■最
近、「同窓会」(的)シチュエーションものの創作が多いような感じ。
姫 野カオルコ、
重松清、朝倉かすみらが、得意だし、
マンガだけど
浦
澤直樹『20世紀少年』も、そうだな。
小説だけじゃなくて、先日観た、展覧会
『ウ
キキのメ』も同窓会テイスト(?)だった。
同窓会には、個性的な登場人物、重層する人生、種明かしの瞬間などなど、
物語として魅力的な素材にあふれているのは、確か。
■が、ここにきての「同窓会」、
および「同窓会」的物語の充実には、
それだけではなく、
豊かな子供時代を過ご したものだけが
感じる事ができる喪失感からだ
と思う。
■すげー誤解されそうだが、たと
えば、幼少期に裕福な家庭で成長しながら、
親などを通じて文化に触れてきたものが、
成長後に没落した親の仕事を直視せずに、
幼少期を語ることで間接的に豊かさを読者に伝えることは可能だと思う。
かつてこのような過去を持っていたのは都会のほんの一部の階級だけだった。
そのもっとも、ひりひりして極端な異端の文学が太宰治『斜陽』であったのだろう。
そして、バブル崩壊、シャッター商店街の蔓延、派遣切りの今日、
1950〜1980年代に幼少期を過ごした者の多くには
その権利があるようになってしまった。
■例を出したほうが分かりやすい と思うので、
これまた誤解されそーだが、あえてあげれば、
森茉莉や、向田邦子の描く豊潤なノスタルジーの世界。
明らかにそこにある
「特権階級」の失われ た幸福。
ただ、それを自慢するわけでも、同じ「階級」に同意を求めるわけでもなく、
ただひたすら、自分自身と失われた愛すべき家族や友人にのみ、静かに語る。
■終わっちまったものは、もうど
うしようにも、変えられない。
で、同時に、終わってしまったものは、もうあれ以上に悪くならない。
その
奇妙な安心感。
人は安心感を持つとき、なぜか罪悪感もちょっぴり感じちゃう。
だから、人は想い出をするとき、
無意識に「後悔」をクローズ・アップし、罪悪感を軽くする。
しかし、ほとんどの想い出は1人で勝手にするものだから、
そんなことは本当は気にする必要などないんだ。
でも、気にしちゃう。
なぜだろうか。
私は、それは、「品」の問題だと思う。
上品な人は、うつむき加減に過去を想い、たいせつなものを忘れない。
下品なやつらは、その横を土足で大またで
ゴミを吐き散らしながら、上品な顔をしている。
思えば、
忌
野清志郎は、とてつもなく上品な人だった。
■「品の良さ」って何だろう。
それは、感情をより細かく刻むことができる「やさしさ」だと想う。
たとえば、4ビートの社会で16ビートを刻むことが、「品のよさ」だ。
刻もうと思わなくても刻んじゃうんだから、そりゃぁ、傷つくこともあるだろう。
そして、社会は「品の良さ」と「正しさ」などをごちゃまぜにして頭から押し付ける。
何も分かっていないオトナが、
何も分かっていないコドモを、箱に入れて整理しようとする。
めんどうなのは、それもまた「やさしさ」だから。
過ぎてしまった想い出の多くに、
罪悪感がうっすらと覆われているのはそんなことからもだろう。
■そして&もちろん、人は罪悪感
だけでは生きていけない。
だから、美しい想い出のために、「ともだち」とゆー装置が仕掛けられているのだ。
理不尽な教師の行動を涙ながらに受け入れる時、
同時に友だちが描かれていなければ、
読者への説得力も共感も得られにくい。
■人は人生を二度、生きるのだろ う。
最初は、当事者としてリアル・タイムに。
二度目は、思い出として。
■たぶん、「思い出」は人間だけ がすることだろう。
思い出ができない動物たちから見ると、
思い出なんか、病気の一種に見えちゃうんだろうな。
■ああ。なんて、こどもの日にふ
さわしい読書と、書評なんだ(笑)!