼球に乗り移った火星♪赤い惑星が眼球に焼き付いた!?久保の眼
まったく期待しておらず、観たい2本の映画の間に時間つぶしのように観た映画が
その日、一番面白かった、いや、生涯忘れられない1本になるってのは映画に淫して
いる愚か者への最高のプレゼントのひとつ。この映画が、そっと差し出された、それ。
もちろん私の「そうか。私、小さいときからお兄さんが欲しいと思っていたけれど、その夢がかなったのか!」と気付いたのだ。落語好きは有名(?)だし、意外と(?)保守的な私は立川談志
が苦手なこともあって、古今亭志ん朝亡き後、江戸落語の支柱としても小三冶はひ
いきにしている。それでも、この映画はたぶん、小三冶の日常を追っただけの記録に
しか過ぎねぇんだろーな、と高をくくっていた、の、だ、が。・・・がーん。
落語に「形(かた)」と呼ばれるキメのパターンがあるが、この映画は静かに始まり
ながらも、しだいに同じ「形」を少しづつ重ねながら、いくつかの重要で魅力的な発見
を無言のうちに観客が自ら気が付くように仕掛けられている。う〜む。にくい。誰だ、
この康宇政ってぇー監督はぁ?こちとらぁ、名前の読み方すら分からねぇーぞ。なに
カン・ウジョンってぇー、1966年に東京で生まれた韓国人だってぇ?・・・うううむむむ。
たとえば、小三冶が高座で落語をしているのを舞台の袖で首をうなだれながらじっ
と聴いている弟子の姿を映画は納める。おお。普段は見ることができない楽屋裏。な
んとなく得した気分。・・・映画は小三冶の日常を追いつつ、時折、同様のシーンが
インサートされる。うなだれて聴く弟子が、時には人気落語家の立川志の輔だったり
するときもある。・・・そして映画がずいぶん進んだころ、関西落語の大重鎮、桂米朝
が舞台で滋味のある落語をしている。カメラは控えめに移動し、舞台の陰で首をうな
だれながらじっと聴いている小三冶の姿を逃がさない。編集は、それを切らない。
そうだ。ドキュメンタリーとは劇映画以上に編集が重要になる。撮り溜めた無限の
時間を編集という意思が再構築する宇宙がドキュメンタリーを優れた作品にするし、
時に見事なエンターテイメントにする。
映画を観た誰もが息を呑むのは、「師匠は稽古をつけてくれたことがありません。」
と言う弟子の柳家三三が懸命に練習をしている顔のクローズ・アップに重なる小三冶
の「違う!・・・そこ、そこ、そこだ。うん。うまい。・・・もっと、ゆっくり!ええいっ!だから
お前はヘタクソだって言うんだ!・・・う〜ん。いいなぁ。」という声が重なる場面。実は
カメラが引くと、これは楽屋の隅でひとりで練習している三三を無視して、足の指を付
き人にマッサージしてもらっている小三冶の声だったのだ。もしこのシーンだけを取り
出せば、観客はその「オチ」に大爆笑するだろう。しかし、他の場面で笑いながら観
ていた観客も、このシーンには息を呑んでいた。そんな凄みが記録されているのだ。
また、小三治の兄弟弟子である入船亭扇橋のひょうひょうとした、まるでボケ老人
のようなキャラクターも、クライマックスの楽屋でのたった一言の落語のアドヴァイスの
正確さのための布石のようだ。つまり、これら全てがフーガのように繰り返され、重ね
られ、最後には恐ろしい世界の頂点にまで連れて行ってくれる映画が、これなのだ。

映画『劒岳 点の記』はドキュメンタリーではないが、厳寒の冬山登山をしつつの撮影とゆー行為そのものが、ドキュメンタリーであり、
実は映画を観ている観客も、その圧倒的な映像(=もちろん、すばらしく美しい・・・。)に感動する。
もしかしたら、映画の物語性よりも。
だから、『劒岳 点の記』は映画監督&撮影カメラマン=木村大作自身を描いたドキュメンタリーなのだ。

と、『小三冶』を経験した私は強く感じた。


そして、映画館を代えて、またもうひとつの「頂点」のドキュメンタリー映画、である。

8:30Pm〜10:54Pm
ユナイテッド・シネマ札幌 「深夜」割引き \1200
やっぱ、映画館で観たい♪『インビクタス/負けざる者たち』
監督;クリント・イーストウッド
出演;モーガン・フリーマン、マット・デイモン

赤い目が山から追い出されるまで。久保の眼
ネルソン・マンデラの役をモーガン・フリーマンが演じる映画を
クリント・イーストウッドが監督する。・・・みっつの美しい頂点を持
つ理想の正三角形がこの世にあるとすれば、それはそのことだ。
しかし、映画はその極上の三題噺を超える奇蹟を見せてはく
れず、ここ数年、圧倒的なクオリティを発光してきたイーストウッド
にしては久々の凡作。その原因はイーストウッドがノンフィクショ
ンという「事実」の罠にかかってしまったからだろう。もちろん彼は
映画館で、撃たれる。『硫黄島からの手紙』で史実という過去をリアルな「事実」
に取り戻すことに成功したし、映画館で、引き裂かれる。『チェンジリング』では陳腐な
設定を「事実」であるこによって怒りの共感に昇華した。それが最
新作ではスポーツで頂点になることにより、国民の愛国心をまと
めあげようとする分かりやすさ以上のものを手に入れることがで
きなかった。それはスポーツの試合を結果が分かっていながらビ
デオで観るようなものだ。安心して観ていられるが、どんでん返し
のスリリングさは無い。それはイーストウッドのマンデラへの絶対
的なリスペクトからでもあるのだろう。理想の頂点は美しいからこ
そ、複雑性を求める映画のような表現にはタイクツなのかもしれ
ない。それでもイーストウッドがこの作品を撮りたかった気持ちは
よく分かるし(←すごい上から目線・笑。)、その価値もある。それ
は社会的「責任」のようようなものであり、実はかつてはドキュメン
タリー映画がそれを担っていたのだ。たとえば映画館で、引き継がれる。土本典昭の
『水俣病』シリーズのように。そして原一男が切り開き、マイケル・
ムーアが爆発させ、『小三冶』が染み込ませたようにドキュメンタ
リーが優れたエンターテイメントとして越境してきた今、イーストウ
ッドの「真面目」さはまた新しいまぶしさを観客席に見せ付けてく
れる不器用な頂点なのだ。今、イーストウッドは映画という地図の
荒野の用心棒になった。
自分(の、能力や才能の無さや狭さ)に「合わせて」スケールが小さそうに見えるものを目標にする。という時点で、実はもう、 一番見つめなければならない、芯の一本、肝心なひとすじの処を、もう見落として誤魔化しているようなものだよね。 それこそ「謙虚」というような、汚いすり替えをして。


映画が終われば、また私は北にある自宅へ120kmの国道275号線を走る。
豪雪で狭くなった道を、吹雪の中走り、たどり着いたのは、
「頂点」と呼ぶにはあまりにも中途半端なねぐらなのだけれど。