![]() ▲2015年11月30日、テレビのニュース速報で私は 知った。 |
水木しげる (1922年3月8日~2015年11月30日)が、 死んだ。 マスコミは、水木しげるを総括するかのように、 「ナマケモノの美学」 と、 「戦争の悲惨さを訴えた偉人」 の 2つを讃える。 う~む。 そのとーり。 だけど今、私は、 ![]() 同じ感覚を感じている。 あの時も報道は、 「やんちゃなロックンローラー」 と 「平和を訴えた偉人」 の 2つをステレオ・タイプで繰り返した。 |
|
もちろん私は、それらを否定しない。 ただ、ネガティヴな面と、ポジティヴな面を並べることで、 死者の奥行を語ったつもりでいる えせジャーナリストの浅さが、悲しいと強く感じる。 むしろ、その異質な2点が 深いところで交わる本質をつまみあげる ことこそが、 ジャーナリストの仕事だ、 と私は感じるのだ。 私が感じる水木しげるの本質を語る時の キーパーソンは、 ![]() その理由は、私は19歳の時に読んだ、右のエッセイからだ。 |
![]() ▲月刊誌『遊』1981年8・9月号で、水木しげるはゲー テを語った。 |
|
![]() ▲ゲーテを読まずに死ぬ不幸。 |
このエッセイは、 この雑誌の特集記事「読書」に合わせての アンケート「あなたにとって<読宴>の名に値する一冊は?」の 回答なのだが、 水木しげるは、 エッケルマン ![]() 2つ目の質問「どのようにめぐり逢ったのか。」には、 「偶然、河合榮治郎 ![]() 必読書目にあげられていたので。 なにしろ必読書目は全部読んだので偶然、 それに出会ったのです。」 と、答えている。 ちなみに水木が『ゲエテとの対話』を最初に読んだのは、 18歳、1940年のジョン・レノンが生まれた年だ。 当時の訳者は、 亀尾英四郎 (かめお・えいしろう、1895年3月10日~1945年10月11日) で、訳した1922年は水木が生まれた年。 亀尾が50歳の若さで死んだ原因とは、 70年前の敗戦後、 ![]() 亀尾が餓死した2年後の1947年10月10日には、 ![]() |
|
今回、水木しげるが死んで改めて強く感じるのは、 世間は、水木しげる自身のイメージ操作に、まんまと乗ってる、ってこと。 ぐーたらだけど、戦争で苦しい体験をしたので、 あーゆーマンガを描いた。 あほか。 違うんだよ。水木しげるは、最初から、水木しげるなんだよ。 さっき紹介したエッセイで、河合榮治郎の本を読んだ、 と書いてあるが、これは戦争に行く前だ。 左に紹介された山下肇のエッセイの通り、 当時の高校生は河合榮治郎の本から教養主義を磨いた。 それは幾分、滑稽過ぎるのだが、 少なくとも現在の高校生よりも私には魅力的に感じる。 もっとも戦中は、高校に進学するのは、ほんの一部だ。 そして水木しげるは、 兄も弟も中学校に進学しているのに高等小学校卒だ。 その小学校ですら、話すのが遅かったために1年遅れて入学している。 しかし、18歳の水木しげるは、河合榮治郎の本を教師として、 そこで紹介されている本をすべて読んだのだ。 それは右の写真で山下肇が回想している通りだ。 水木が2003年に日本経済新聞で連載した「私の履歴書」でも、 19歳前後にショーペンハウエルや ![]() 「河合榮治郎が書いた青年のための読書案内を 参考に膨大な本を読みあさった。」と書いている。 そして「最も愛読したのはゲーテで、 特にエッカーマンの『ゲーテとの対話』にしびれ」、 21歳で軍隊に入った時、「文庫本の『ゲーテとの対話』上中下三冊を 雑蓑(ざつのう)に入れ、デッサン用の紙と鉛筆も忍ばせた。」。 |
![]() ▲筑摩書房『ゲーテ』月報で、山下肇が河合榮治郎を書く。 |
|
![]() ▲トーマス・マン「作家としてのゲーテの生涯」より。 |
山下肇は水木しげるより2歳年上だが、 1942年、東京帝国大学の 独文科を繰り上げ卒業、陸軍に入隊し出征。 水木は二等兵として、南の激戦地ラバウルへ。 山 下は ![]() つまり、家柄も学歴も、兵隊の階級も、任地も違う水木と山下は、 同じ河合榮治郎の本を読み、 同時期に軍隊に入隊したのだ。 そして2人とも河合の本から 「特にエッカーマンの『ゲーテとの対話』にしびれ」、 山 下は戦後、『ゲーテとの対話』を新訳し、 いまだに日本で読める『ゲーテとの対話』は 山下訳が定番と なっている。 また山下は1959年に 日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長を務め、 『きけわだつみの声』を復刊させる。 山下と水木は、ゲーテをはさんで、違う手法で平和を訴え続けたのだ。 このように河合榮治郎は1940年代の若者に大きな影響を与えたが、 当時の河合は、大っぴらに読めない危険思想家でもあった。 1931 年の満州事変、1932 年の五・一五事件、1936 年の二・二六事件 が起こる中、自由主義者の河合榮治郎は 「五・一五事件の批判」や「二・二六事件の批判」などを書き、 軍部へのファシズム批判の論陣を張った。 右翼は軍部と政府を動かし、1938年2月、 ファシズム批判に関連する河合の著書『ファッシズム批判』、 『時局と自由主義』、『社会政策原理』、『第二学生生活』 の4冊を発禁処分にした。 これが、1938年から1943年まで続いた「河合榮治郎 事件」であり、 水木や山下はこの時期に河合に私淑したのだ。 それは徴兵で死ぬ未来しか選択肢が無い当時の若者の、 唯一の自由だったからこそ、「1940年代の若者に大きな影響を与えた」。 |
|
つまり、水木しげるは、山下肇のような超高学歴者と同
じ教養を 独学で学んだのだ。 ここが、重要。 今、日本のマスコミは、 水木しげるは、 「小卒の貧乏人」で、 「学の無いナマケモノ」だが、 「戦争体験で表現者に成長した。」 とゆー物語を捏造しているが、 水木の父親は地元でも珍しい早稲田大学の卒業生で、 水木自身も哲学書を読みふけった文学青年であり、 家系も江戸時代から続く境港の回船問屋『武良惣平商店』で、 裕福だったので家にお手伝いさんがいたから、 そのお手伝いさんが水木に妖怪を教えた「のんのんばあ」なのだ。 こうしてすでに身に付けた独自の人格と知識で、 水木は戦争の理不尽さを見抜いたのだ。 |
![]() ▲これも、トーマス・マン「作家としてのゲーテの生涯」よ り。 |
|
![]() ▲さらに、これも、トーマス・マン「作家としてのゲーテの 生涯」より。 |
では、な
ぜゲーテが妖怪になったのか? その答えのひとつが、 ←左に トーマス・マンが紹介したゲーテの言葉 「特殊なものが普遍的なものを代表している」 に含まれている。 |
|
そして
ゲーテは、 私が大好きな ![]() ![]() ![]() 「ドイツ・ロマン派」のファースト ![]() この文学運動は、古い民話を継承し、モダンへの昇華を創造した。 それって、水木サンっぽい。 水木しげるの生前最後の本は、2015年9月9日に刊行された、 角川新書の ![]() この内容は最近、発見された水木の20歳の時の読書日記だ。 まさに、河合榮治郎の読書ガイド本にそって 哲学書を読みまくった記録だ。 この本が水木の死に間に合ったことは、すばらしい。 水木は生きているうちに、 水木は最初から水木だったことを証明できたのだから。 |
![]() ▲関泰祐による筑摩書房『ゲーテ』の「解説」。 |
|
![]() ▲評論家の呉智英は、1970年代に水木しげるの脚本ス タッフだった。 |
そして、「ゲゲゲ」だ。 水木しげるは、 2003年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で、 幼少の頃、自分の名前の 「『しげる』がうまく言えずに 『げげる』になって、あだ名 は『ゲゲ』」 となったと書いている。 なるほど。 だから貸本時代の『墓場の鬼太郎』のタイトルがドギツイので、 メジャー少年雑誌向けに 『ゲゲゲの鬼太郎』にした理由は、これか。 ん? まてよ。 あだ名は「ゲゲ」だから、 『ゲゲの鬼太郎』でいんじゃね? |
|
そこで私の仮説なのだが、 『ゲゲ』に加えた3番目の『ゲ』は、 ゲーテの『ゲ』ではないだろうか? |
![]() ▲1994年刊の『水木しげるのラバウル戦記』は、戦争モ ノの代表作。 |
|
![]() ▲『水木しげるのラバウル戦記』で、左腕を切断したシー ン。 |
先に引用した月刊誌『遊』1981年8・9月号で、 水木しげるは他人に腹が立った時に、 エッカーマン『ゲーテとの対話』でのゲーテの発言を引用している。 ↓ 「ははは ぼくなぞは、悪口いう人間が一個師団はいるね。 ふつうあきらめてガマンしているが、 時にガマンできないデマがひろまったりする。 そこで、ボクはひそかに調査してみたら 意外な人が、ぼくの敵だっ たので、 おどろいたことがあるネ」 ↓ そして水木サンは、こう結論する。 ↓ 「ゲエテは聖者でなくいわゆる”人間”なの です。 だから、さまざまな相談に応じてくれるのです。」 私はこれを19歳の時に読んで、 ジョン・レノンがビートルズを辞めて発表した アルバム ![]() ジョンの人間宣言 を連想した。 |
|
あれだけ多くの魅力的な妖怪たちを私たちに教えてくれて、 アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマ・ソングで、 「楽しいな 楽しいな おばけにゃ学校も 試験も なんにもない」 と、人間以外を追求してきた水木しげるの 本質は、人間だった、という ![]() 「ナマケモノ」だったのではなく、自分のペースを持っていただけ。 「戦争がきらい」ではなく、戦争の必然である不自由がきらいだった。 それが、本質だ。 だから、水木にとっての妖怪とは、自由だったころの人間な のだ。 |
![]() ▲共犯書斎にある2003年の連載「私の履歴書」や、 2005年のチラシ。 |
|
![]() ▲隠れてから始まるのが、おばけのルール。 |
そして19歳の水木は自由になるために、ゲーテを読み、 21歳でラバウルの戦場を逃げまくった。 それを水木が描いた『総員玉砕せよ!』は、 大岡昇平が ![]() インテリが戦場の地獄を すべて ![]() まもなく第二次世界大戦の兵士はすべて死ぬだろう。 我々は英雄物語では無い物語を水木と大岡から授かった。 まだまだ長生きをするはずだった水木が、 わざわざ戦後70年に合わせて死んでみたのは、 学歴や勉強の出来不出来を超えた 知性の必要性と、それに担保され た自由の魅力を 死んでいるような現代人に伝えたかったからだ。 そう思わないことには、やりきれない。 私の大学の同級生に水木しげるの長女がいて、 今回の死にあたり、テレビで発言しているのを何度か見かける。 改めて、あの5流大学には彼女や、 ![]() ![]() ![]() 同時期にいたという驚き。 「作品」や「表現」は、死なない。 だって、おばけだから。 |
![]() |
![]() ★たとえば→11月30日の歴史★ |