ピンクのクマのプールで、さっちゃんと。I'll follow you wherever you may go!
top page⇒うぇ〜ん!『共犯新聞』♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieROCK★ロック パラパラ・・・偏愛書物★Book Oh ! うめぇ〜♪ジューシーな豚肉ソティ!好物★Gourmet やっぱ、映画館で観たい♪映画★Movie Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!美術★Art
moto_kubo@hotmail.com
試されるという意味の奥へ。
You Gave Me The Answer

大学 入試センター試験の
国語の問題に、今どき(笑)

小林秀雄&牧野信一って、
いーセンスしてんじゃんか。

または「読書」としての
「大学入試センター試験」問題。
3年前、私は2010年のセ ンター試験の現代国語の問題が、パラパラ・・・岩 井克人&中沢けい、だったので、「こりゃ☆おもしれー♪」と、やってみた
その結果、なんと100点だった(笑)。

ちなみに私が現役で大学を受験した1980年は中村雄二郎 「哲学の現在」で、浪人した1981年が川 田順造「曠野から」なもんだから、
出題センスがすげーイイ2年間かつ私好みだったんだけど、当時の私は私立大学しか受験せず、これらを実体験するチャンスを逃していた〜。

過去に1983年は山口昌男「旅の文体」、1994年に竹田青嗣「陽水の快楽」、2006年に別役実「言葉への戦術」ってのがあったそーなので、やってみ たかったなー。
         
が、ここ2年間は、2011年は分かりやすい言葉と風俗の引用で哲学の深淵を語る鷲田清一「身ぶりの消失」で、
2012年は雑誌『季刊・思潮』で柄谷行人らと分裂病の議論をしていた木村敏「境界としての自己」で、
それ&ぞれ私の好きな批評家だったんだけど、試験問題をやるホドの興味も沸かず、スルーしてた。

が、今年は、いよ&いよ、
1979年の共通一次試験が制定後初の本命(?)ヒップ・ホップな、おやじ〜。小林秀雄(こばやし・ひでお、1902年4月11日 〜1983年3月1日)!
かつ、あらゆるカテゴリーから自由な小説家日本初のアメリカの影。牧野信一(まきの・しんいち、1896年11月12日〜1936 年3月24日)!
この組み合わせ、私には興味津々。
だって、宇宙へ帰ったのか?民主党の政権交代直後の出題が、ポスト・モダンの岩井克人&中沢けいで、
美しいアベノミクス粉。自民党の政権復活直後が、保守文化人の代表=小林秀雄&牧野信一、だぜ(笑)。
こりゃ、文科省&出題者の問題の選択に、毒の効いたユーモアを強烈に感じるよ、私は〜。
おもしろすぎ〜♪
ならば、受けて立とうではないか!
ってなコトで、やってみた。

さて、小林が「保守文化人の代表」と見なされる原初は、
雑誌『文學界』1942年9&10月号の文化綜合会議「近 代の超克」に参加し発言したことだ。
これは1941年12月8日に開戦したばかりの対米英戦を思想的に意味づける のが目的で、
明治時代以降の日本文化に多大な影響を与えてきた西洋文化の総括して超克する理論を
小林の中学時代からの友人=河上徹太郎(かわかみ・てつたろう、1902年1月8日〜1980年9月22 日)の司会で13名が2日間語り合ったシポジウム。
その同年に小林は、同じ『文學界』3月号に能「当麻(たえ ま)」を観た体験から、世阿弥の中心概念「花」を思索したエッセイ「当麻」を発表している。
ここに、超☆有名なフレーズ、美しい「花」がある。「花」の美 し さという様なものはない。が書かれた。
今回、私がやってみたセンター試験に使われた小林のエッセイ「鐔(つば)」にも、このフレーズを異口同音 で繰り返したフレーズが2つ出てくる。
そのフレーズが、そのまんま試験の問題として、「表現上の特徴」を答えるようにと使われている。
試験問題の作成者、分かってるじゃん♪
そう、この2つのフレーズが、このエッセイで一番、思想的&文学的に重要な思考スタイルなのだ。
私がピンクのラインマーカーを引き、矛盾を肯定する気前の良さ?西田幾多郎「純粋経験」に似てる!と走り書きした部分だ。
日本的な日本。
小 林秀雄がパラパラ・・・「鐔 (つば)」を雑誌『芸術新潮』に書いたのは、私が生れた1962年
確かに50年前だが、1962年に刀のツバに興味を持つ者って、そんなにいたのか?っーぐらいだから、現代の受験生には、もっと興味の外だろう。
1962年当時、小林は骨董に凝っていたから書いたんだろう。が、その小林の個人的な趣味に現代の受験生が悩まされているんだから、趣味とは罪深い。

小林の骨董の先生が、1歳年上の友人、 青 山二郎(あおやま・じろう、1901年6月1日〜1979年3月27日)だ。
先日、1901年生まれの俳人、パラパラ・・・秋元 不死男の ことを考えていた私には、連載の続きのような年齢の偶然だ。
が、もちろん&たぶん、おそらく小林&青山は秋元とは趣味&思想は違っただろう。
青春とは、そーゆーものだ。

小林&青山は1924年に知り合い、
1925年には仲間にパラパラ・・・中原中也を加え、1928年にはうなぎ戦記。大岡昇平を加える。
こうして20歳代の彼らは仲間を増やしていくが、いつもボスは青山だった。
青山の自宅には小林秀雄、「近代の超克」をまとめた河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平が集い、さらに白洲正子、宇野千代なども加わり、
「青山学院」と呼ばれた。

若き日の小林秀雄は酒の席で芸術論を語り合うと、何度も青山二郎から泣かされたそうである。
そして、あの小林秀雄に して青山は「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と言わしめた。
連日&連夜、言葉の秀才=小林が、感性の天才=青山に連戦&連敗し続けたのだ。
もちろん、だからこそ小林の「言葉」は今も受験生を苦しめるほど(がくっ。)、強靭なのだろう。

1950年、小林&青山はこん な感じだった。
世界の田舎で。
48歳の小林は桃山時代の「絵唐津草文ぐ い呑」を手に し、
49歳の青山は彫刻家の浅川伯教がかつて持っていた「粉引徳利」をむんずと握っている。

彼らは有名かつ高級な骨董を手にして喜んでいる、のだろうか。
ところが、青山が手にしている「粉引徳利」などは、製造された当時は単なる家庭用の雑器だった。
すきしゃ、 という 言葉がある。数奇者、とゆーことだ。
物好き、風流、な人のこと。
つまりは、役に立たないものを愛し、集める人のこと。
なんだ、イマ風に言えば、ヲタクじゃ んか(笑)。

実際、青山は朝鮮に渡り、田舎をめぐり、家庭で使われている雑器に美を見、収集してきている。
小林は、そんな青山の美を発見する姿勢を、「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものは ない。」と言葉に置き換えたのだろう。

なるほど、無名のものの中から良いものを見つけ出すのだから、お金もそんなにかからないな、
と、思うのがヲタク道のシロートである。
野々上慶一あちこちに、でっちあげ。『高級な友情 小林秀雄と青山二郎』は、
ふたりの交流を小林の酒癖と青山の眼力を中心に描いているが、こんなシーンもある。
小林が初めて買った呉須赤絵の大皿を、青山がバカにするのである。
その場で小林は、大皿を叩き割ろうとする。
大皿がニセモノだったからか?
いや、大皿はホンモノだったのだ。
究極の美の眼力の世界は、もはやホンモノ・ニセモノを超越したところにあるのだ。
・・・恐ろし〜。

また、『文學界』1947年9月号掲載の鼎談で、小林が持っていた梅原龍三郎が描いた油絵の富士山の大きな絵をめぐって、こう語り合っている。

辰野隆(東大フランス文学科教授・当時59歳)「失敗の作じゃないかと思うな。」
青山(当時47歳)「そう思いますよ。」
辰野「どう思います?秀雄さん。」
小林(当時46歳)「失敗しているでしょうね。だけど成功 した画より美し いと思ってる。」

これは、負けず嫌いか(笑)?単なる意地っ張り、か(笑)?
いずれにせよ、この語りの続きで小林は、
「画を見るという事は、僕にとっては一つの訓練」
「辛(つら)いある訓練の世界」
「胡麻化(ごまか)しが利(き)くのだよ、文学の世界では。その点が気持ちがいいね、画というものは。」
と語っている。
青山は小林よりたった一歳だけ年上、かつ、すでに当時は小林の方がはるかにカリスマだったのだが、こと美術を見る時には頭が上がらなかったのは、
小林の専門の文学とは違い、美術には理論では追いつけない魅力的な謎があり、小林にとって青山はその謎をつかんでいると思い続けてきたからだろう。

そんなふたりだったが、友情は突然に終わる
小林は1952年12月25日〜1953年7月4日の間、小説家の今日出海とエジプト、ギリシャ、ヨーロッパ、アメリカへ旅行に行き、
帰国を迎えた青山の顔を見たとたん、自分を支配してきた過去を見た嫌悪からか、絶交したのだ。

ぼくに必要なものが何かを知ってる。
「鐔(つば)」とは、武士が持つ刀の手元に付いているも のだが、
戦国時代の代表的な鐔には、「ひょうたん」か「ドクロ」が付いていた・・・って、なんだかおもろ〜。
「ドクロ」って頭の悪いパンクスか、ゴスロリぶす姉ちゃんの趣味かと思い気や、歴史があるんだねー。

どんなバカげた日常だって、捨てたもんじゃないって、知ってる。
「問1」漢字の問題は、書けなくても問題がヒントになっているおかげで全部できた♪

時速100kmで横浜のトラックを。
さて漢字問題っーウォーミング・アップを終えて、いよ& いよ、テスト 出題者からの挑戦状だぁ♪

まず「問2」は、抽象的な評論用語の意味さえ分 かればカンタンだが、
いきなり答えが五択中の一番最初の@となれば、疑い深い私は無駄な時間を使って他を深読みしてしまったが、やっぱ答えは、@。

反対に「問3」は、@〜Cが間違いなので、ぐい &ぐい前に進んで、最後のDに、すとん。

ややこしーのは、「問4」で、私はCと思ったが 間違えた〜。正解は、A。
出題者は、小林が書いた「もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透(すかし)は芽を出したであろう。」は、
A「おのずと生み出され」る比喩だと解釈したようだ。
それだけでは私には不足であり、
私は問題文C「生命力をより力強く表現した文様」を生み出すアニミズム(=7万物には精霊が宿っているとゆー崇拝。)を選択した。
が、ここで私が問題の出題者と議論しても意味は無い。
試験にあっては、出題者は神であり、答えを導くとは、出題者の意図を探る、とゆー心理戦でもあるのだから。
がくっ。

最高のガールフレンド。
私は「問4」に引き続き、「問5」も間違った〜。
これも小林がシロサギのような優雅な野鳥が低く飛ぶ姿を見て、「透(すかし)の発生に立会う想いがした。」と感ずる、一種の比喩の解釈の問題だ。
私はBを選び、出題者はDを選んだ(?)。その結果、私は間違った。がくっ。
たしかにDの「満開の桜を見る者もいない神社でひたむきに巣を守って舞う鳥」の姿に、「生きるために常に緊張し続けるその姿態」を比喩する感性は、
日本的と言われる「わび」&「さび」に「武士道」を合体させた独特の美学がある。
が、それってなんだかヤンキー文化っぽくて、私は苦手。
で、出題者は好きなんだろー。さらには、2013年のアベノミクス時代っぽいのは、間違いない。
そんな日本的美学サイドから見たら、私が選んだB「生命を守ろうとしている生き物の本能」では、単純すぎるのだろう。

しかし、野生の鳥が、巣を守る時、「満開の桜を見る者もいない神社」など関係ないし、「ひたむき」かどーかも、知ったこっちゃねー。
それらは単なるニンゲンの安っぽいセンチメンタルにしかすぎない。
演歌の世界だ。
むしろ野生動物はどこまでも、「生命を守ろうとしている生き物の本能」で巣を守っているのにすぎない。
ならば、より真摯な表現者であれば、演歌の世界よりか、野 生の世界に迫ってこそ表現すべきなのではないのか。

そこが私と小林秀雄と、センター試験の出題者の違い(がくっ。)だ。
おかげで、よーやく私が小林秀雄になじめない本質が理解できた。出題者くん、ありがとー♪

「問6(1)」は、私 がライン・ マーカーを引いたもっとも興味深かった2つのレトリックだったから、正解♪
まさに正解し、私も赤線を引いたB「一般的にありがちな見 方を最初に打ち消して」は、紋切型(=演歌の世界)からの解放だ。
こーゆーレトリックにこそ私の小林への興味は集中し、それ以降の「問5」のような湿っぽく&えらそーな日本(的)美意識には、うんざりなのだ〜。

「問6(2)」は、最 後の問題だか らか、趣向を変えて、全体の構造を問う。
なるほど、私はいち&いち、こーして見てはいなかったが、この問題のおかげで、
小林の文体が最初に総論を書き、 あとはそれを 説明する具体例を公平に列挙する手法であることが分かった。ありがたい。
小林は起承転結よりも、このような流れを好んだのだろう。
その理由のひとつは、
彼には原則があり、万物はその原則で説明が可能だから、このように、どん&どん粘着してゆくイメージ列車形式が彼の思考方法でもあったのだろう。
これは一見、論理的に見えて、実は議論を受け入れない閉鎖的≒密室的な思考方法だと私は思う。
それを可能にしたのは、小林の原則と、それを表現する文体が圧倒的に優れていたからだ。
評論家の秋山駿はそれを、「批評というものを文学にした 人」、小林以前の批評家は「学問を水で薄め た文章」と述べている。
それが小林の魅力であり、悪魔的魅力とまでも私は思う。
私はそれを認めながらも、やはり、完璧でも閉鎖的な議論空間は解放すべきだとする立場だ。
ここにもまた私と小林の近似と差異がある。
ああ、センター試験からまた&また教わっちゃった♪

ハモンド・オルガンの鍵盤の間から伸び放題の雑草が。
さて、「第2問」だ。
ここでまず受験生が注目しなければならないのは、冒頭の問題文の中に「牧野信一 の小説パラパラ・・・『地球 儀』の全文」であることが明記されている点だ。
なに、アタリマエだろ?って?
なになに、「第1問」は、全文が終ってからよーやく控えめに小さく、(小林秀雄「鐔」による)と、ちょこっと書いてあるだけだろ?
この違いが重要なヒントなのだ〜。
まず、これは小説であるから、評論文やノン・フィクションじゃない、って脳味噌で読めるし、
文中に「地球儀」が登場したら、すかさずマークし、そのまま、このキーワードを脳味噌で掘りながら並行して読み進めることができる。
さらに、「全文」なのだから、終盤にはオチがあるだろーと、全体の流れをサーフィンする姿勢が築ける。
・・・・・・なんだか、『共犯新聞』受験講座みたくなってきた(笑い)。

ぼくらの愛した不可思議な笑い。
いやぁ〜、さすが、牧野、文章、つーか、小説が上手い。
カタカナや記号を多用していたり、アメリカの生活に触れられているから現代の作家っぽいけれど、
上記の中ほどにある「いよいよ小田原にも電話が引けることになった」ってセリフからも分かるように、かなり前のお話だ。
初出は、1923(大正12)年7月1日発行の雑誌『文藝春秋』(第一巻第七号「七月創作附録号」、文藝春秋社)。
90年前の小説なのに、この文体やテーマの新鮮さ、文体に小説を入り込ませる構造の斬新さったら、すごい。
何よりスゴイのは、それらの技術を総動員して、主人公の心理の流れが伝わってくる繊細さだ。

青空のどこまでに。
まったく不思議な読後感だ。
読み終えてからしばらく、ぼけっ、としていたくなるが、それじゃ試験に落ちちゃう。
で、小説の後の(注)1に神奈川県夜は、いずこも同じ?小田原市の説明がある。

牧野信一は1896年11月12日に神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)の国鉄駅前で、旧・小田原藩士の家に生まれ育った。
1919年、早稲田大学英文科卒業し、
福澤諭吉が1882年3月1日に創刊した戦前の5大新聞の一つ『時事新報』社に入社し、
その直後に、同人誌『十三人』に発表した短篇小説『爪』で島崎藤村に認められて文壇に出る。
デビュー当時は、葛西善蔵、宇野浩二、パラパラ・・・久保田万太郎ら大正文壇の作家たちと共鳴し、 <弟>のように可愛がられた。
ここに俳人として秋元不死男ではなく、久保田の名前を見つ ける時、『共犯新聞』無料購読者諸君は、ある種の合点を得るだろう。
その想像通り牧野は、いいとこのボンボンとして、昭和初期の帝都・東京でカフェなどで遊びまわる、おしゃれなモダン・ボーイだった。
『父を売る子』などの私小説から出発し、
昭和初期には特異なギリシア趣味の幻想小説『村のストア派』『ゼーロン』『鬼涙村(きなだむら)』などで「変形リアリズム」の新境地を開いた。
当時、大ブームだったプロレタリア文学を嫌う一方、若い坂口安吾の「風博士」を絶賛するなど、
少年と飛行機のA感覚。稲垣足穂、井伏鱒二、石川淳などの才能をいち早く賞賛し新進作家として世に出るきっかけを作り、
青山二郎、小林秀雄、河上徹太郎らと交流があり、文芸誌パラパラ・・・『文科』を創刊し、これらの作家の発表の場を作った。

おそらく牧野は躁鬱病だったのだろう。躁の時は東京に住み、仲間と連日、酒を呑み、鬱になれば小田原に住む、を何度も繰り返した。
カラマーゾフの祖父。埴谷雄高の記憶では、躁状態の牧野が住んでいたのが、東京都港区三田四丁目、高輪二丁目の間にあ る伊皿子坂(いさらござか)で、
頂上で魚籃坂(ぎょらんざか)に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。
ところで、いっしょに昇ろう。カーネーションの2004年のアルバムまた、まわる。『SUPER ZOO!』の最後から2曲目に「魚藍坂横断」とゆー曲がある。
おやじロックのグルーヴィン。
カーネーション「魚藍坂横断」

変化球をとらえて右へ  現実は想像を越える
めくるめく試合展開  途中経過はあてにならない
おいらは今日も  ふざけてばかりで
ほんとはちょっと  上手に話せない

或る晴れた午後の
魚藍坂横断
写真はもはやブレている

ながめはゆるやか
高架線と太陽
なんとかなるさうまくゆくはず


そして鬱になった牧野は1936年2月から単身で小田原の実弟・英二方に起居していたが、
帝都を揺るがせた2・26事件の一ヶ月後、神経衰弱により3月24日の黄昏時に納戸で、首つり自殺。享年 39歳。
生れたのも、死んだのも小田原でだった。
 翌日、坂口安吾が驚いて小田原にかけつけ、翌々日の葬儀には、さらに川端康成、河上徹太郎、小林秀雄ら多くの文学者が参列。

白いテロルに赤い血、黒い夢。
ところで私が興味を持つのは、2・ 26事件の当日日の午後に出された号外に、
「牧野前内大臣宿舎(湯河原伊藤 旅館) 牧野伯爵不明」と書かれている点。
この牧野伯爵と、牧野信一は関係があるのか?
牧伯爵=牧野 伸顕(まきの・のぶあき、1861年11月24日〜1949年1月25日)は、麻生太郎の 曽祖父であり、鹿児島の薩摩藩士・大久保利通の次男だから、
神奈川県の小田原藩士の子孫の牧野信一とは関係ないのか?
牧野信顕が鹿児島から東京へ引っ越してきた時期について、牧野信顕の孫であり、吉田茂・元首相の子である 作家の吉田健一は、
「牧野は大久保利通の次男に生れて、直ぐに利通の 姉が嫁した先の牧野家を繼いだが(先代の牧野吉之丞は戊辰の役に越後で戦死した)、
兄の利和とともに大久保家で育つた。
父や兄とともに鹿兒島から東京に出て來たのは廢藩置縣が行はれた明治四年、 牧野が十一歳の時で、
何れ息子達も外國に行くことになるだらうからとい ふ利通の考へで牧野と兄の利和は、
丁度フランスから歸つて來た大山巌が寄寓してゐる 築地のフランス人の家に住はされた。」
(吉田健一「牧野伸顕」(『日本語と日本と日本人と』1961年9月30日、初版、垂水書房))
と、書いている。

しかし、『時事新報』の報道のように2・26事件の当日、 牧野信顕は牧野信一が住んでいた小田原のスグとなりの湯河原にいた

牧野信一は、その1ヶ月後に小田原で首吊り自殺をする。
一方、牧野信顕は2・26事件の当日、湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを
青年将校たちから「親英米派の代表」として襲撃され放火されるが、
孫である麻生和子(吉田茂の娘)の機転と消防団の救助によって窮地を脱し、戦後87歳まで生き延びた。

ついでに、もっと脱線してみれば、2・26事件の取材ができた唯一の新聞記者は、『時事新報』の和田日出吉記 者だけだった。
なぜならば、和田が首謀者の栗原安秀中尉と仲良しだったから。
当時の『時事新報』は、鐘紡の政商、武藤山治(むとう・さんじ、1867年4月5日〜1934年3月10 日)が買収していたときで、
1934年、和田は日本財界の親玉だった郷誠之助・一派の正力松太郎ら番町会を 記事であばき彼らは検挙され、
これは昭和初期の大疑獄事件『帝人事件』に発展し、武藤山治と和田はスター記者として一斉を風靡していた。
武藤は、帝人事件の疑惑報道の直後の3月9日、鎌倉(当時大船町)の別邸を出たところで福岡県出身の失業者・福島新吉に銃撃され、翌日、死去した。
ちなみに、この取材を応援し、国会で追及した政治家は鳩山一郎で、
<鳩山=『時事新報』≒民主党 VS 正力松太郎=『読売新聞』≒自民党>の構 図は、この頃からあったのか(笑)?
大岡昇平と埴谷雄高の対談『二つの同時代史』(1984年7月23日、岩波書店)での証言によれば、和田は「美人にはもてた」。
1931年12月、青山二郎の先妻の弟が銀座の京橋に洋酒バー『ウヰンザア』を 開店。青山が内装デザインをして、「青山学院」のたまり場となる。
牧野に見いだされた坂口安吾が小説家デビューした翌年、若き日の26歳、1932年秋、坂口も小説家きどりで『ウヰンザア』の常連になり、
そこで働いていた女給の昭和美女伝説。坂本睦子(さかもと・むつこ、1914年〜1958年4月15日)を愛人にする。
ところが同じように睦子が好きだった中原中也が安吾に喧嘩をふっかけ、それが縁で安吾は中也と親友になった(がくっ。)。
坂口は坂本と付き合っていながら、その数か月後の12月、同じ『ウヰンザア』で
大岡の同級生の加藤英倫と飲んでいる美 人小説家美女伝説パート1。矢田津世子と出逢い&ひと目ぼれをし、以後、長く苦い恋をしたのだが、
大岡の記憶では、その場で矢田と並んで座っていたのは和田で、前からふたりは「できていた」という。
さらに「美人にはもてた」和田は後に、20歳年下の従妹にして美 人女優の美女伝説パート2。木暮実千代と結婚して西荻窪に住んだ。
そして和田より2歳年上の牧野も、和田と同じ『時事新報』の社員だったのだから、ここらへんの人脈は、ぐる&ぐるしているのだ。
さらに青山二郎の父・八郎右衛門(1868年4月〜1951年4月)は超☆大金持ちの地主で、『時事新報』の全国50万円以上資産家名簿に名前をつらねて いた。

ぐる&ぐるぶりを女性で語るのもナンだが、坂本睦子は、もともと(?)作家・直木三十五に処女を奪われたとゆー文壇の生の(?)証人で、
坂口と別れてから、菊池寛に庇護され、小林秀雄にも求婚され、1938年頃から河上徹太郎の愛人になり、
戦後は1949年12月から青山二郎のアパートに同居し、1950年から8年近く大岡昇平の愛人となり、
 1957年ごろ、大岡と別れ、翌58年4月、新宿区百人町のアパート自室で睡眠薬自殺。大岡は睦子をモデルとして、同年8月から1年間『花影』を連載し た。
この、あれや&これらの舞台となったバー『ウヰンザア』 は、中原中也が店で暴れることが多かったため、オープン2年後の1933年2月につぶれてしまった。
小林秀雄が親友・中原中也の恋人・長谷川泰子を寝取ったのは、1926年。
ああ、昭和初期の青春♪

さてセンター試験問題『地球儀』だが、上記の牧野の生涯を知れば、これは幻想的な私小説であることが分かる。
では、事実であれば書かれているアメリカに住む父親の行動&性格が、昭和初期にすれば、あまりにも理解不能だ。

だから私はここで、上記に書いた牧野の略歴にさらに追記せねばならない。
牧野は両親に育てられたのではなく、小田原藩士であった祖父母の手で愛育された。
しかも、19世紀末の日本にして珍しいほどのヨーロッパ風の環境で育てられた。もちろん、これは後年の彼の作品に影響が出ている。
小学校への入学以前から、すでに英会話、オルガン、幻燈などに親しんでいる。
では、小説『地球儀』でも触れられる「父」は?
十数年後に日本はアメリカと激しい戦争をするのだが、19世紀末という時代に、父はアメリカで学び、米軍海軍の軍艦に乗り組んでい た。
確かに当時は漱石がイギリスに国の命令で留学するなど、このようなことは一部のエリート家庭にはあったことなのだろう。
アメリカの父から送られてきた洋服を母は牧野に着せようとするが、まわりは着物を着ている当時、牧野は「メリケンは嫌いだ!」と嫌がったそう。
その後、「父」は帰国したのだが、日本の風習になじめず家族とは別居す るとゆーかなり変わった人だったようだ。
この「父」を知っちゃうと、小説より事実の方がスゲーと強く感じちゃうが、
その強烈な事実から逃げずに受け止めつつ、オリジナリティあふれる小説『地球儀』を書き上げた牧野の才能にも敬服する。
また、あえて21世紀にこの小説を暗闇から引っ張り出してきた出題者にも敬服してあげよう(笑)。
なんせ、書かれた1923年よりも90年後の現在2013年のほうが、「父はアメリカで学び」「帰国しても日本の風習になじめ ず家族とは別居」がリアルだろうし。

とゆー「父」をめぐる追記を確認したところで、もはや牧野は我々にとって「私小説」作家ではなく、やはり「幻想小説」作家だ。
それこそ、この問題の冒頭に「自伝」ではなく、「小説」と明記された重要性の中心だ。
牧野は「自伝」を「告白」に昇華することで、優れた「幻想小説」作家であり得たのだろう。

秋山駿が評論『魂と意匠●小林秀雄』(1985年11月28日、講談社)で、小林の「自伝」と「告白」の定義について考察している。
つまり、
自伝とは、「私の半生を一枚の 絵のようにそ こに描き出してみたい」(デカルト『方法序説』)と思うからであり、
告白は、「自分自身を日に新にし ようとする間断のない内的作業」(『ゴッホの手紙』)の直截的な表現だからである。
この両者は、正反対であり、お互いを否定する。
秋山は、
「自己とは何かという思考をめ ぐって、自伝か ら告白へ、いわば、デカルトからゴッホへと辿ってくるのが、小林の歩行の一つの道程である。」
と断言している。

そうであれば、牧野の『地球儀』は、小林の理想の「告白」ではないだろうか。
だからこそ、前月に『ドストエフスキイの生活』で第一回文學界賞を受賞して文壇のスターの道を歩き始めた34歳の小林は、
39歳の牧野の葬儀に駆け付け、絶句したことだろう。

時がころがる場所から離れてただ戻れないだけ。
読みにくくて、
ごめん。
←は、(注)の続きだが、
アメリカの地名と、
明治初期から関東大震災前まで東京の浅草六区で興行していた江川作蔵一座の玉乗 りの曲芸が
並ぶところが牧野らしいし、自然体のダダイズムとは、こーゆーことなんだろう。
あら、よっと乗り。
東京の浅草公園六区に祭られている、
六体のブロンズ像『読六芸神(ろくげいしん)』。
左から
唄神:東海林太郎
奏神:田谷力三
話神:古今亭志ん生
戯神:江川作蔵一座の玉乗り
演神;エノケン(榎本健一)コメディアン
踊神:水の江瀧子

さて、本文を読み終え、いよいよ問題じゃ〜。

誰かからのタンバリン。
「問1」(ア)(ウ)は言葉の意味だから、軽〜く正解だったけれど、
(イ)は主人公の深層 心理なんだよ なー。私は正解のDまで考える余裕があるよりは、Cのようにミ ジメに立ち尽くすほうが「文学」的だと思う(笑)。
そして、私は間違った(笑)。・・・てか、問題の作成者と意見が合わなかった?

続く「問2」も、私は間違った〜。@にしたんだ けど、正解はA。
@「母の期待に応えるふりをしたかった」と、A「母の言葉に調子を合わせたかった」の違いは微妙だけど、
A「強がってみせて」が重要だったのかな?
もしくは、@「父の高圧的な言動」は無かったのか?
ふつーの昭和の家庭なら、まず、@「父の高圧的な言動」が家庭内不和のエンジンになるけどねー。
そこが違うのが牧野家カルチャーの最大の特徴か?

「問3」は、よーやく 正解(笑)。
これは5つの選択肢の中で、すぐにCがストンと腑に落ちたし。・・・ってことは、出題者が作る選択肢の文章力こそが問われているのかも(笑)。

こんな調子さ。日曜日のマリーは、二十年後のぼく。
「問4」「問3」と 違って、消去法でAだけが残ったら、それが正解だった〜。
それにしても、<父を、あきらめ>&<叔父に失望し>つつも、<叔父の言葉に納得>するアンバランスな主人公は<自己嫌悪>、
と、上手にまとめた選択文(笑)。
もちろん、元になった小説がこの心理を、すばらしく表現しているのだけどね♪
あと、小林秀雄は、こーゆー「ゆらぎ」は苦手だったんじゃないかな、と思う。
だからこそ、「第1問」になったエッセイ『鐔』の後半では、マッチョな小林の 文体と思考が展開し、私に苦手意識を感じさせたんだろーな。
むしろ、牧野の「ゆらぎ」は小林の友人=中原中也に近い感受性であったんだろう。
そして小林は無意識下で、牧野の中に中也を発見したばかりに、牧野に心を砕いたのではないだろうか。

「問5」も、かなぁ〜 りデリケート な心理を設問にしているが、こーゆーのは私は得意なのであ〜る。

時計の針のように、ぐるぐる。
最初、私はBとCを選んで、読み返して 「―」に気づき、 Aに♪
最後の「問6」は、 お決まりの全体まとめ問題。
これは6つの選択文を読むだけで楽しい。
なんだか、
知らない人と牧野の文学を語り合っているよーな気になったから(笑)。



そんなワケで、採点してみりゃ、
答えだけが答えか?という闘い。
私は74点

2010年の 100点よか点数は下がったが、
まぁ、
こんなもんか。
時計の針のように、ぐるぐる。
「第3問」は古典、「第4問」は漢文。古典 の問題も面白 そうだったけど、今回はやめとく(笑)。


センター試験の問題が新聞に掲載されたのは1月20日(日)で、私はその夜に解いたんだけど、採点後、
NHKテレビが、小林と牧野の時代を考える番組を放送した。

『日本人は何を考えてきたのか  第11回 近代を超えて 〜西田幾多郎と京都学派』、である。

生物学的文学。
生物学者の福岡伸一が、哲学者・西田幾多カ を語るユニー クさ。
私にとって西田は20歳の時から取り組んでいる 大山脈だが、
1983年8月に参加した西田の生地、石川県の宇ノ気での数日間の
『西田幾多郎の講座』で、
私は西田の戦争責任について議論を振り掛けたのだが、
西田の心酔者ばかりの中では、それを口にすることすらはばかれた。

あれから30年。
この番組は、テーマを西田哲学の初心者向け解説のフリをしながら、
静かに&確かに、西田の戦争責任に踏み込んだ取材と発言をしていた。
そこには、30年前はまだ公表されていなかった資料もあった。
西田が最晩年に書いたパラパラ・・・「世界新秩序の原理」の 最後の
「英米が之に服従す べきであるの みならず、
枢軸国も之に傚うに 至るであろ う。」
とゆー西田のシャウトに福岡は、
「西田は一線を超えた。」と、厳しくうなる。

つまり、大日本帝国がアジア諸国のリーダーになるべきだと書いたのだ。

そんな西田に対して弟子の三木清は治安維持法違反で逮捕され、
終戦直後に獄死するので、西田派の良心とさがちだが、
近衞文麿の昭和研究会に参加し、「東亜協同体」を主張することも
この番組は、きちんと追及しており、公平な愛と厳しさに満ちていた。
もちろん昭和研究会は、
陸軍の暴走を愛国の理論で超克しようとしていたのであり、
三木と 近衞の理念と努力を単純に切り捨てられない、から、なおさら。
この番組では直接の指摘はしていないが、
陸軍の単純な戦意高揚に対しての、
海軍のインテリ・エリート側からの知的かつ組織的な対抗に、
西田幾多郎& 西田の弟子グループ「京都学派」と、
小林秀雄& 『文學界』同人が利用された。

確かに政治や戦争のようなリトマス試験紙に自ら犯されるよりは、
ニヒリズムを気取ってカフェで電気ブランを呑んでいるほうが安全かもしれない。
しかし、安全ばかりを好む表現者はニセモノだ。
小林のように、積極的にリトマス試験紙に近づくタフや、
西田のように遠巻きにいながらスパイラル状のリトマス試験紙に巻かれたり、
牧野のように2・26事件の団塊で夕焼けの中、首を吊るもの。

だからこそ私は、リトマス試験紙との距離に生きる表現者よりも、
今は距離ゼロの位置で判断をしてきた 近衞文麿に興味を持つ。
 近衞は2・26事件の翌年1937年6月4日、45歳7ヶ月の若さで総理大臣になる。
1941年に総理は陸軍出身の東條英機になるが、
 近衞の心情はずっと反・陸軍の平和路線としての海軍頼みだったと私は思う。
そんな努力に反して、敗戦後、 近衞はA級戦犯になる。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の1945年12月16日未明に、
青酸カリを服毒して自殺した。
54歳2ヶ月での死去は、総理大臣経験者では、もっとも若く、
総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞だけだ。
確かに近衞は優柔不断なダメ男でもあったと思う。
しかし、近衞と牧野の自殺の近似を思索しなければ、私は前に進めない。

西田と小林秀雄が最も「接近」したのは、先に書いた
雑誌『文學界』1942年9&10月号の文化綜合会議「近代の超克」だが、
ここに西田は参加していないが、京都学派の西谷啓一、鈴木高成らが、
『文學界』同人の小林秀雄、河上徹太郎、中村光夫ら、
日本浪曼派の亀井勝一郎、三好達治らと議論をしている。
この番組でも、この歴史的事実はハイライトだった。
戦争というリトマス試験紙
西田の「責任」が戦争を近づけた、のか?
 
私は、90分間のテレビ番組を観ながら、
開いてくれた君に感謝。いつも、あそこで。
私が持っている関連書物を書斎から抜き出し、
ななめ読み。
小林秀雄と西田幾多郎を軸に、私の書棚を漁れ ば、
簡単に50冊以上の書物が釣り上げられてくる。
私は無意識のうちに、長い間、2人の脳味噌の庭で遊んでいたのか。

小林と中也は恋敵でありながら、共犯だった。
昭和研究会は、共犯だった。
近代の超克は、共犯だった。

小林が青山と雑器を手にしながら語り合ったのも、共犯だった。

そも&そも、「大学受験」とは何か巨大な共犯の一部なのではないのか。

過ぎ去った幸福が、のちの不幸の源泉だったとき、未来のひとはそれを共犯と名付けるのか。
しかし、過去のひとはいつも未来のひとの声を聴かずに幸福の中にいる。
そしてそれを誰が責めることができよう。

敗戦後、小林と共に「戦犯文学者」と呼ばれ糾弾された河上徹太郎は、敗戦と占 領を「配給された自由」と規定した。
粕谷一希はそれを「成熟した冷徹な認識」と評価し、次の世代の小説家・埴谷雄高ら『近代文学』メンバーの空疎さと比較している。

一気に書いたが、こんな文章、誰が読むんだろう。
でも、いいのだ。これは私自身のためのメモなんだから(笑)。

text by
うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
(2013年1月24日 木曜日 1:49Am)



You Gave Me The Answer

大学 入試センター試験の
国語の問題に、

岩井克人&中沢けいって、
いーセンスしてんじゃんか。

または「読書」としての
「大学入試センター試験」問題。


俳句は、パンク。今日の一句
夏の月蕎麦(そば)を手繰(た ぐ)ればスルーパス
うぇ〜ん!久保AB-ST元宏(2002年7月、サッカー・ワールドカップ)
これが大盛りなら
少ないかもしれない。

2017年6月25日(日) 1:40Pm
イオンモール旭川駅前 最近食べた美味いもの!ゴクリ!『北海道そば 天ぷら 豊ろ香(ほろか)』
もり大盛り(3枚) \993
幌加内産そば粉に、北海道産の小麦をつなぎに使用し、100%北海道原料。
たぶん小麦による、もちもち感と、ぬめり感が、つるつる度数を上げている。
つゆは、鰹節の甘さに、粒の残るワザビと、ななめに長く切ったネギでアクセント。

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出 せ!
たとえば→6月21の歴史
ジャン=ジャック・ルソー、イマヌエル・カントと同世代人としての本居宣長。
Happy Birthday to
Mr.
「歌学」が形であれば、「歌道」とは、その心。Nobunaga Motoori !