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は、
ウェルテル博士♪ゲーテ 知性とは自由になること。
Ge, Ge, Ge, Ge, Ge, no, Goethe !
text and photographs
by
うぇ~ん!久保AB-ST元宏
(2015年12月2日 水曜日 2:47Am)
そこから先は。
2015年11月30日、テレビのニュース速報で私は 知った。
知性と は自由になること。

水木しげる (1922年3月8日~2015年11月30日)が、 死んだ。
マスコミは、水木しげるを総括するかのように、
「ナマケモノの美学」
と、
「戦争の悲惨さを訴えた偉人」

2つを讃える。

う~む。
そのとーり。
だけど今、私は、
権力を人民に。ジョン・レノンが死んだ直後の報道への違和感と
同じ感覚を感じている。
あの時も報道は、
「やんちゃなロックンローラー」

「平和を訴えた偉人」

2つをステレオ・タイプで繰り返した。
もちろん私は、それらを否定しない。
ただ、ネガティヴな面と、ポジティヴな面を並べることで、
死者の奥行を語ったつもりでいる
えせジャーナリストの浅さが、悲しいと強く感じる。

むしろ、その異質な2点が
深いところで交わる本質をつまみあげる

ことこそが、
ジャーナリストの仕事だ、
と私は感じるのだ。

私が感じる水木しげるの本質を語る時の
キーパーソンは、マイジンガーZの逆襲。ゲー テだ。

その理由は、私は19歳の時に読んだ、右のエッセイからだ。
台所で、笛。
月刊誌『遊』1981年8・9月号で、水木しげるはゲー テを語った。
バイオリンが秋を食いつぶす時に
ゲーテを読まずに死ぬ不幸。
このエッセイは、
この雑誌の特集記事「読書」に合わせての
アンケート「あなたにとって<読宴>の名に値する一冊は?」の
回答なのだが、
水木しげるは、
エッケルマンパラパラ・・・『ゲエテとの対話』を揚げ、
2つ目の質問「どのようにめぐり逢ったのか。」には、
「偶然、河合榮治郎パラパラ・・・『学生と読書』という本に
必読書目にあげられていたので。
なにしろ必読書目は全部読んだので偶然、
それに出会ったのです。」

と、答えている。

ちなみに水木が『ゲエテとの対話』を最初に読んだのは、
18歳、1940年のジョン・レノンが生まれた年だ。
当時の訳者は、
亀尾英四郎
(かめお・えいしろう、1895年3月10日~1945年10月11日)
で、訳した1922年は水木が生まれた年。
亀尾が50歳の若さで死んだ原因とは、
70年前の敗戦後、
♪おにぎり、むしゃ&むしゃ。やっぱ、具は明太子~!ヤミ米を食べることを悪として拒否した餓死だった。
亀尾が餓死した2年後の1947年10月10日には、
♪おにぎり、むしゃ&むしゃ。やっぱ、具は明太子~!ヤミ米買いを拒否した山口良忠判事も餓死している。
今回、水木しげるが死んで改めて強く感じるのは、
世間は、水木しげる自身のイメージ操作に、まんまと乗ってる、ってこと。

ぐーたらだけど、戦争で苦しい体験をしたので、
あーゆーマンガを描いた。

あほか。

違うんだよ。水木しげるは、最初から、水木しげるなんだよ。

さっき紹介したエッセイで、河合榮治郎の本を読んだ、
と書いてあるが、これは戦争に行く前だ。
左に紹介された山下肇のエッセイの通り、
当時の高校生は河合榮治郎の本から教養主義を磨いた。
それは幾分、滑稽過ぎるのだが、
少なくとも現在の高校生よりも私には魅力的に感じる。
もっとも戦中は、高校に進学するのは、ほんの一部だ。
そして水木しげるは、
兄も弟も中学校に進学しているのに高等小学校卒だ。
その小学校ですら、話すのが遅かったために1年遅れて入学している。
しかし、18歳の水木しげるは、河合榮治郎の本を教師として、
そこで紹介されている本をすべて読んだのだ。
それは右の写真で山下肇が回想している通りだ。

水木が2003年に日本経済新聞で連載した「私の履歴書」でも、
19歳前後にショーペンハウエルや熱さ、ザムザも、彼岸まで。ニーチェなどの哲学書を
河合榮治郎が書いた青年のための読書案内
参考に膨大な本を読みあさった。」と書いている。

そして「最も愛読したのはゲーテで、
特にエッカーマンの『ゲーテとの対話』にしびれ」、
21歳で軍隊に入った時、「文庫本の『ゲーテとの対話』上中下三冊を
雑蓑(ざつのう)に入れ、デッサン用の紙と鉛筆も忍ばせた。」。
でたらめだから愛してた。
筑摩書房『ゲーテ』月報で、山下肇が河合榮治郎を書く。
やさしい指。
トーマス・マン「作家としてのゲーテの生涯」より。
山下肇は水木しげるより2歳年上だが、
1942年、東京帝国大学の
独文科を繰り上げ卒業、陸軍に入隊し出征。

水木は二等兵として、南の激戦地ラバウルへ。
山 下は北千島旅情の歌少尉として、北の北海道へ

つまり、家柄も学歴も、兵隊の階級も、任地も違う水木と山下は、
同じ河合榮治郎の本を読み、
同時期に軍隊に入隊したのだ。
そして2人とも河合の本から
「特にエッカーマンの『ゲーテとの対話』にしびれ」、
山 下は戦後、『ゲーテとの対話』を新訳し、
いまだに日本で読める『ゲーテとの対話』は
山下訳が定番と なっている。

また山下は1959年に
日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長を務め、
『きけわだつみの声』を復刊させる。
山下と水木は、ゲーテをはさんで、違う手法で平和を訴え続けたのだ。

このように河合榮治郎は1940年代の若者に大きな影響を与えたが、
当時の河合は、大っぴらに読めない危険思想家でもあった。
1931 年の満州事変1932 年の五・一五事件1936 年の二・二六事件
が起こる中、自由主義者の河合榮治郎は
「五・一五事件の批判」や「二・二六事件の批判」などを書き、
軍部へのファシズム批判の論陣を張った。
右翼は軍部と政府を動かし、1938年2月、
ファシズム批判に関連する河合の著書『ファッシズム批判』、
『時局と自由主義』、『社会政策原理』、『第二学生生活』
の4冊を発禁処分にした。
これが、1938年から1943年まで続いた「河合榮治郎 事件」であり、
水木や山下はこの時期に河合に私淑したのだ。
それは徴兵で死ぬ未来しか選択肢が無い当時の若者の、
唯一の自由だったからこそ、「1940年代の若者に大きな影響を与えた」。
つまり、水木しげるは、山下肇のような超高学歴者と同 じ教養を
独学で学んだのだ。

ここが、重要。

今、日本のマスコミは、
水木しげるは、
「小卒の貧乏人」で、
「学の無いナマケモノ」だが、
「戦争体験で表現者に成長した。」
とゆー物語を捏造しているが、
水木の父親は地元でも珍しい早稲田大学の卒業生で、
水木自身も哲学書を読みふけった文学青年であり、
家系も江戸時代から続く境港の回船問屋『武良惣平商店』で、
裕福だったので家にお手伝いさんがいたから、
そのお手伝いさんが水木に妖怪を教えた「のんのんばあ」なのだ。
こうしてすでに身に付けた独自の人格と知識で、
水木は戦争の理不尽さを見抜いたのだ。
→じゃあ、今度さすってね。
これも、トーマス・マン「作家としてのゲーテの生涯」よ り。
言葉は、けだもの。血を流しながら、どこまでも森を行く。
さらに、これも、トーマス・マン「作家としてのゲーテの 生涯」より。
では、な ぜゲーテが妖怪になったのか?

その答えのひとつが、
←左に
トーマス・マンが紹介したゲーテの言葉
特殊なものが普遍的なものを代表している」

に含まれている。
そして ゲーテは、
私が大好きな英会話は、うさぎ。私は、リス。ノヴァーリスパラパラ・・・『青い花』か ら、左が弟のヴィルヘルム。右が兄のヤーコプ。グリム兄弟に至る、
「ドイツ・ロマン派」のファースト「ファーストペンギン」とは、群れで行動するペンギンの中で、魚を獲るために最初に海に飛び込める勇気あるペンギンのこと。ペンギンな のだ。

この文学運動は、古い民話を継承し、モダンへの昇華を創造した。
それって、水木サンっぽい。

水木しげるの生前最後の本は、2015年9月9日に刊行された、
角川新書のパラパラ・・・『戦争と読書 水木しげる出征前手記だと思う。
この内容は最近、発見された水木の20歳の時の読書日記だ。
まさに、河合榮治郎の読書ガイド本にそって
哲学書を読みまくった記録だ。
この本が水木の死に間に合ったことは、すばらしい。
水木は生きているうちに、
水木は最初から水木だったことを証明できたのだから。
幼い手の、拗言。
関泰祐による筑摩書房『ゲーテ』の「解説」。
光のスクリーンは血の通った人間を造形できるか?
評論家の呉智英は、1970年代に水木しげるの脚本ス タッフだった。
そして、「ゲゲゲ」だ。

水木しげるは、
2003年8月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で、
幼少の頃、自分の名前の
「『しげるがうまく言えずに
げげる』になって、あだ名 は『ゲゲ』

となったと書いている。

なるほど。
だから貸本時代の『墓場の鬼太郎』のタイトルがドギツイので、
メジャー少年雑誌向けに
『ゲゲゲの鬼太郎』にした理由は、これか。

ん?
まてよ。
あだ名は「ゲゲ」だから、
『ゲゲの鬼太郎』でいんじゃね?
そこで私の仮説なのだが、
『ゲゲ』に加えた3番目の『ゲ』は、
ゲーテの『ゲ』
ではないだろうか?
けだものの法は、守るため?排除するため?
1994年刊の『水木しげるのラバウル戦記』は、戦争モ ノの代表作。
今、君は、どこで何をしているの?
『水木しげるのラバウル戦記』で、左腕を切断したシー ン。
先に引用した月刊誌『遊』1981年8・9月号で、
水木しげるは他人に腹が立った時に、
エッカーマン『ゲーテとの対話』でのゲーテの発言を引用している。

「ははは ぼくなぞは、悪口いう人間が一個師団はいるね。
ふつうあきらめてガマンしているが、
時にガマンできないデマがひろまったりする。
そこで、ボクはひそかに調査してみたら
意外な人が、ぼくの敵だっ たので、
おどろいたことがあるネ」

そして水木サンは、こう結論する。

ゲエテは聖者でなくいわゆる”人間”なの です。
だから、さまざまな相談に応じてくれるのです。」

私はこれを19歳の時に読んで、
ジョン・レノンがビートルズを辞めて発表した
アルバム少女と少年の冒険の歌。『ジョンの魂』で の
ジョンの人間宣言
を連想した。
あれだけ多くの魅力的な妖怪たちを私たちに教えてくれて、
アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマ・ソングで、
「楽しいな 楽しいな おばけにゃ学校も 試験も なんにもない」
と、人間以外を追求してきた水木しげるの
本質は、人間だった、というくるりんパッ。どんでん返し。

「ナマケモノ」だったのではなく、自分のペースを持っていただけ。
「戦争がきらい」ではなく、戦争の必然である不自由がきらいだった。
それが、本質だ。
だから、水木にとっての妖怪とは、自由だったころの人間な のだ。
カオスの美。
共犯書斎にある2003年の連載「私の履歴書」や、 2005年のチラシ。
最後まで、驚かせたね~。
隠れてから始まるのが、おばけのルール。
そして19歳の水木は自由になるために、ゲーテを読み、
21歳でラバウルの戦場を逃げまくった。
それを水木が描いた『総員玉砕せよ!』は、
大岡昇平が映画『野火』を観る準備として、私は暗闇の深川市~秩父別町を崖から3回転げ落ち捻挫し歩いた、のか?『野火』で書いた、
インテリが戦場の地獄を
すべて
てか、テレビおやじ?見て、記 憶して表現した文学に匹敵す る。

まもなく第二次世界大戦の兵士はすべて死ぬだろう。
我々は英雄物語では無い物語を水木と大岡から授かった。

まだまだ長生きをするはずだった水木が、
わざわざ戦後70年に合わせて死んでみたのは、
学歴や勉強の出来不出来を超えた
知性の必要性と、それに担保され た自由の魅力
死んでいるような現代人に伝えたかったからだ。

そう思わないことには、やりきれない。

私の大学の同級生に水木しげるの長女がいて、
今回の死にあたり、テレビで発言しているのを何度か見かける。
改めて、あの5流大学には彼女や、
俺はギターを鏡に投げ込んだ♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieストリート・スライダースや、パラパラ・・・浦沢直樹や、うぇ~ん!久保元宏が
同時期にいたという驚き。
「作品」や「表現」は、死なない。
だって、おばけだから。



俳句は、パンク。今日の一句
底冷の地雷で飛んだ足が泣く
(久保元宏 2001年12月)
嫌ダッ、と言っても、愛してやるさ。

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たとえば→11月30の歴史
ゲゲゲの赤い目玉オヤジ。
Mr.パラパラ・・・Shigeru Mizuki
became to
the Obake !





小説(更 新 日;2015年11月5日 小林多喜二哲学 俳 句 短歌 漫画 評論