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映画★『映画祭「北海 道炭鉱映画祭」』 2002,11,23
■昨日、雪の中、米の商談をするために札幌へ来てみると、まったく雪が無くて ビックリ。
私の住む道央の沼田町はスデに連日、雪が3〜50p降っているというのに、札幌はアスファルトが見えている。
夕方の商談の時に、手稲に住む人が、
「同じ札幌でも、中央区や南区と違って、手稲は大雪ですよ。道路も圧雪状態ですよ。」と言う。

■商談の後、シネコンで東映映画『恋に唄えば!』を観た。
『ガメラ』で男を上げた金子修介が監督した優香主演のミュージカル・ラブ・コメディ。
共演の竹中直人は今月の10日に観たばかりの映画『TRICK/トリック 劇場版』(2002 東宝)にも出ており、今や日本映画で一番の売れっ子じゃあーないだろーか?
今回は竹中直人は優香扮するデパガの恋を取り持つ魔法使いの壺男の役。
壺 男って、つまり”ハクション大魔王”なワケなんだけれど、そのアラビアンナイト的衣装といい、相手役がフェロモン優香、ついでにミュージカルっー設定が、 モロ、インド映画『ムトゥ踊るマハラジャ』が下敷きであるとゆーのがバレ&バレで、のっけから私はシラケさせられたよ。どーせ企画は電通なんだろ?マニュ アル的すぎるぜ。
ついでに、ミュージカルとしても失敗しているよ。中途半端なんだよなぁ。エンターテイメントって、実は難しいんだね、金子監督。


■で、本当は日帰り札幌出張だったんだけれど、ひょんなコトから日曜日まで二泊三日になった。
やば。髭剃りも、愛用のタクティクス・フェイスクリームも、DEPも、着替えも持ってきていない。

■まぁいいや。下着と靴下だけ買って、同じ服で過ごす。
ぽっかり空いた今日の土曜日。
あ、そーだ。今週の火曜日19日の北海道新聞(夕刊)で見た『北海道炭鉱映画祭』へ行こう。
これは午前10:30〜午後8:30までの長時間イヴェントだから1日潰すのには最適(?)。

■『北海道炭鉱映画祭』は、前売2,000円、当日2,500円 。
たっぷりの内容から考えたら、かなりお得。
で、私は結局、この2日間で合計8本(!)も映画を観ることになる。自己新記録かも。

■会場へ行くんだけど、かなりユルイ服装のまま3日間も大都会=札幌をさまようことになった。古着のジーパンに、トキオ・クマガイの黄色いコート、イン ド・マフラーに、丸メガネ、キクチ・タケオのちょいハデなジャケット、エスニックな輸入チョッキ、髪の毛は長髪なりかけ。ワケワカラン。私は1970年代 の自然農法をするレノンか?
DEPを持ってこなかったので、初めてヘアワックス「DZ.WAX」を使うが、これ、けっこういい。

実は「映画」と言えば、今日は映画『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の初日。
丸メガネに、コート、マフラーと言えば、ハリ・ポタのコス・プレか?
全く違うケドね(笑)。
でも、きっと今日は札幌中、北海道中、日本中、世界中で『ハリ・ポタ』2作目に長い行列があるんだろーね。そんな時代に『北海道炭鉱映画祭』を上映する道 新ホールなんて、これこそ☆秘密の部屋!?


会場の途中で、郵便ポストに、
@3ヶ月出し忘れていた、雑誌『山口昌男山脈』No.1(2002.7)の読者カード
A小学館『武満徹全集』総合カタログの取り寄せ希望ハガキ
を出す。なんで札幌で?と、思いつつ。


■さて、会場は北海道新聞社内の「道新ホール」だ。
ここで1980年にデビュー直後に最初の全国ツアーを始めたハウンド・ドッグを観た。好きに成れなかった。
それから、中国雑技団とか色々観たなぁ。なんだかレトロなハコになっちゃったね。古くなっちまったトイレがシブイよ。


■会場の入口に「北の映像ミュージアム」期成会の署名を要請するコーナーがある。
これは、北海道に関係する映像の博物館を建設しようという運動。
署名した。
すると、私の書いたスグ前に署名した人の名前が「武石文人」。
おお!懐かしい!
武石文人と言えば、札幌啓成高校の教師をしつつ、北海道の高校新聞の指導者の代表として活躍されたお方じゃんか。
私も北海道深川西高校で新聞会に入っていたもんで、「武石文人」という名前は全道大会などで何度も見かけたし、ご本人にも何度も会った。もちろん、向こう にすれば無数にいる高校生の一人にしかすぎなかったんだろーけどね。
武石文人は何冊か本も書いていて、『続 北海道高校新聞史 ●高文連以後編【下】』(1978年)は私も買った。この著作は高校生が政治の季節を過ごし、 無気力(=当時はシラケ世代とか言ったなぁー・懐かしすぎる!)になってゆく記録でもあった。でも、こうして25年も経つと、日本の学生にとって政治の季 節なんて、ほんの一瞬でしかなかったと、今では思う。

■会場には、私は観客の中ではほぼ一番最初に入った。
これから10時間(!)映画を観るのだから、最も楽&観やすい席をGETせねば・と思い、会場中央の通路のアル直後&センターの席を選んだ。ここならば、 私の長い足も伸ばせることができるし。
で、一番乗りかと思いきや、ふにゃ。すでにそこには黒いカバンが陣取ってある。えっ?開場前からあったのだ。ズルイぞぉー。関係者か?
と、思って、まぁ、少しの差だと思ってその横にコートを置き、さらに横に我が居場所を確保。

■「北の映像ミュージアム」期成会のパンフを読んでいたら、ノソノソと動いてくる影が!
ひゅるりんこ・と、その丸い背中は私の二つ左手の席に沈み込んだ。
ああああ。武石文人だ。
1926年生まれだから、76歳か。お歳をとられた。
私がかかわった時は、50歳前後だったワケだ。それでも、一目見て分った。

引っ込み思案(笑)の私は結局、武石文人には声をかけずに終わった。それでも、10時間、ズゥ〜ッと隣同士で舞台を凝視することになる。

■こんなマニアックな映画祭、客なんて来るのかいな?と、思っていたが500人ほどは来ていたんじゃあないだろーか。ほぼ客席は埋まっていた。
しかも客層は平均年齢60歳か?実際、武石文人世代の70歳以上の人が大半だ。若い女は2人?

■司会は映画監督の藤本幸久。休憩も1〜20分でサクサクと映画が上映される。食事もとるヒマすらない。
とにかく、最初の映画が始まった。

11:00@『躍進夕張』1938年,北炭50周年


■現存する最も古い北海道の炭鉱の記録フィルムらしい。しかも、第二次世界大戦以前のものはこれだけらしい。かなり☆レア。もちろん、モノクロ(白黒)。 当たり前のように、サイレント。42分。

何の目的で作られたのであろうか?
新人募集のリクルート用か?つまり、「希望の大地、北海道でキミも働いてみないか!?」とか。
または、企業の宣伝。今も昔も変わらない、補助金たかりの国家へのプレゼンテーション?

司会の藤本監督が「軍艦も汽車も石炭が動かしていた。鉄と石炭が国を作っていった。」と言っていた言葉が印象的。
この戦前のフィルムには、石炭を増産する自信に溢れている。この自信が戦争への自信へと、まっすぐ・つながったのであろーなぁ。

北炭といえば、私の住む沼田町にも炭鉱を持っていたかつての政商である。
フィルムには、当時の磯村会長も映っている。きっと沼田町にも来たのであろう。
今でも北炭系の広大な土地が沼田町にはアル。炭鉱は無くなっても、すぐ隣に具体的な「記憶」は存在しているんだ。

で、米屋の私は、米俵をかついで荷降ろしするシーンや、マーケットで買い物した商品を新聞紙でくるむシーンが面白い。

そんな瑣末なシーンにまじって、炭鉱マンが夕食後に炭鉱のクラブ活動をするシーンがあった。
共同浴槽でススを流して浴衣に着替えた後に、集会場に集まって将棋などをするワケ。
このシーンを観て、今日、私がこの10時間の炭鉱映画祭に来た理由が分った。
私に俳句を薦めた吉田政次郎(享年85歳)が今月7日に死んだんだけれど、彼は終戦を中国大陸で大日本帝国陸軍兵士として迎え、ソ連軍にシベリアへ移送さ れる途中で脱走し、北海道の沼田町の炭鉱に入坑した。彼は沼田の炭鉱で組合運動の副委員長をしつつ、クラブ活動として俳句をしていたそうだ。彼が入り、私 も入れさせられた俳句会『氷原帯』の故・細谷源二も炭鉱マンであったそうだ。
『氷原帯』1998年1月・通巻557号は、50周年記念号だが、そこで杉野黙男は1953年の思い出を下記のように書いている。

「その年の5月、炭鉱祭りの行事のひとつとして氷原帯俳句会の細谷源二と言う先生を招いて同好集り俳句会催される」

細谷源二には、下記のような炭鉱俳句も多い。

・口髭をたくわえるべく坑夫慎重
・一介の坑夫禿鷹にいよいよ似て

私は無意識のうちに、吉田政次郎さんを追悼しようとして、ここへ足を運んでいたのだった。

■その他に、このサイレント映画は、「アイヌ部落」という看板を映し出し、アイヌの生活も約1分ほど記録している。頭を稲穂などで飾った長老らしき男が、 木の檻の中の熊をなぜるシーンもある。熊に手を喰われないのか?と思うが、アイヌ翁はカメラに笑いかけている。このアイヌの部分だけは、まったく炭鉱と関 係のないシーンなのだが、カメラマンと編集者の興味は得意な民族の存在を無視できなかったのであろう。
アイヌ研究家に、今すぐにでもこのフィルムの存在を教えたくなる貴重な偶然の記録である。


■映画と映画の間には10分の休憩。
会場の入口に戻ってみると、炭鉱の模型など、北海道各地にあった炭鉱の記念品が展示されている。
中に、炭労赤平支部の赤い「檄」の旗がある。労働運動の寄せ書きである。
会場から出てきた多くの人が食い入るように見ている。でも、「資料」として見ているのは私ぐらいなモンで、多くの人は自分の体験した思い出との組合せを模 型などから探し出しては声をあげている。
たとえば、「この模型はずいぶん新しくなってからだね。」とか、「ああ、この炭労の腕章は、あの時に燃やしちまったよ。」とか。
まったく炭鉱に無関係なのは私(と武石文人)ぐらいなものか?
トイレに行く。そこには2〜30代の男がいた。なんだか、組合員の教師っぽいなぁーと想像。
ああ、こいつらも無関係組かな?




11:50A『炭坑』1947年,三菱美唄炭鉱

■次のフィルムも白黒ではあるが、さすがに第二次世界大戦後だけあって、音声が入ってくる。
司会の藤本監督は「『戦う兵隊』が日本初の音と映像を同時に記録した映画ですが、当時の録音機材は30kgもあって、かなり重労働でした。」と解説。
それだけの努力&苦労をして製作する価値が、当時の炭鉱にはあったのだ。日本の中でも重要な存在であったとゆーワケだ。
つまり、『戦う炭鉱』?

映画は、一番方(早朝の出番)が雪に埋もれる炭鉱住宅から、モグラのように出てくるシーンから始まる。ああ、私の子供の頃もまだ、こんなんだったなぁ。玄 関から上に向かって雪の階段があったものだ。屋根と道路の高さが雪で同じになるのだ。
商店をやっていた我が家には、スベリ台からすべってくるようにお客さんが入ってきたモンだ。(←半分ウソ)
電信柱の電線で、縄跳びをしたモンだ。(←全部ウソ)

子供が6人で正座をして食事。
貧乏、子沢山、大雪、危険な炭鉱労働。
北海道はまだこの時、開拓されて数十年しかたっていないのだ。

映画のナレーションは、やや文学的だ。
「日本は全てを失った。外国人労働者が奴隷のように働いた時期も終わり、自分たちで石炭を掘らなければならない。」
朝鮮人、中国人と言わずに「外国人」と言うところが、なんだか逆に痛々しい。

こんなナレーションもあった。
「労働運動もした。ストもした。」
これは、「民主化」を標榜とするGHQ=アメリカの意図か?
まだアメリカ・ハリウッドのアカ狩りは輸入されていなかったのか?

そんなコトを思うと、今週、NHK-BS2で放送された若きマーロン・ブランド主演のエリア・カザン監督『波止場』(1957年)を思い出す。この映画の クライマックスは、かなり楽観的な労働者の勝利を描いている。ただし、これは中間搾取をする地方都市ギャングへの勝利であり、大資本への追従は変わらな い。私はこの映画は、ハリウッドからのソ連映画『戦艦ポチョムキン』への回答である・と思う。



12:30B『住友の石炭』1951年,住友の炭鉱

■3本目は、モロ、住友の宣伝。
それでも、赤平など、沼田町に近い炭鉱を紹介していて、興味は膨らむ。


■3本目が終わった段階で藤本監督が、「えーと、ここで予定より休憩時間を多くとって、次は1時10分か15分から始めます。」と言うと、客席から「10 分か、15分か、はっきりしろ!」との怒号が即飛ぶ。見ると、かなり体格の良い老人。明らかに、元炭鉱マン。時間に正確であることが危険と生活のキーワー ドであったのが身に染み付いているのと、たとえ司会だろーが、上司だろーが、国家権力だろーが、ハッキリと意見を言ってきた(=言えた)職場がこの国に も・かつては・あったのだ・とゆー震える発見の現場。

■休憩時間になると、回りの初老の男たちがオニギリなどを取り出して食べ出した。
うう。コンビニにでも行くか?でも、この日、私は昼食+夕食抜きであった。それよりも、この会場にいることが面白かったのだ。

それは、会場に来ている男どもが休憩時間になるたびに、お互いに会話をしはじめたのだ。
ほとんどの彼らは一人で来ているようだった。それでも、強烈な映像を観て気持ちが高ぶったのか、彼らは見ず知らずの男に声をかけだした。

「おたくは、どちらのヤマでした?」
「あ。私は三菱美唄です。だから、懐かしかったですよ。」と、休憩で真っ白なスクリーンを指さす。それは、口下手な男が二番目に上映した『炭坑』を意味し ていた。第二次世界大戦直後の炭鉱を、この男は知っているのだ。
話は「南夕張に行く予定が、美唄で止められたんですよ。」と続く。う〜む。よくは分らない。でも、なんだか詳しく尋ねれば面白い話の展開になりそーだ。で も、シャイな私は耳ダンボのみ。とにかく、炭鉱の歴史の面白さには、これからも付き合う価値がありそうだ。


また、私の後ろの二人の男はお互いの座席が4つ離れているのに会話をしだした。老人特有の大きな声なので、私は振り返らずにでもハッキリと聞くことができ た。

「私は38年のバクハツで閉山移動をくらったクチですよ。」
「今はどこに住んでいるんですか?」
「私、62のバクハツの後、清水に入った。私はあの時に、最後に出てきたものなんです。」
「あれ、二番方(=昼からの出勤)だったもね。」
「二番方、入ってスグ!」
「私はあの時、三番方(=夜勤)だった。相手方、みんな、死んじゃったから。」
「あの時、私だけが最後によってきて・・・・・・(絶句)。」
「雪の多い年でねぇ。」
「そうそう。」

私は、一瞬にして怖くなった。次々に私の周りで語り出す男たち。
もしかしたら、さっき私がトイレで見た2〜30代の男も、「無関係な組合員の教師」ではなくて炭鉱事故の遺族(!)であったとしたら。
たまたま映画を観やすいようにと、会場のど真ん中に座った私ではあったのだが、実は元炭鉱マン労働者&家族&遺族のど真ん中に私は座っているのではない か?という発見&想像が、意味も無く私に恐怖を感じさせたのだ。

それにしても、後ろの男が話した「62」って何だ?


13:00C『女ひとり大地を行く』1953年
↑監督;亀井文夫、夕張ロケ作品
出演;山田五十鈴、宇野重吉

■これは今日上映された中で、最も「映画らしい映画」。つまり、唯一のフィクションである。
青森から10円札3枚で北海道に売られた農民(宇野重吉)が炭鉱の事故で死ぬ。それを追って同じ炭鉱で働いた妻(山田五十鈴)の一生。
途中で東北の娘売り、第二次世界大戦、敗戦、終戦後の千歳の進駐軍、自衛隊の誕生、朝鮮戦争、労働運動、中国革命などが背景になり、かなりダイナミックで スケールの大きい作品になっている。複数の人物の時代ごとの性格の変化なども丁寧に描かれていて、よくできた「物語」となっている。
たとえば、映画の冒頭に、爆発事故の抗議の先頭に立っていた女(岸旗江←なかなかの美人。)が、組合スパイの情婦になり、戦後はバー・ハリウッドのママに なったり。
退廃の象徴のバーの名を「ハリウッド」とする点にアメリカ映画への歪んだ憧れを見て取れる。
かなり良く出来てはいるのだが、ザンネンなのは、死んでいたと思っていた夫が実は生きていて妻と再会するのだが、そのシーンが最も盛り上がるハズなのに、 他のトゥー・マッチに盛り上げスギに比べ、メチャ淡白なのだ。これは検閲でも入っているのか、興味のあるところ。

死んだはずの夫は、事故のあった炭鉱から命からがら逃げ、蟹工船に乗って「北」へ行って、「働くものの国を作った」という設定になっている。
これって、北朝鮮?
関川夏央が著書『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか?』で日本人の北朝鮮観の変化を書いていたが、正しく、この映画にはある種の日本人があまりにも 正直に記録されている。
妻が死んだ直後に中国から赤旗が届き、それを遺体の上にかける夫。
映画のラストは、「♪若者よ体をきたえておけ〜」という、かなり懐かしい労働歌。
蟹工船というシチュエーションにこだわる小林多喜二の影も無視できない。

私は、これらを笑おうとか、否定しようと言うのではない。
「純粋」というものがあるだけで、この映画には価値があると思うのだ。

この映画が終わった瞬間、会場から一斉に拍手が沸いた。
この現象は他の映画にはなかったことだ。
後で上映される司会の藤本監督によるドキュメンタリー映画『闇を掘る』でも拍手は少しあったが、それは唯一、今日参加している上映作品の監督へのエクス キューズであった風が強いし。
それだけ、この劇場映画『女ひとり大地を行く』は客席を埋めた炭鉱関係者には思い入れの深い作品であったのであろう。
私が今日のイヴェントを知った火曜日の新聞にもこの映画の写真が使われていた。その写真を観て今日、来ようと思った観客も多いのではないんじゃあないだろ うか?また、それだけの共同幻想を背負うだけの厚みのある作品であった。

そう言えば、主演は山田五十鈴だ。
故・吉田政次郎は、よく美人の例えに彼女を使った。山口百恵でもアナクロなのに、吉永小百合でよーやく分るぐらいの今、なんで山田五十鈴なの?と言われる たびに感じたが、実はこの映画のトラウマ(?)ではないのかな?その可能性はかなり高い。それだけの強い印象を炭鉱労働者に与える力を、この映画は持って いる。

映画は北海道炭鉱労働組合の製作だ。ある意味、プロパガンダ映画である。
映画の冒頭には「この映画は炭鉱労働者ひとりひとりからの33円のカンパで作られました。」とゆー感じの・いきなり労働者の涙腺をゆるめるスタートであ る。
映画の途中、客席のほとんどの男どもは泣いていた。すすり声が道新ホールに静かに響いた。

映画が終わると、また、どこからともなく男同士が声を掛け合うのが聞こえた。
「今見ると違った見方ができますわ。」
「あの後、組合がだんだん職業化していったな。」
「そうそう。当時は8時間労働でもビックリした。私たちの頃は、1・11・21と、1のつく日にしか休みでなかった。」

彼らは、ただ単にノスタルジーで泣いただけではないのだ。
ただ、何に対して泣いたかを断言できるほどの理解力は今の私には、まだ無い。




15:40D『黒い炎』1958年,北炭70周年記念

■この映画からカラーになる。
映画の冒頭には、昭和の怪物政商、北炭の萩原吉太郎、映画を製作した大映の永田雅一(=永田ラッパとあだ名された・らしい。)、政治家の河野一郎が登場す る。三人で炭鉱労働者と同じ格好をして、炭鉱を視察するのだ。そして、そこで生れた友情と、炭鉱への敬意で、この映画を作ったと説明のナレーションが入 る。
司会の藤本監督は映画の前に「この三人が大蔵省の金を引き出していた三悪人だ。」と解説。
数年前に長寿で死んだ萩原吉太郎は、私の住む沼田町においても影の大人物で私も子供の頃から名前を知っていた。

■それまでに上映された映画の多くが炭鉱労働者の視線であったが、この映画は資本家寄りの作品である。それだけに、労働者視線では描けなかった巨大産業と しての炭鉱の全体像が紹介されている。石炭の利用方法は火を燃やすだけではなく、肥料、口紅、ガス、ポリエステルなどにも利用されているという驚き。石炭 を積んだ貨物列車ごと引っくり返して、石炭を空ける大胆な作業工程。怪獣が火を吹いているかのようなコークス製造の現場。などなど。
これも、貴重な映像の連続である。

先の『女ひとり大地を行く』で、主人公の長男の彼女が炭鉱が嫌いになり口紅を塗るという近代への変化を象徴するシーンがあったが、この口紅すら石炭から作 られているという産業の巨大さ。

東京の電力の8割は石炭でまかなわれているという報告。


映画が終わってから、ロビーに散歩に行くと、すっかり夜になった窓から美しい札幌テレビ塔がライトアップされてそびえていた。あ、昨日から始まったホワイ ト・イルミネーションも見える。
これらの電気は、もはや石炭からではない。原子力からなのだ。
札幌テレビ塔が誇らしげに腹を突き出し、「4:46」を告げていた。ずいぶん、日が短くなった。

■ロビーで映画パンフレット『闇を掘る』(2001)を買う。
藤本幸久,紅龍,あがた森魚,小林茂ほかの多彩な寄稿が読み応えアリ。
このパンフの終わりに「国内・道内石炭史」というページがある。

「63年(昭和38年)三井三池鉱の炭じん爆発事故で450人余死亡。三井美唄、北炭神威、住友奈井江など全道で25鉱が閉山。」

ああ、九州での大事故が北海道の閉山を招いたのか。
この直前には1960年安保もあり、労働運動は一つのピークを迎えていたのだろう。私は谷川雁の著作をいくつか思い出した。
労働運動は確実に資本家を打倒した。ただし、同時に職場も。・・・か?
ううむ。さっきの、男たちの会話が脳味噌から離れない。

「私は38年のバクハツで閉山移動をくらったクチですよ。」
「今はどこに住んでいるんですか?」
「私、62のバクハツの後、清水に入った。私はあの時に、最後に出てきたものなんです。」

そうか。38年の爆発とは、三井三池鉱の炭じん爆発事故だったんだ。
じゃあ「62」って?
年表には1962年にも昭和62年にも、爆発の記録は無い。
え?



16:40E『闇を掘る』2001年,監督;藤本幸久
↑空知炭鉱,太平洋炭鉱のドキュメンタリー

■実は私がこの映画を観るのは初めてではない。
しかも、2回目以上でもない(笑)。ハハハ、実は1.5回目なのだぁ。

2000年11月18日に、芦別で「上々颱風唄祭り」というイヴェントがあった。
これは正にイヴェントで、場所が芦別の温泉!で、温泉に入って、上々颱風のコンサートを観て、しかも☆映画『闇を掘る』のメイキングを観る!
この温泉の宴会場がライブハウス+映画館になった会場の周辺には、おでん屋や焼き鳥屋、寿司屋などの屋台がズラリと囲み、まさに「祭り」であった。
そー言えば、この時の観客同士も「おたくは、どちらのヤマでした?」が挨拶代わりであった。

この時はまだ『闇を掘る』は完成しておらず、藤本監督の説明入りの上映だった。芦別と言えばかつての炭鉱都市。観客に炭鉱OBが、かなりいた。
この年の前後に上々颱風は道内各地の旧炭鉱を回ってライブをしていたし、とっても、広がりのあるイヴェントだった。
ちなみに、この時も料金は今日と同じ前売2,000円、当日2,500円 。
これを企画した芦別のライブハウス「ROCK HOUSE DYLAN」の伊藤マスターのパワーにも感動した一日だった。


■私が二年前に観たメイキングは、サハリンでのロケの部分であった。
完成してみると、ああ、この部分はこう収まるのか・というパズルの名人のワザを観戦した気分。
つくずく思うのは、映画は「編集」である・とゆーコト。カメラマンの重要さを思いつつも、あえて・そー思う。
それは、今日観た唯一のフィクション映画『女ひとり大地を行く』(1953年)のクライマックスが、残念な編集であったという印象からもアル。
特に、ノン・フィクションの場合は、撮影してナンボなので、フィルムの無駄を恐れる以上に<決定的瞬間を逃すことを恐れるので、かなりの撮影フィルムが生 産されることになると思う。
しかし、我々は全ての人の人生を体験できないのと同様に、撮影された膨大なフィルムを全て映画に採用するわけにはいかない。かくして、2時間前後の作品が できあがるわけである。
そこには、想像を絶する編集の力技が求められる。「技」というよりも、「芸」かもしれない。

『闇を掘る』を観て私が最も「芸」を感じたのは、次の点であった。

まだ若さが残る40歳前後らしき3夫婦がテーブルを囲んで思い出話をする。
最初は笑い話を交えた共同銭湯などの思い出。だんだん炭鉱事故などの不幸な話題に移る。
話のピークは、一酸化炭素中毒で死んだ係員の死に顔を見た一人の話で迎える。
@彼が死体を発見した時に、死体はキレイな顔で、一目でその人と分る状態であった。
Aその後、死体の顔が膨らみ、本人とは似つかない顔になった・と、彼は聞く。
B彼の絶句。長い沈黙。
C言葉を選んでいるかのような、言おうか言わないか迷っているような彼の接続詞が続く。
Dようやく、意味のある言葉を言う。「私に見つけてもらいたいために、死体は顔をキレイなままで待っていたのではないのか。」
Eもう、言葉は出て来ない。
Fカメラはパーンして、となりのヒゲをたくわえた別の夫に向けられる。
Gカメラは、今度はこの男の言葉を待つかのように、じっと静止する。
Hが、ヒゲの男は、ついに言葉を発しない。ただ、目が少し赤くなっている。


この一連の流れで、カメラは最初の@の発言を記録しただけでも意味があった。
観客の私たちはAまで聞けただけで、普通では聞けない体験話を聞けた満足を得られる。
B、Cはカメラは、いつもの習慣で回していただけかもしれない。
つまり、@Aの発言を収録できただけでも意義があった。
しかし、カメラはDの発言をとらえる。本人は、実はこれを言いたいがために@とAを比較して証言したのだ。そして超自然的なDの発言が炭鉱マンのリアルな 精神として一気に最重要な映像として浮かび上がる。
ここまででも充分である。

しかし、カメラはとなりのヒゲの男の無言の映像を長回しに収める。
ここが重要だ。
映画に仕上げる段階で、ここはカットするという選択もあったわけだ。しかし、監督はこれを残した。おそらく気が遠くなるほどの長いフィルムがあるはずの5 年間に渡る長期ロケであった。泣く泣く不採用にしたフィルムも膨大にあったであろう。それなのに、この・ただ沈黙しているだけの男の顔を監督は完成フィル ムに残した。
残したのだから、きっと何かスゴイことをこの男は言うのだろうと、私のようなスケベ根性のアル観客はジッと発言を待つ。待ちすぎだ。待つにしてもフィルム をつまんで、発言をスグ持ってきてもいいのに・などど、商業フィルムやテレビの編集に慣れた観客はイライラするだろう。
しかし、これは「映画」なのである。
ついに発言されなかっただけの長い待ちの時間が、あのテーブルに座っていた6人の時間と同じ時間にいつの間にかなっているのである。
これこそ、映画の編集の「芸」である。



■さて、この「芸」を見せたシーンの冒頭、この炭鉱事故を示す、こんな字幕が出た。
「1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱 ガス爆発事故 死者62人」

あ!62!62!
これか。あの私の席の後ろで会話していた男は死者の数で記憶しているのか!

映画は字幕に続いて現場に居た女性の証言を伝える。
「おかあさんたちが二番方でなんかあったらしいよって言って。で、二番ていったらうちのお父さんも二番だよなあって思って。」

あ、男たちの会話と合う。
「あれ、二番方(=昼からの出勤)だったもね。」
「二番方、入ってスグ!」
と、彼らは言っていた。

それにしても、死者の数で記憶し、事故をその数で固有名詞化しているなんて。


■改めて『闇を掘る』というタイトルの上手さを感じる。
映画を観ているうちに、いつしか、炭鉱は地球の内部を掘り、宝物を探し出すというイメージから、人間の内部を掘り起こし魅力的な内面を探し出すという抽象 的なイメージへと昇華されてゆく。歴史の闇を掘り起こすという、監督やスタッフの意気込みも込められていると勘ぐるのは、勘ぐりスギか?



18:30 舞台挨拶 永井幸一郎(『闇を掘る』)
「樺太旧三井川上炭鉱の同級生を捜して」

■永井氏は役者ではない「鬼の永井」と言われた炭鉱の管理者だった。
しかし、映画の冒頭から笹薮を鎌で刈りながら炭鉱の跡を捜すシーンから、観客は彼のキャラクターに引かれる。跡を発見したときに、子供のように裏声で雄た けびを上げる彼に優しい笑を漏らさない観客はいない。彼を映画の中心に置いた監督のアイディアは的中した。

彼は今日の舞台で見事なカラオケを披露した。
カラフトで別れて、連れ戻しに行けなかった祖母へ捧げるという。

炭鉱は、こんな魅力的な人間の巨大な集団であった。そんなことにも観客の思いは届くはずだ。


18:40F釧路からの報告「釧路コ-ルマイン」

■熱っぽく語る釧路の印刷会社の社長。
「日本にもまだ炭鉱があるんです!外国より3倍のコストだと批判されますが、ここからのアジアへの技術移転が、海外の安い石炭を可能にしているのです。ド イツのバイエルン州は日本に事務所を開設して炭鉱技術の移転を独自に模索しています。我々も炭鉱の可能性に誇りを持つべきです!」


■ここで、最後のあがた森魚の楽器の設定があるので30分の休憩。
その前に、司会が2日後の月曜日に今日の続きの昭和40年代の映画を上映するというインフォメーションをする。これは、さすがに仕事のある私は行けない。
で、「映画の後に、大学教授や、まちづくりコーディネーターらによるシンポジウムをやります。」と司会が紹介した時、白髪の老人が手をあげた。

老人は怒りながら発言をした。
「シンポジウムと言うが、参加者の声をもっと聞かなければダメだ。
この前にやった赤平市での炭鉱サミットはパネラーが言いっぱなしで、ダメだ。
客も言いたいことが沢山あるはずだ。
とにかく、赤平のサミットはダメだ。」


■白髪の老人の声が頭に残ったまま、あがた森魚ライブまでの時間をつぶそうと私は再び、『闇を掘る』のパンフレットを開いた。
開くとスグ、3ページ目の文字が目に刺さる。

「人間に閉山はない。」

あー。
つまり、「バンドに解散はある。」→「ソロ歌手に解散はない。」→「人間に解散はない。」
解散=引退というロック・バンドたちよ。


どんちょうの向こうで、あがた森魚のリハーサルが始まった。
ピアノ、ギターの少ない音が、何かを探るように控えめに響いてくる。
「♪くまもとー・・・、帰りたくなぁーいー」
あ、あの曲。やるんだ。

■赤平サミットのあり方を批判した白髪の老人の言葉を聞いて思ったのは、
記録するのは映画、
記録してくれるのは映画、
そりゃあー・ありがたい、
しかし、
いつのまにか映画が主役になってしまい、
さらにシンポジウムのセンセイや、
穴に入ったり、炭でホホを黒くしたことのない政治屋のみの「言葉」が前面に出すぎてしまっていたのではないのか?

それをとりもどそう・と、彼(ら)は、しようと&している・のではないのか?

そして、それは、どうやって?



■今日は沢山の炭鉱映画を観た。
それらの映画は時代も違えば、国策映画や組合映画などの種類の違いもあった。
しかし、何度も同じ場面を観た。
映画の種類は違ったにせよ、結局、映画(監督)が選んでいる”絵”は同じであった。
例えば、地底の黒い壁。ドリルが石炭をくだく。横一列に並んで掘削する男たちの顔。炭鉱住宅の俯瞰。エレベーターで一気に地下へ降りる瞬間の音と忍者のよ うに消える姿。入鉱時のタバコのチェック。ライトを名札と入口で交換。などなど・・・・・・。
違う映画が、それらを同じく選んだというのは、実は映画制作者側の「映画的興味」、又は「映画的文法」だから・ではないのか?

そして、その「映画的文法」から、こぼれ落ちているものを、白髪の老人は語りたかったのではないだろうか?

私の周りで、初めて会った他人同士が、「おたくはどこのヤマだったんです?」と語り合う、話し掛けたくなってしまう。
それをサルベージする、救い上げる方法は何なんだろうか?


19:30Gあがた森魚コンサート「音楽夜話」
↑またまた出ました、サポートは札幌の三上敏視(エレキギター,ピアノ,笛,パーカッションなど)。
曲;「赤色エレジー」「いとしの第六惑星」「蟲の女」「闇を掘るのテーマ」など

私はこのライブの間中、ステージ上のあがた森魚と、私の斜め前に座っている白髪の老人を何度も見比べていた。
このシンポジウムを批判した男が、あがた森魚の歌をどうとらえているんだろう?
どう&何を感じているんだろう?


私は「いとしの第六惑星」が聴けてよかった。
あがた森魚はグランド・ピアノを時に人差し指で一音づつ強く押すようにしながら唄った。
「♪帰りーたぁーくふうううなぁああいー」
普段よりユルイ緊張感でリラックスして唄ったあがた森魚も、素敵だった。
「感想というよりは、感じたことを」と前置きして彼が語ったことは、来月行われる彼がプロデュースする函館の映画祭でのドタバタをポジティブに捉えるとい う話だった。
そこには、炭鉱は閉山したけれど、思い出話ばかりではなく、次を見つめよう。しかも、炭鉱のプライドの上に。というニヒリズムの超克のニーチェのような (?)考えがあった。
賛成だ。



■全ての行事が終わった。
あがた森魚のライブの時が一番、観客が少なかった。ピークの三文の1ぐらいだ。
そもそも、観客の多くは70歳前後の元炭鉱マンだし。



■午後8時半、私は北海道新聞のビルから出た。
ホワイト・イルミネーションで輝く大通り公園。それを見つめる観光客と、恋人たちを早歩きでかわしながら南へ。
白いライトは美しいが、赤や緑の電球のカタマリは美しくない。赤いスズランの光のオブジェなど最低。最悪。
なんだか、今年はケータイ電話で撮影しているヤツらが多い。
キミたちは何を&何のために「記録」=「記憶」しているんだい?
「北の映像ミュージアム」が、政治家たちの力で完成したアカツキには、キミたちのケータイの画像もアーカイブされるのかな?

少しづつ、小雨が降ってきた。


■私は狸小路にある映画館「シアターキノ」にギリギリ、午後8時45分に着いた。
もう予告は始まっていた。

映画『酔っぱらった馬の時間』(2000イラン)
監督;バフマン・ゴバディ 初のクルド語映画

これが、私の今日、7本目の映画だ。

舞台は現代のイラク。
クルド人は雪の深い山奥に住む。
それに対して、イラク人の住む都会は、山を一つこえただけで、まったく雪の無い楽園だ。

まるで、昨日まで大雪の沼田町にいた私が、
雪のまったくない札幌に、たった2時間の自動車の移動だけでたどりついたようだ(笑)。

■これは、そんな過酷な民族差別のある、貧しいクルド人の幼い兄弟の話。
しっかりモノの長男。美少女の次女。体の不自由な病気の弟。
姉が嫁に行く。病気の弟の手術のお金と交換に。
しかし、相手はやっかいものの弟を拒否し、かわりに馬をあたえる。
長男の少年は馬をイラクへ運んで売って、弟の手術代にしようと計画する。
雪の降る中、美少女が追ってくる。「お兄ちゃん、パン、持っていって。」
手袋もせずに長距離の雪山を越える。
途中、警備兵に見つかり、少年は病の弟を背負ったまま、馬を引いて逃げる。
やるせない。どうしようもない。答えも出ないまま映画は終わる。


■なんだか、ついさっき観た古い日本の炭鉱映画を思い出す。
豪雪。貧乏。子沢山。けなげ。努力。権力の横暴。やるせない。救いの無さ。そして、民族。

ほとんど同じだ。
ただ、炭鉱の映画は過去で、
クルド人の映画は、現在だ。

戦争で炭鉱は栄えた。第二次世界大戦や朝鮮戦争。
そして、炭鉱労働者は貧乏だった。

クルド人も戦争で貧乏なのか。

そー言えば、さっき思い出したアメリカ映画『波止場』(1957年)。
そして、
フランス映画『大人は分ってくれない』、
イタリア映画『自転車泥棒』、
イギリス映画『長距離ランナーの孤独』。
みんな貧乏だった。
どれも、戦争の影響だ。
つい、数十年前のことだ。

ニュースは消える。
映画は残る。

どこに?

そう、そこに。


■映画館を出ると、ススキノはホワイト・イルミネーション以上に電気を使っていた。無数の色が輝いて見えるようにするために。この電気に石炭の黒い影は無 い。
救われたのは、雨が強くなったことだけだ。



-△-

雑誌★ 『recoreco』 2002,11,21
ハロー、レコレコ編集部さま。


>メタローグ編集部です。
>書評道場、夏野先生より以下のようなメッセージが届いております。
>宜しくお願いいたします。

■神吉さんですか?ごくろーさまです。
北海道の久保です。北海道☆古本屋めぐり特集号、楽しみにしています。


>今回のラストの久保さんへの講評で間違いを犯してしまいました。
> 久保さんが3点しかもらえなかったとショックを受けていたのは、『山口昌男山脈
> No.1』ではなく、『風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く』についてだったよう
>です。『山口昌男山脈 No.1』の書評において“茫洋と”という言葉を使いました
>が、今回久保さんも茫洋としてますか?というような旨を書いてきたものですから、
>こちらの点数についてのことなのかと勘違いをしてしまいました。

■いや、これも大「間違いを犯して」います。そう、道場主にお伝えください。
しかし、誤解を与えたのは私の責任。
つまり、文章力が無いとゆーコトですもんね。
えーと、私が言いたかったのは、こーゆーことです。

■夏野さんが見抜かれたように、私は今回、かなり苦しんで書評を書きました。
「努力」が苦手な私にとって、このような作業は「努力」ではなく、「苦しみ」でした。
結果、数十編の書評を関川夏央さんの『退屈な迷宮』に対して書きました。

特に、今回は「拉致」との同時進行でしたし。

「苦しみ」であったにせよ、結果的に私がそーやって・それなりの作業を自ら行ったのですから、深い意識下では、私は楽しんでいたのであると思います。
ですから、まず私が言うべきことは、メタローグさま、『レコレコ』さま、編集部さま、夏野様、楽しいよー、ありがとサンキュ。であるとゆーコトぐらいは察 知できる経験をしてきた私です。

■んでさ、数十編も書いたからって、たった一冊の書籍に数十編の書評を投稿していいものか?
私は可能な選択肢として、数分間、「おお、これ全部、投稿しょー!」という魅力的なアイディアに染まっていました。
でも。でも&でも。
私は、ズラリと並んだその・クダラナイ書評(もしくは魅力的なゴミ。)を何度も読んでから、こう結論をつまみだしたのです。

一つだけ投稿しよう。

■夏野さんが私にいただいたアドヴァイスはかなぁーり適切なものでした。
さすがです。
で、夏野さんのアドヴァイスに沿った書評も、いくつか書いてありました。

ああ。でも、おバカな私。
「でもさ、これって本気の世界じゃん。好きなことをやってダメなら、それだけのこと。」と思い、
ズラリ並べた自分の作品の中から一番好きなヤツを選び出しました。
それが、今回、「書評道場」に投稿したアレです。

それが夏野さんのアドヴァイスのストライクではありませんでした。
でも、アドヴァイスとは複眼的なものです。
ストライクだけが回答ではありません。

で、私が今回投稿した時に書いたあの「3点?」という自虐的な沿えのコメントは、「ストライク狙いであれば今回の投稿は3点しか採れないでしょう」という 自己判断であったのです。
過去の作品に対しての発言ではありませんでした。ましてや「怒り」のワキャないじゃんか。あははは。

でも私は分っています。
ストライクではない、見たことの無い異次元のストライク・ゾーンを夏野さんは夢見ている・とゆーことを。
書評家は「ダイジェスト屋」かもしれません。
中原昌也が小説本のデビューの最後に「(例、文藝書評家は、文章の字数さえ数えられれば中身を読まなくとも立派に勤まる。)」と書いたんだよなー。
でもね、でもさ、「異次元のストライク・ゾーン」の可能性を知っているから、書くんだ。

> 大変ご面倒ですが、今回の講評の中から、
>「でも有効3点じゃなくて、技あり4点の間違いですよ!」
> という部分を削除してください。

■確認しました。もうすでに、無いですよね。

> そして久保さんにひと言その旨ご連絡いただけますでしょうか。

■ありがとう・ございます。私のような奴隷商人に温かい気配り、島のカナリヤも喜んでいます。
ところで、「カナリヤ」と「カナリア」、どちらが正しいんですか?

■今日はボジョレー・ヌーボーを飲んでいます。解禁日ですもの。しかも、1999年もの。
1999年もののボジョレーヌーボーを一人で真夜中に飲む。
ツマミは、雪印パルメザン粉チーズ。パスタにかけるヤツさ。
これって、「書評」だと思う。狂ってる?私?



俳優★『ジェームズ・ コバーン』 2002,11,20
ミック・ジャガーより、キース・リチャードが好きだった。
サイボーグ009より、004が好きだった。
ルパンV世より、次元大介が好きだった。

メイン・マンより、クールでニヒリズム漂うサイド・マンが好きだった。

俳優ジェームズ・コバーンが死んだというニュースを早朝のテレビで知った時、そんなことを思った。

享年74歳。それが若いのか年寄りなのか。そんなことすら、40歳という私の年齢が答え不能にする。
年齢が(どーしょーもナイくらい)相対的な価値基準であるように、サイド・マンの存在感(=存在理由)も、あくまでも&どこまでも、相対的な価値基準にな らざるをえない。

1959年、映画デビュー。
翌年の1960年には、もうすでに代表作『荒野の七人』。そう、黒澤明監督『七人の侍』のリメイクだ。日 本映画『リング』がアメリカでリメイクされ、大ヒットを記録している最中、黒澤明監督『生きる』もリメイクされるというニュースが飛び込んできたのもつい 数日前。『生きる』をアメリカ人が演出するのか?いくら想像してもビリー・ワイルダー監督『アパートの鍵貸します』(1960)の冒頭のオフィス・シーン までしか連想できない。

ああ。昨日、ビリー・ワイルダー監督『お熱いのがお好き』(1959)がNHK-BS2で放送してたなぁ。考えてみれば、ワイルダー監督の全盛期の作品の ライバル作品の出演者としてジェームズ・コバーンはデビューしたわけだ。でも、ワイルダー監督はコバーンを選ばずに、ジャック・レモンを選んだ。まさに 1959年の出来事だ。クールより、お熱いのがお好きだったのか(ぎゃふん)。
昨日観た『お熱いのがお好き』には名場面が多いけれど、狭い寝台車の中で女装したレモンと、彼を女であると思い込んでいるマリリン・モンローが、ゴムの水 枕にバーボンとベルモットと氷を入れてカクテルを作るドタバタのシーンがあった。また今回も笑ってしまった。
で、今、私もソレを作って飲んでいるんだけど、ウマイ!ゴムの水枕でシェイクはしなかったけれど。今度、カクテル・バーに行ったらリクエストしてみよう。 もし水枕で作ったら、相当なモンロー・ファンかもしれない。それとも、ほのかに付くゴム臭いのがいいのかなぁ?
そんなジャック・レモンも去年、2001年6月に死んだ。後を追うように、ワイルダー監督も今年、2002年3月27日に死んだ。

彼らがロサンジェルスで死んだように、コバーンもロスで心臓発作で死んだ。やっぱ、みんなビバリーヒルズに住んでいたのかいな?

そうそう。ワイルダー監督の晩年にズーズーしく合いに行って中野翠オネーサマに嫌われた三谷幸喜のテレビ・ドラマ『HR』があったな。相変わらずの密室コ メディだったね。

ワイルダーの全盛期が1960年だなんて書いたけれど、それ以前にオードリー・ヘップバーン主演の『麗しのサブリナ』(1954)、『昼下りの情事』 (1957)なんてのもある。
そう。コケティッシュな最後のオードリーが堪能できるスタンリー・ドーネン監督『シャレード』(1963)には、殺し屋の役でコバーンが出てくる!実は私 はこの人格確認不能のクールすぎるコバーンが彼の作品の中で一番好きだ。
オードリーのラブ・コメとは言っても、さすがにビートルズがデビューし、モンローとケネディ大統領が相継いで死んだ後の1963年の映画だけあって、 ジョージ・ケネディがバスタブで溺死させられたり、ジェームズ・コバーンが頭に袋を被せられて窒息死させられたり等の考えてみればかなり残虐なシーンがあ る。でも、やっぱ&結局、おっしゃれーなミステリー映画に仕上がっているんだよねー、アメリカ映画の能天気な時期はまだ終わっていないのね。好きだけど。

■んで、ビートルズの話が出たところで、やっぱり私には来日公演も大好評にこの月曜日に全て終了したポール・マッカートニーのソロ時代の最初の名盤『バン ド・オン・ザ・ラン』(1973.12)のジャケ写真が忘れられない。アルバムのタイトル通り、ポール、リンダ、デニー・レインのメンバーが脱獄してサー チ・ライトを当てられた瞬間とゆードラマティック(?)な写真。んで、その周りに本物の俳優が脱獄囚の演技をしている。ドラキュラ俳優のクリストファー・ リーとか。で、一番目立つ位置の高いところで手を上げているのがコバーンなんだよね。これじゃあ目だって、とっつかまっちゃうッちゅ―の(笑)。それで も、ビートルズを聴き始めた中学生だった私は細くて鼻ヒゲをたらしているコバーンを見て、「おっ。ジョージ・ハリスンも参加してるのか!」と喜んだ(大笑 い)。

■この名盤は最近、発表後25周年を記念して特別盤が発売された。それには、コバーンやリーの思い出話や、収録曲「ピカソの遺言」の製作に関係する俳優ダ スティン・ホフマンの証言が入ったCDも付いている。当時、ポールには友人が少ないとゆーイメージがあった私には、この意外な交友関係に少々驚いた。
だってジョンにはボブ・ディランやニルソン、ジョージにはボブ・ディランやエリック・クラプトン、リンゴにはボブ・ディランやマーク・ボランらの友人がい るのに、ポールは一人で宅録してんだもの。
え?ボブ・ディラン。なぜか、みんなディランと仲良し。

んだ、んだ。
ポール・マッカートニーがコバーンの写真で『バンド・オン・ザ・ラン』を発表した1973年、ボブ・ディランはサントラ・アルバム『パット・ギャレット &ビリー・ザ・キッド』を発表している。そーだよ、邦題が『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』という巨匠サム・ペキンパー監督の映画。なんだ よ、ポールもディランの友達の友達かよ〜。
この映画にはボブ・ディランが名曲「天国の扉」などで音楽を担当。さらに、彼もエイリアス少年というビリーの子分の役を演じた。コバーンはかつてはビリー の親友だったが、保安官になってビリーを捕らえる立場に変わるパット・ギャレットという難しい役。映画のタイトルがビリーより先にパットが付いていること にペキンパー監督の思い入れが入っていると思う。
映画のテーマは大雑把に言うと「近代の超克」かな。無法者から管理者に変わったパット=コバーンはビリーに「ビリー、時代が変わったんだ。」と言う。ここ で私たちロックの住人はディランのプロテスト・アルバム『The Times They Are A-Changin'/時代は変わる』のタイトルを思い出さざるを得ない。そして、ディランは映画音楽として作曲した「ビリー」の中でこう歌う。

「♪Billy they don't like ya to be so free/ビリー、みんなあんたが自由なのがいやなのだ」

1973年当時の時代の雰囲気もあったのだろう。
たとえば、長髪でアーシーなファッションの登場人物たちはロック村の住民か、ヒッピーのコミューンにも見えたりもする。
当時の日本ではまだ「長髪=不良」とか言われていたなぁ。翌年、私は中学生になったんだけれど、学校では頭髪検査があったし、作ったバンドで学校祭に出よ うとすると職員会議にかけられたし。
「時代は変わった。」。でも、どう変わったんだい?自由を捨てて勤め人になったのかい?それとも・・・?

同じ西部劇でも『荒野の七人』で演じたナイフ投げの達人(←これは&これで、かっちょイーんだけどね。)から、13年。かなり複雑な役をコバーンはこなし た。

そー言えば私の中学生の時の友人の小林君のあだ名は、コバーンだったな。
けっこう極東の田舎の少年にも通用するカッコヨサ&印象深い俳優だったんだね。
スピーク・ラーク。



小説★『三谷 幸喜・文、唐仁原 教久・絵「俺はその夜多くのことを学んだ」』 2002,11,17
 ねぇミンナ、フジテレビ水曜夜11時の『HR』観てる?あれ、面白いよね。 脚本の三谷幸喜は「日本初のシット・コ ム」な〜んて自慢してっケドさー、実は「日本初の脚本家の名前で視聴率を稼ぐドラマ」なんじゃーないかな?そんな彼が紙の上の舞台で腕を振るったのが、こ の小説。元々、学生演劇でスタートした彼。演劇論とは文学論である前に組織論である、と・私なんかは思うワケ。だから体育会系の文学青年が演劇をココロザ シた場合が多いよね(笑)。でもさ、どー見ても体育会系とゆーより、引篭り系な彼。それでも、彼をとりまく魅力的な俳優たち。この引篭り系の組織論こそ、 現代のリアルかも。この本では俳優の代わりに画家と組織しちゃう。独身のサエナイ男が自室で片思いの女性に電話を掛けよーか悩む一幕ものの一人芝居。俳優 である絵も名演で、電話の線が人物の不安定な輪郭にからみ、不安な夜を好演出。ケータイが普及する前の前世紀のシチュエーションだけど、ビミョーな引篭り モードは益々リアルになってんだよね。


■などと、本の話を書いている私こそ、今日は書斎にこもって外の空気は・まったく吸わず。
これこそ、ひきこもりぃー?

まぁ、どーせ外出したら、またバカスカと本を買っちゃうんだし。
ひきこもりって、なんて経済的なの・ハートマークっちゅー気分。

と、言いつつ、外へのドアを開けると・どーせ雪がガッポリなんだろーし。
昨日の降雪50pにはまいったゼよ!
これが真冬なら「♪あきらめの冬(←あ、夏か。)」なんだろーケド、まだ冬は数日前に始まったばかりだぜぇええ!

つまり、除雪がイヤで、ひきこもり?
あははは。なさけねー。サイテーじゃん。
でも、ストーブ&ディープなコーヒー&読書&BGM。わはは。温泉より、ハワイじゃん。←意味不明。

■で、まったりしていたら、ポール・ウェラー関係のホーム・ページで知り合った淳吉郎(SLICKS)とゆー青年からメールが届いていた。
なぜか、そこの掲示板でポール・ウェラーの話題をしていたところ、私が例の調子でウェラーの名曲「サンフラワー」とゴッホの「ひまわり」の関係を、10月 20日に旭川美術館『印象派のあゆみ展』で観た感想と共にカキコしたら、彼もゴッホが好きで、なんとオランダのゴッホ美術館まで行ったソーダ。『印象派の あゆみ展』は旭川からスタートして全国各地を回るので、「次は静岡美術館だよ。」とレスしたら、なんと☆彼は浜松の人だったワケだ。
近いっーたって、車で2時間。
お部屋でまったりの私には頭の下がる日曜日の利用法だ。

■以下、彼へのレス。



>やぁ やぁ やぁ!
>浜松の淳吉郎です。

■ハロー、淳吉郎さんは、、SLICKSというバンドをやっているのですか?
君のような考えを持っている方の音、聴いてみたいなぁー!
私は今や40歳の初老ですが、1984年にバンドのツアーで「名古屋ELL」⇒「静岡サーカスタウン」とライブハウスめぐりをした時に浜松を通過しました よ。丁度、中間点ですよね?
ライブ後にベースのやつのオジサンの家に泊まって(笑)、朝起きたら、家の前にデカイ富士山があってビックリしました。そこは夜中に着いたんだけど、富士 市だったんだよね。あはは。
そー、そー、サカタっーメンバーがタバコのフィルターにハッカを詰めて吸っていたら、そのオジサンが急に怒って、「そんなコトをするなら出て行けー!」 だって。LSDかコカインと間違えたんでしょうね。ハッカも透明の結晶ですし。
そんなオジサンと10数年前にベースのやつの結婚式で再会したなぁ。しみじみ。忘れてた。

>久保さんが言ってた
>”印象派のあゆみ”in静岡
>本日、行って参りました。
>ちなみに、浜松から静岡までは
>車で2時間ぐらいの距離です。

■おお!えらい!その行動力、北海道の片隅から拍手を送るよ!
私は今日の日曜日は、書斎に引篭り(笑)だったべさ。

>本日の”絵の散策”は
>けっこう楽しめたんだ。
>初めて名前を知る画家の絵も
>あったしね。
>ロールフスっていう人の絵は
>もろゴッホの影響があって
>俺的にはGOO!でした。
>オリジナルな人も大好きだけど
>それに影響されて真似しちゃってる
>人、個人的には大好きなんだぁ。
>絵でも音楽でも・・・。
>オリジナリティなんてあるのか?って
>昔から思ってるんだ、俺は。
>影響されて当然、そして”無意識”の中から
>”オリジナリティ”じゃなくってその人の”自我”が
>出てれば、俺にはOK(オッケー!)だね。

■なるほど!
スィッチとしてのオリジナル。または、トリガー(=ひきがね)としてのオリジナル。

>今日も絵を観ながら思ったんだけど、印象派って
>やっぱりパンクだったんだろうね、あの時代。
>出始めは評論家諸氏に叩かれて、いつのまにか
>中心を成していて、その後にも影響を与え続ける
>(表現的にも精神的にも)なんて・・・。

■ふにゃ。
前にも書いたけどさ、最近思うのは「ストロークの快感」とゆーこと。
私のようにステージから長いこと離れていると、目の前にギターがあると、グジャァアーン!!と、ギターをかきならす快感がよみがえるんだよん。
「初期衝動」とか「カタルシス」と言葉を換言してもイイけどさー、まず「ストロークの快感」ありき・だね。
それが、あーゆー曲になってゆく。
ゴッホのあの黄色い絵、見た?あれなんか、「絵を描きたい」以上に「筆のストロークを楽しみたい」という神がかった「乱暴」な絵だよな。

>死後べらぼーな評価を受けるゴッホなんて、
>解散後の現在、オリジナル・レコードが数万円で
>取引されるいくつかのパンク・バンドに重なるねぇ。
>実際、そのようなバンドはトップのバンド(ピストルズ
>やクラッシュやダムド)にも引けをとらない音源を
>残してるからね。

■おお。私は1977〜1980年に高校生とゆー、モロ・パンク世代だけど、当時は金が無かったのでパンクのレコードって意外と持っていないのよねぇ。ピ ストルズですら、数年前にCDではじめて買ったぐらい。
あ、CRASSってゆーハード・コアのパンク・バンド知ってる?なぜかこれはアナログで発売時に買ったなぁ。結局、私は音もそーだけど、歌詞が面白くない とツマランのよ。
だから、PILは全て発売時点で買ったなぁ。あの輸入盤のアルミ缶に入っている『メタル・ボックス』も大金をはたいて買ったよ。・・・・・・それが、なん じゃ、今のジョン・ライドン先生は?とほほほ。
■なんか、よいパンクがあったら教えてくれぇ!
■あ、先週、マッド3と間違えて(笑)グレート3『ロマンス』を買ったら、意外と良くて・もうけた。

>あと今日の絵の中ではクールベが意外にも?俺の
>中に入ってきたんだ。
>まぁ、今日の感想はそんなとこです。
>んじゃぁまたね。

■おお。クールベの良さ、私の「共犯★日記」10月20日にも書いてあるよね。
あーゆー、クールベの良さとかが分ると、人生、面白くなるぜ。




雑誌★『週刊金曜日』 2002,11,16
今日一日だけで雪が50pぐらいは降ったんじゃぁーないだろうか。

こんな一日の我が社の始まりは、A重油の納入から始まった。
我が社にとって、秋がコメのシーズンであれば、冬は石油のシーズンだ。
我が社の石油部門の仕事も忙しくなってくる。それは降雪量に比例する。

朝8時、A重油を8kリットル積んだタンク・ローリーが我が社に到着。

重油?
日本時間の昨日15日、ニューヨーク時間14日。朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)の理事会は北朝鮮への重油供給を来月12月からストップすること を決めた。
KEDOの理事会は日米韓、EU(欧州連合)の4者で構成されている。
そもそもKEDOの目的は北朝鮮が核開発を断念するのが目的。
その見返りに、日韓などが資金を出して軽水炉型原発2基をプレゼントする。
んで、1基目が完成する予定の2008年まで、代替エネルギーとして米国が毎年50万トンの重油をプレゼントするっちゅー事業だ。

関川夏央『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』(1992)を読めば、ここ10年以上、北朝鮮は恒久的なエネルギー不足になっているよう だ。ソレはもしかしたら・1984〜1986年の3年続きの大水害⇒1988年のソウル五輪による韓国の外交の優位⇒1991年12月8日(ジョン・レノ ンの命日!)のソ連崩壊によるスポンサー崩壊からか?
夜の街は電気が無くて真っ暗。っーか、省エネという愛国戦闘なのだ。

・「戦闘」とは、北朝鮮では「労働」もしくは「労働奉仕」を意味する。工事現場はしばしば「戦闘場」と形容され、青年の労働隊は「突撃隊」と呼ばれる。な にごとも軍隊式軍国式なのである。(関川夏央『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』109ページ)


■重油を売る私が、重油をストップする記事を読む。


■我が社の社員が総出でスコップを持って除雪をする姿をオフィスの大きなガラス窓越しに見つつ、今度はコメの商売を電話で2〜3件。
オフィスの灯油ストーブは暖かい。

■『朝鮮日報』によれば、韓国の農林部は今年韓国のコメの生産量が3422万俵(493万トン)と最終集計されたと14日に明らかにした。
これは昨年の3830万俵に比べ408万俵(10.7%)、平年の3658万俵に比べ236万俵(6.5%)が減少したものだ。
また、90年代に入ってから93年の3290万俵、95年の3260万俵以降、3番目に低い量だそーだ。

■仕事が一段落したところで、Eメールをチェック。
いつもはレスをする度に削除してゆくんだけれど、
木曜日の深夜に届いたメールが気になっていて、消さずに残していた。

差出人 : "yuko inoue"

宛先 : "Kubo Motohiro"

件名 : 週刊金曜日。

日付 : Fri, 15 Nov 2002 00:33:34 +0900

黒川編集主幹 『曽我さんが何で怒っているのか
わからない。』 って・・・・痴呆?もしくは知能障害?
本当はわかってるクセにっ。
嘘つき嘘つき嘘つきーーーっ!!

で、筑紫哲也のコメントはというと、報道が抱える
『永遠のジレンマ』 だとさ。
おいおい、まるで他人事だな筑紫よ。

あーダメだ。ここのところずっと残業続きでヘロヘロ。
ただでさえパワーダウンダウンダウンしている私を
これ以上滅入らせないでおくれ週刊金曜日。
明日は金曜日。

それでは、おやすみなさい。


■最初に木曜日の北海道新聞の夕刊で曽我ひとみさんの夫と二人の娘のカラー写真を見た時には、軽いショックを感じた。理由は分らない。
記事を読む前に、写真だけで彼女の家族であると分った。
娘の顔は明らかに母親の遺伝子を受け継いでいた。それが一瞬で分ってしまったことのショックかもしれない。
私たちは結局、「血」からは逃げられないというショック。


■昨日、吹雪の中、深川市立病院へ行って「血」の検査をした。
夏の大腸癌に続く、「血小板過多」の住民健診の結果の再調査だ。
血小板が少ないと、血が止まり難くなり、鼻血やケガの出血が出まくるのだそーだ。
私の場合は多すぎるらしく、白血病の危険があるらしい。
でも、この日の結果は「だいじょーぶ」だった。むしろ、脱水症状気味で「血」が濃すぎる・そーだ。

■私が先のyuko inoue嬢のメールが気になっていたのは、雑誌『週刊金曜日』をめぐる考え方だ。確かに、今回の彼女のメールに反論は無い。まったくその通りだ。
だが、私自身の中に・同時に、『週刊金曜日』と『週刊金曜日』的なもの全てを否定してよいのか?とゆー・ヒッカカリがあった。
そして、そのヒッカカリが私自身の『週刊金曜日』的なものであるのかもしれない。とゆー、メタ疑問=入れ子の疑問であった。

迷ったときは、そいつへのレスを数人に送ってみるのが私の習慣。
すると、また数人からレスが来た。

差出人 : iuchi-m

宛先 : moto_kubo@hotmail.com

件名 : Re>Re: 週刊金曜日。

日付 : Sat, 16 Nov 2002 17:15:14 +0900

>おっす。久保っす。
イノウエさん、その通りっす。「左翼」の脆弱さが露呈してしまったなぁ。黒川編集長の
インタビューは見苦しかったなぁ。筑紫哲也『ニュース23』の昨夜のコメント、聞きた
かったなぁー。蓮池兄弟の1970年代左翼のニヒリズムを「超えた」表情がメッセージ・
か。それにしても、今日発売の『週刊金曜日』の発行部数がいつもより多かったとした
ら、笑うぜ。黒川編集主幹 『曽我さんが何で怒っているのか>わからない。』 って・・
・・痴呆? →正義の味方の週刊金曜日・・・、勇み足?それとも、策略?


■このiuchiさんからのレスで本人のコメントは最後の「→正義の味方の週刊金曜日・・・、勇み足?それとも、策略?」のみ。
ここに、彼も「正義の味方」と『週刊金曜日』を応援してきた気持ちが滲み出ている。
で、彼は「勇み足」「策略」と事故であるよーな状況を希望的に想像している。

■同じ私のレスに、他の男は辛らつに反応してきた。

差出人 : akiller

宛先 : 久保AB-ST元宏

件名 : Re>Re: 週刊金曜日。

日付 : Sat, 16 Nov 2002 10:15:14 +0900

「週刊キム曜日」ってか?「脆弱」というより、左翼の「死」だ。


■1962年生まれ40歳の私をはさんで、先のiuchi氏は2歳上、このakiller氏は2歳下。
別に世代論を言うわけではないが、さらに年下のinoue嬢を合わせて4人を生れた順番に並べると、「左翼」に対する幻想(?)のグラデーションが・ちら りと見えたりしたりして。


■で、2日悩んだ結果、今日の午前10時の休憩時間にinoue嬢のメールを『共犯新聞』1面のメディア欄にUPした。
どーせUPするのであれば、今日の土曜日ではなくて、『週刊金曜日』が発売された金曜日にしておくべきであった。


■もちろん、「左翼」は一種類だけではない。
それでも、この『週刊金曜日』の編集委員は、落合恵子 佐高信 椎名誠 筑紫哲也 本多勝一 である。死んでしまった久野収もそーだったハズだ。
落合恵子の魅力は私には分からないが、その他の人物は、それぞれ問題もあろーが、私にとっては魅力のある人々であった。

■「左翼」は社会のメインには、なれない・と思う。それは「左翼」の持っている性質から来ている。
たとえば、「左翼」は権力を憎む。
つまり、その時点で組織論が破綻してしまう運命にある。
よっぽど幸運なメンバーに恵まれない限り、組織の維持には権力が必要となる。
「よっぽど幸運なメンバーに恵まれない限り」という前提からして、「左翼」は♪吐き気がするほどロマンチックなのだ。

そして、バカバカしいけど、私はロマンチスト。


■今回のinoue嬢のメールが来る直前に、iuchi氏と蓮池薫さんの兄の冷静な分析能力について意見交換をしていた。

私の意見はこうだ。
小泉首相による日朝首脳会談後の拉致家族の記者会見は優れたアピール性があった。
その時に、蓮池兄は「これは国家犯罪だ。」と言った。この発言が、この日の記者会見で最も政治的な言語を使ったものであった・と思う。私は問題を解読する 適切な言葉が印象的であった。
しかし、翌日のテレビや新聞は、横田めぐみさんの父母の発言に代表される「家族愛=個人の問題」を大きく取り上げていた。蓮池兄の発言はほとんど無視され ていた。
まぁ、首脳会談までは「政治問題」であったのだが、あの記者会見が一気に「個人問題」に引きずりこんだ結果、日本大衆の琴線に触れたんだから、あれはアレ で強力な効果があったんだろーな。

でも、一方で私は黒い服が好きでヒゲを生やした職業予想不可能な蓮池兄のアナーキーな雰囲気が日本国民の感情を掻き立てるのにジャマであったとゆーマスコ ミの高度な(?)無意識も働いて、彼の発言はほとんど無視されたのであると思う。

その後、横田めぐみさんは帰国せず、蓮池弟は帰国したという理由もあってか、一気に横田パパ&ママよりも蓮池ブラザーの方がマスコミ露出が増えた。
で、結果として蓮池兄のクールな発言は大衆の心にも届き出した。

そのいい例が今回の『週刊金曜日』への強い抗議だ。

「強い憤りを感じている。自分たちが北朝鮮側に利用されているのが分らないのか。
国家間で話し合う問題になっているのに、一マスコミが出すぎたことだ。」


■これは私の想像なのだけど、蓮池兄弟は1970年代の段階は心情的左翼であったと思う。もしかしたら、今もそーだろう。
弟は北朝鮮に行き、よど号メンバーとのユートピア建設に合流できた・とゆー幸福な原始左翼状態になる。
兄は、吉本隆明ではないが、左翼を切る左翼になっていった・・・・・・。

あくまでも、私の想像です・けど。

今回の『週刊金曜日』の勇み足が、その両者の位置をはからずもクリアに見せてくれた。


■今日の朝日新聞に日本雑誌協会取材委員長・光文社常務の鈴木紀夫氏の投稿が掲載されている。
その内容は、今回の拉致被害者をめぐる取材が、新聞とテレビが主導権を握り、雑誌協会には決定事項の同調を要請するのみである・という不満である。
これはおそらく今回の『週刊金曜日』報道問題以前に書かれたものであろう。
それにしても、グッド・タイミングすぎる。
今年前半までの鈴木宗男&田中真紀子報道は明らかに雑誌のスクープが新聞&テレビより大きく先行しており、「鈴木宗男研究」を連載した週刊誌の発行部数は 異常な伸びを記録していた。
それが、いきなり半年後にはコレである。スクープすらも国家の外交戦略に組み込まれている。

そんな中での『週刊金曜日』のスクープであったワケだ。


私には、そんなマスコミ業界のパワー・ゲームも見えてくるんじゃよ。

結果には必ず、理由がある。
今日の午後からは近所の主婦のストーブ修理の仕事。燃やしている最中に突然、消えるのだソーダ。
結局、全部、分解。
灯油の入ってゆくラインに黒いススが固まりになっていて、灯油が流れずに消えたのが理由であった。おかげで手は油で真っ黒になった。

この家には二人の未亡人が住んでいる。
年寄りの方の夫婦の息子も亡くなり、嫁も未亡人として住んでいるのだ。
つまり、男の家系は途絶え、よそから来た二人の女が家を守っているわけだ。
騎馬民族の天皇家のよーだ。

死んだ息子は、ふきのとうの細坪基佳さんの同級生。
通っていた中学校が近かったからか、この家は溜まり場だったそうな。

ストーブの修理が終わってから、奥座敷を見ると、それぞれの夫の遺影が飾られていた。

■さて。
今日の新聞には二人の死亡記事もあった。

ひとりは考古学者の江上波夫、享年96歳。11日に死んでいた。
彼は天皇家の起源を神話に求める「皇国史観」から解放された第二次世界大戦直後の1948年、
天皇は朝鮮人であるという「騎馬民族説」を発表した。
これは柳田国夫や折口信夫らから激しく批判された。そーだよねぇ、ヒットラーがユダヤだっちゅーもんだもんね。
で、彼はそのつど批判に反論しつづける。そのたびに彼の論理は堅牢になっていった。その作業は死の直前まで深化され続けた。

もう一人は、ベルリン五輪マラソン優勝者の孫基禎(ソンギジョン)。享年90歳。昨日、15日にソウルで死んだ。
彼は朝鮮半島が日本の植民地支配下にあった1936年のベルリン五輪のマラソンに「日本代表」の一人として出場して金メダルをGET。
同じベルリン五輪マラソンで銅メダルをGETした南昇龍(ナムスンヨン)も去年2月に88歳で死んでいる。
なんだ、結局ニッポンは助っ人ガイジンでメダルを2個、搾取しただけじゃんか。

孫基禎が金メダルを取って表彰台に立った時、彼のシャツの胸に「日の丸」があった。
この「日の丸」を東亜日報が塗りつぶして掲載し、朝鮮総督府から無期停刊処分(約10ヶ月で解除)を受けた。
つまり、彼は朝鮮&韓国の共通の「民族の英雄」であり、同時に「屈辱の歴史」の象徴なのだよ。

1988年のソウル五輪で、彼はスタジアム内を走る聖火ランナーを務めた。
かなぁ〜り、シンボライズなランナーだよなぁ。マラソン・マニアの井内正樹さん、知ってました?

今日も、韓国のメディアは「屈辱の歴史のなかでの民族の自尊心だった」と大きく報道。
金大中大統領も「民族の魂を呼び起こしたその足跡に」と追悼。


■天皇は朝鮮から渡ってきたと主張し続けた日本人。
韓国人が天皇の下にひざまづかせられた象徴。
共に90歳台。日韓の同世代。
この二人の死は、これまた偶然なんだろーが、日本と朝鮮半島の関係を考えさせる。


■さて、今ほどちょいと触れた金大中大統領。
関川夏央『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』(1992)の中の「一九八九年の朝鮮半島」という現地レポートで、関川は韓国南部の東側の「慶尚 道」と、西側の「全羅道」にも訪問している。
全羅道で関川が雇った若い運転手は、
「金大中先生に、一度は大統領になっていただかなければ全羅道は発展しない」と言った。

孫基禎が聖火ランナーを務めた1988年のソウル五輪以降、日本人の韓国旅行も増えているけれど、どーしても北部のソウル市内のみが多いよね。
確かに、ソウル市内だけでも観る所は沢山あるし、焼肉を中心としてメシも美味い。
私も1993年に3泊4日、39,800円ホテル代込み!とゆー超☆格安旅行でソウルに行ったが、まったくもって楽しかった。都市を歩く面白さを目覚めさ せてくれた旅行であった。その後の私のパリやニューヨーク歩きまくり旅行の原型がここにあった。

この旅行の最中、強烈な出来事があった。
テクテクとソウルの大通りを歩いていたら、急に大きな音でサイレンが鳴り、それまで歩いていた人は居なくなり、大通りをクラクションと共に行き通っていた 全ての自動車が止まった。街全体が凍りついたようになったのだ。
なにも分らず、私はペタンと日陰に座っていた。
しばらくすると、再び大きなサイレン。そして凍った街は再び解凍され、なにごとも無かったかのように賑やかな風景に戻った。

後で知ったのだが、これは「空襲訓練」であったのだ。つまり、韓国と北朝鮮は和解したわけではなくて、現在も休戦状態であるだけで、朝鮮戦争は1950年 からづーっと続いているとゆーワケなのだ。
今ではめったに無くなったそーだが、そんな貴重な「空襲訓練」を体験できたとゆーワケ。

■私が韓国に大きな関心を寄せたのは、1980年5月18〜27日の「光州事件」からだった・かも。
それは、韓国全国に戒厳令がひかれ、金大中が拘束され、全羅道の光州市で大規模のデモが繰り広げられ、結局、戒厳令軍が武力で市民を殺しまくり、鎮圧。
当時、札幌で無職のゴク潰し生活をしていた私は、光州事件の抗議デモ集会やデモ行進に参加していた。ビルの隙間からゴキブリのような鈍い光を放つ機動隊員 の清潔な制服や、交差点で必死に拍手してくれていた老人サラリーマンの真剣な表情など、私にはいくつかの記憶が残っている。

■当時の韓国は、1961年5月16日に起きた朴正煕少将らによる軍事クーデター以降続いていた軍事政権であった。
軍事政権!
日本の左翼にとっては、
韓国=軍事政権=悪
北朝鮮=社会主義=善
とゆー単純な図式があった・と思う。否定させないゼ、これ。


金大中は1998年に韓国の大統領に就任した。
まったくかつては犯罪者であって牢獄に入っていた男が大統領になるなんて、南アフリカ並みじゃんか!

■その翌年、1999年6月2〜5日、私は二度目の韓国旅行に行った。
1993年の旅行の時にはあった国立中央博物館が無くなっていた。
かなり巨大な建物であっただけに、なんだか不思議な気分だった。
実はこの博物館は、日帝時代に朝鮮総督府(←そう。孫基禎の「日の丸」塗りつぶしを弾圧したオヤクショだ。)として建造されたもの。韓国人にとっては忌わ しい建造物であったのだ。
私が1993年6月15日に訪れた前日の14日に、ここを撤去解体することが決まっていたのだ。

そして、この1999年の2回目の韓国旅行の目的は、韓国南部への旅であった。
本来は光州市があり、詩人キムジハの故郷である全羅道に行きたかったが、「治安が悪い」と言う旅行会社の意見で否定された。
が、1980年代初期の演歌のヒット曲、チョー・ヨンピル「釜山港へ帰れ」のおかげで、光州のある全羅道には行けなかったが、釜山のある慶尚道には行け た。

本当は、光州と釜山のほぼ中間点にある居昌にも行ってみたかったのだが。
居昌では、朝鮮戦争勃発の翌年の1951年2月に「居昌事件」が起きているところだ。
ここに、北朝鮮の人民軍が立てこもってゲリラ化したのだ。その結果、居昌付近の村々は、昼は韓国、夜は北朝鮮の支配下に服するとゆー異常な状況になってい た。
で、その後人民軍が敗走した後に、韓国軍がこの「赤化村」を焼き払い、600人の村人を殺しまくったのだ。
関川夏央は「韓国におけるソンミ事件」と書いている。その経緯は、金源一の長編小説『冬の谷間』につぶさにえがかれているらしい。私は未読だが。

さて、1999年の韓国は国力がドン底の時期で、日本円が使えて、しかも何でも安いとゆー状態。
ソウルから釜山に飛行機で移動し、翌朝、釜山の市場で捕れたての魚を韓国焼酎で喰った。美味い。釜山タワーは観光地で、抗日の象徴の像が建っていた。そこ で記念写真を撮った。へんてこなニホンジン。

釜山から北に少し行くと、慶州。ここは日本の奈良と姉妹都市というだけあって、歴史の宝庫。 数多い遺跡と国宝を保有し「壁のない博物館」と言われている。
主な見所だけでも、
国立博物館/古墳公園/瞻星台/雁鴨池/五陵/石氷庫/芬皇寺址/武烈王陵/鮑石亭/仏国寺/石窟庵/文武大王陵
などなど。特に巨大仏像の石窟庵は、円谷プロの怪獣並みのデカサ。

ちなみにこの慶州のすぐ西なある大邱は、「2002FIFAワ−ルドカップ」開催都市だった韓半島の東南部にある人口約250万人の巨大都市。

慶州からソウルへは、セマウル号という列車で4時間。列車の旅はいいねぇ。食堂車でビールをゴクリ。

■思い出話はそんなとこにして、
今日の朝日新聞には、ここの慶尚南道にあったとされた前方後円墳が実は違って、重なり合った3基の円墳であったことの報告も掲載されていた。
もし前方後円墳であったとしたら、日本固有のスタイルであったソレすらもが源流が朝鮮にあったという説になるところだった・らしい。
でも、この3基の円墳には5〜6世紀に作られたところから、日本の土器や、日本固有の習慣である埴輪のような並べ方も多数出土されたそーだ。
つまり、古代から日朝交流は相互に行われていたことには変わりは無いとゆー報告。


■今日の日本経済新聞の文化欄は編集委員の浦田寛治による「韓国文学、日本に接近」だ。
その中で、彼は「1998年に金大中が大統領に就任すると、作家の関心は政治から離れ、個人の内面や生き方に向かう」と分析している。
そこで、村上春樹やよしもとばなななど、多くの日本人作家が読まれ、韓国人作家も私小説に向かっている・らしい。

日本が韓国に教える時代になっているのか、もはや?


■今日と明日、つまり11月16〜17日の土日に、千葉県幕張メッセで『朝鮮通信使』を記念したイヴェントがある。
朝鮮通信使とは江戸時代の1811年まで約200年間続いた朝鮮からの毎年の訪日行事である。鎖国されていた当時、この徳川将軍への使節団のみが日本に とっての唯一の世界への窓であった。
この使節団の特徴は学者やアーティストを中心に構成されていた・とゆー点。
歴史の教科書の常連(?)の新井白石も彼らと接触することで自己啓発をした。
そう。当時、日本は朝鮮から学んでいたのだ。
実際に当時の江戸では、町民の間に『朝鮮通信使』ブームが起こっていたらしくて、彼らが来日した時に江戸城までの音楽入りの優雅な行列は恒例の見物行事で あったらしい。料金を取る桟敷席まで路上に作られたソーダ。まるでYOSAKOIソーランみたいだにゃ。

現在の朝鮮&韓国の人も「日本人が発明したのはタクワンだけ。」と言うように、日本を蔑む意識は当時の教師的な立場から続いている・と想像できる。

そんな『朝鮮通信使』イヴェントが、このタイミングである偶然が面白い。

■曽我ひとみさんの家に『週刊金曜日』の担当者が翌日発売の掲載雑誌を持って訪問し、彼女が号泣したのと同じ14日木曜日、蓮池薫さんが立ちながら簡単な 記者会見をしていた。丁度、北朝鮮からの帰国一ヶ月のタイミングという意味の会見である。
「私たちの問題が一個人の問題ではなく、国家間の問題であるということを改めて感じた一ヶ月でした。」
ペーパーを見ずに、スラスラと、そのまま原稿に出来る言葉で語る彼。
「テレビで他の生存者の姿をみると、はげまされる思いです。私もがんばりたい。」
会見の最後にこう言った言葉は、他の帰国者へのメッセージであると思う。
このメッセージの意味は分らない。しかし、確実に何かの意味がある・と思う。

この会見の直後、KEDOの北朝鮮への重油ストップが決まった。

私の家の上に降る雪。
それと同じ雪が北朝鮮にも降っている・の・で・あろう。
曽我ひとみさんの夫と二人の娘が住む家にも降っているはずだ。

燃料が元々無い国だ。寒い国が、さらに寒くなってゆく。

■そして今。ポール・マッカートニーが日本に居る。
彼のメッセージは結局のところ、「♪I believe in yesterday.=過去にこそ信じるものがある。」なのね。
で、彼が故ジョン・レノンを歌った曲のタイトルが、「Here today」なのね。

トゥモローも大雪か?
トゥモロー・ネヴァー・ノウズ。
北朝鮮のストーブは燃えているか?
ノース・コレア・イズ・バーニング!?




ロック★『エイジア ン・ダブ・ファウンディション「Community Music」』 2002,11,8
最近、何度も・ここ「共犯☆日記」で話題になる2月に古本屋ザリガニヤで買っ た雑誌『BUZZ』(2000.3) 「特集;オアシスVSビートルズ」。この古雑誌をきっかけにして、ハッシュ・パピーズの靴を買ったり、ポール・ウェラー・ルネッサンスを自分の中で勝手に 起こしてみたり。

で、同じこの古雑誌の中に、エイジアン・ダブ・ファウンディションとゆーイギリスのアジア系のバンドのインタビューも掲載されていた。
あまりにも、このインタビューが私にとって興味深いので、10月22日に彼らのアルバム『Community Music』を中古CD屋で買った。中古価格1,550円。同時に買ったポール・ウェラーのソロ1ST『ポール・ウェラー』が・なんと!中古価格750 円。
つーことは、エイジアン・ダブ・ファウンディションはポール・ウェラーの倍以上の価値があるっーコト?少なくとも札幌市の中古市場では、そーらしー。

■『Community Music』を聴いた第一印象は、なんだか今流行りっぽい訛ったラップに、最新テクノロジー・サウンドのダブ。
ふにゃ〜。分るけど、オジサンにはカンケー無いサウンドねぇ。
と、思いつつ歌詞カードを読んで・びっくり。
「♪ブレアの顔したサッチャー」とか、
「♪ダウ・ジョーンズもウォール・ストリートも日経もウソをついた」とか、
「♪IMF、世界銀行、構造調整計画、関税と貿易に関する一般協定――つまりGATT、これらをはじめとする多くの組織や機構、プロジェクトが第三世界の 発展を隠れみのにして略奪をはたらく」

なんじゃ・コレは?
地下反逆組織のプロパガンダ本からの抜粋のようだが、ホントに、ポップ・ミュージックの歌詞なのさ。
で、お気軽な私は、これらの歌詞を脳味噌にインプットして、再び聴くと、
いいじゃーなぁ〜い、コレ。

この歌詞がかっこいいと音もかっこよく聴こえてくる・とゆーのは私の欠点でもあるが。

この間の11月2〜4日の連休を利用して東京へ、レッド・ホット・チリペッパーズを観に行った札幌のドラマーakiller氏に、「ねぇ、 『Community Music』の歌詞、どー思う?」とメールしたら「歌詞は知らないけれど、札幌のイヴェント、MIX2000で彼らのライブ観たよ。かっこよかったよ。」 とのこと。うひゃぁ〜、札幌に来てたんだぁ!どーりで札幌での中古価格も高額。
歌詞をどーの&こーのと言うよりも、実際にライブを体験した人には・かなわねぇーや。

それにしても歌詞が分れば、ボーカルの吐き捨てるような歌い方や、ギターのディストーションのタイミングなんかが、表現として肉体的にも理解できちゃう快 感。

でも、やっぱ私は古いニンゲン。結局、このバンドにハマらず、同時に買った半額のポール・ウェラー・マイ・ブームに突入してゆくワケなんだけど。

改めて『Community Music』のライナーノーツを読むと、雑誌『BUZZ』編集部の兵庫慎司が「要は、能動的にならないと何も変わらない。で、人を能動的にさせるには、ま ずは楽しくないと話にならない。」と書いている。
あー、なんだか20年前に自分がやっていたこと・みたいなぁー。

ほんでさ、今回このCDを買うきっかけになった古雑誌『BUZZ』(2000.3)のエイジアン・ダブ・ファウンディションの特集も、同じく兵庫慎司がイ ンタビュってやがる。
バンドのメンバーは5人なんだけど、インタビューには最年少21歳のボーカル、DEEDER(ディーダー)と、DJのPANDIT-G(パンディットG) の二人のみの参加。
でも、この二人で充分みたい。
パンディットGは、このバンド参加以前はCAPA(警察を監視し、人種差別を糾弾する団体)で働いていたバンドの思想を表明するスポークスマン。インタ ビューや記者会見には必ず彼が参加して、その場を「エイジアン政見放送」と化するらしい。面白しれぇーや。

で、このエイジアン・ダブ・ファウンディションがさらにユニークなのは、1993年に結成した当初から、サウス・ロンドンの音楽教育ワークショップ” COMUNITY Music”が母体になっている点。リーダーでありベース担当のDr.DASは”COMUNITY Music”の講師なのよ。

つまり、バンドであると同時に、いやむしろ・それ以前に、教育団体なのだ!

その教育が音楽と同時にパンディットGから発せられる思想教育でもあるのだよん。

で、今回のインタビューは、その最も若い21歳と、思想リーダーが同席。
兵庫慎司も冒頭に書くように、「この二人、ほんとに先生と生徒みたいな間柄だった。」

インタビューの間にパンディットGが難しいことを言うと、すかさずディーダーがインタビュアーを無視してパンディットGに質問を浴びせる(笑)。時には、 場所もわきまえず、二人で議論を始めたり(笑)。
微笑ましい以前に、なんだか・うらやましいね。

このインタビューで、私が一番目を引いたのはこの瞬間だ。

兵庫慎司「じゃ、そういうニヒリスティックな状況の中で、あなた達みたいなポジティヴで、プログレッシッヴなマインドでいられるっていうのは――。
ディーダ「ごめん、”ニヒリスティック”って?」
パンディットG「闘うべきものが何もないと思い込んでいる状態のことだよ」

あははは。パンディットGの都合のいい言葉の解釈には『悪魔の辞典』っぽい痛快さがある。

でも、「私が一番目を引いた」理由は、これまた私が今年買った古雑誌『ノーサイド』(1995.11)のビートルズ来日特集の浅井慎平の思い出を読んでい たからだ。

浅井慎平は1966年のビートルズ来日時に、唯一の専属記録カメラマンとして、ビートルズと同じ東京ヒルトンホテルの10階のフロアにディレクターの鶴本 正三とライターの草森紳一と三人でいた。
彼は「普通のファンだったら、卒倒しそうだけど、ポールなんかは僕にタバコくれたりしたし、別に機嫌が悪かったわけじゃない。」と回想している。

で、私にとって最も面白いエピソードがコレ。

・面白かったのは、草森さんがジョージ・ハリスンに「君はニヒルと言われているけどどうなんだ」と聞いたら「ニヒリズムって何だ」と。そしたらジョンがニ ヒリズムについて滔々と説明をしてね。それをさんざん聞いた後「じゃあ俺はニヒルじゃない」なんて言ったり。

■ほらね。エイジアン・ダブ・ファウンディションの二人とモロ、同じじゃん。
ジョン・レノンはニヒリズムを何て説明したんだろーか?銀河のニヒリストの私には興味のあるところ。
まさか、パンディットGと同じように「闘うべきものが何もないと思い込んでいる状態のことだよ」とはジョージに説明はしていないだろーけど。
この時期のジョンは「ノーウエア・マン」と「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を作曲する間の時期。ニーチェを読んでいたとしたら・・・・・・。そう想像する 楽しみの余裕が浅井慎平の思い出から得られたヨロコビ。


■ロックと教育。
これらは相反するもの・と、エレキ禁止令の忌まわしい歴史を持つ日本国には浸透しているイメージ。
でも、裸のラリーズの昆野氏は、滝川西高校などで国語の教師をしているし。

ジョージ・ハリスンはジョンとポールの学校を卒業してから、エリック・クラプトンやジェシ・ディヴィスたちと共同学習を始めた・と、考えては・どーかな。

こうしてロックを考える私たちを、みうらじゅんは、矢沢永吉や横浜銀蝿の「ヤンキー・ロック」に対して「おたく・ロック」と自嘲する。

でも、楽しいじゃんか。


■でも、40歳を超えて、私たちは誰に学べばいいんだろう?
現代美術ペーパー『elan』の浦澤さんとのメールをドラマーakiller氏とミックスでしていたら、「次の世代にバトンタッチする作業」の話題になっ て、「でも、むしろバトン・タッチされる側なんだけど」とakiller氏は・つぶやく。


■今朝、午前7時50分に本州の取引先の社長から電話。出張先のホテルからわざわざかけてくれたらしい雰囲気。
が、内容は昨夜提示した見積りを断るハナシ。

う〜む。今年のコメ相場は厳しいなぁ。

でも、この社長に私は会ったことが無い。
コメ業界とは不思議なトコで、一度に数百万円が動く商売なのに、契約書も無く、商品がほとんど現金で右から左へ動く。
しかも、今回のように一度も会ったことが無い人を信用しての商売だ。
ある意味、無防備?

でも、私のようなコメ業界12年の若輩者でも、電話の雰囲気で信用できるか・どーかは、ほぼ分る。
もっとも、怪しければ、結果的に良い商談でも、最初ッからハナシを進めないんだけど。

この社長も・おそらく70歳は超えているんじゃないだろーか。
会ったことも無いので、もしかしたら20歳台かもしれないが。
話し振りで、そう感じる。

確かに、今朝の商談は決裂したが、彼の人間性の感じる悩んだ末の断りの内容だった。

■私のように人生の半ばを超えると、こうした・ささやかな教育にもヨロコビを感じる。

この商談不成立からスタートした今日は、なかなか重い気持ちで社員に会うことになる。
午前8時になれば社員が出勤。
明日からの土日、また商社が仕事を休み、相場は棚上げになる。
今日の金曜日をどう過ごすか=何をアクションするか・は重要なのだ。

■午前9時。電話をとると、再び老人の声。
あ、今朝の本州の社長か?商談、再開か?
と、思ったら「細川です。」。
近所に住む老人だ。なんだろう、灯油の注文か?
「吉田さんが死んだ。」え?


■同じ沼田町に住む吉田政次郎氏が死んだ。85歳。
かつて沼田町に中央資本の大手炭鉱が3社もあり、人口が数万人を誇っていた時代、炭鉱で労働運動をしている中で、俳句に目覚めた男。
相次ぐ炭鉱の閉山により、沼田町市街へ出てきて自分で商売を始めた男。
戦争中は、小隊の隊長として中国大陸で毛沢東を追いまわした男。
小学生が彼の顔を見て、「人殺しの顔だ」と言ったことを、戦争中の経験とダブらせて「隠せない」と私に告白した男。

私はそんな男に、無理やり俳句をすすめられ、『氷原帯』俳句会に入らされた。1996年だ。

午前9時に電話をくれた細川氏も同じ俳句会の80歳台の老人。
だいたいにして、私以外の町内のメンバーは80歳以上なのだ。

彼らの俳句は、私に言わせれば・ものたりない。
たとえば、最新号の『氷原帯』11月号から。

・人生とは泣いて笑って紙芝居  細川豊泉
・庭の石三世代コケの伸を見せ  吉田花車

豊泉と花車は、それぞれ彼らの俳号で、二人の名を取って、我々の『氷原帯』沼田支社は、「花泉会」と名付けていた。
労働組合上がりの吉田氏は、さすがに組織作りが上手で、毎月第一土曜日の句会を彼一人の努力で成立させていた。
インテリ老人の細川氏の役割は、句会での講評だった。

細川氏は吉田氏の死を告げた電話で「もう、花泉会は解散しよう。吉田さんがいないと、老人ばかりで無理だ。」と言った。まったく同感であった。

とりあえず、数珠をポケットに入れて吉田氏の自宅に行くと、近所の人たちが葬式の日取りを打ち合わせていた。
遺体の前で数珠をかけた手を合わせる。
とにかく、なにか俳句を。
と、思い、自作の「崩れ落つ 言葉の瓦礫 菊も末」を脳味噌でつぶやく。
これは、NY911のワールド・トレード・センターの崩壊の時に散らばった世界中の言葉で書かれた無数の書類と、旧約聖書でバベルの塔が崩壊して神が人類 の統一の言葉を失わせて争いの原因を生んだことを、季語の「菊も末」に日本の天皇制のイメージをかぶらせて作った句であった。
しかし、85歳にしては170cm、100kgを超える巨体の吉田氏が、俳句という言葉をかかえたまま菊の花に囲まれて死んでゆく。なんて不思議で、なん て悲しいコジツケ。

「きれいな顔をしているよ。」と、近所のオバサンが言う。
顔に乗せていた白いレースのハンカチをそっとよけると、生前の巨漢のイメージから程遠い痩せた老人の顔。

帰り際に、未亡人となってしまった車椅子の老婆に、「おばさん、さみしくなったね。でも、おじさんの分もがんばって長生きしてね。」と言うと、声をあげて 泣き出した。


その足で近所の細川氏の家に行く。
年長者であり、難聴者である彼は耳が遠くて、なかなか玄関で呼んでも出て来ない。
ちょうど帰宅した奥様と一緒に室内へ入ると、電話の前でウロウロ。
『氷原帯』の主宰の鈴木光彦氏に電話をしようとしていたところだった。
私が替わりにしてみる。鈴木主宰と言えば、とりあえず北海道俳句界の第一人者だ。

「もしもし。」
「え、あ?」
「鈴木さんですか。」商売柄、電話の最初に反応が鈍いと、少しイラ付く私であった。
「沼田町の久保元宏です。」
「は?」分るわきゃない。私は彼らにとっては、無名の一会員同人にすぎないのだから。
「いつも、俳句の批評でお世話になっています。」と、分りやすく言う。
「あ。あー、あー。」お前は大平ソーリか?
「吉田政次郎さんが死にました。」もー面倒くさい、用件を言っちゃえ。
「よ・よー」お前はラッパーか?
「吉田、あ、俳号は吉田花車さんです。死にました。」そーだよな、このギョーカイでは、花車だ。
「えっ!?花車さんが?」よーやく伝えられた・らしい。
「ええ。昨夜の午後9時です。ほとんど、突然です。今月の3日の文化の日にも作品を集めていましたから。」


電話を切ると、細川氏が、吉田氏の娘さんが『氷原帯』花泉会の会計として1万6千円ほど郵便貯金に残高があるので処分して欲しいと言っている、と言う。
「じゃぁ、それ、全額、吉田さんの香典にしましょう。どーせ花泉会も解散するんですし。」

で、もう一度、細川氏と二人で吉田家へ。
細川氏が私のように数珠を持っていかないのを、年寄りのくせに、忘れているのかなぁ・と、思っていたら、彼は遺体の前で両手をがっちり組んで額に合わせ て、何かをつぶやいていた。
あ、そうか。細川氏はクリスチャンだったっけ。まさか、細川ガラシャの末裔?

お祈りの後、細川氏は吉田氏の娘から『氷原帯』花泉会の会計が記録してある貯金通帳と印鑑を借りた。それは遺体の前では少々不自然な行為にも見えたが、な んでも、新聞に死亡記事が載っちまうと、個人名の財産は抑えられ、解約するにも相続税が取られるらしいのだ。

近くの郵便局の窓口で解約の手続き。
通帳には、16,219円の記録。
「これに利子が付きます。」という郵便局員。
で、戻った金が16,220円。すばらしい低金利政策!

とりあえず、この全額を明日の通夜に私が香典として持ってゆくことにして細川氏と別れた。

■会社で、相変わらずの金曜日の営業電話作戦と見積り作りをしていると、電話。
「くぼ・もとひろ・さん?ですか?」『氷原帯』の主宰の鈴木光彦氏だ。
「あ、はい。」
「明日の通夜に札幌から行こうと思うのですが、帰りの電車ってありますか?」
「ああ。深川まで出れば、15〜30分置きに夜中までありますよ。」
「そうですか。それと、通夜に花を出したいのですが、手配をしておいていただけませんか?」
「分りました。」
「『氷原帯』俳句会一同、と書いてもらって下さい。」


知人の花屋に行き、さっそく頼む。
菊の花が店頭にあり、その匂いにむせぶ。

花屋から帰社する途中、何かを考えていた私は赤信号を無視していて、左から入ってきた自動車に気がつき、急ブレーキを踏む。
かなり大きな音がした。それでも、田舎街はメイン・ストリートでも、誰も歩いていない。おかげで恥をかかずに済んだ。


■帰社すれば、また老人から電話。
「あー、電話、変わりました。」
あ、今度は早朝に商談が決裂した本州の老社長からだ。

早朝の電話では決裂した商談も数時間後に再び、電話がかかってきてお互いの利益を同額歩み寄って、商談成立。
この間の会話=商談には、年長者ならではの優しい知恵を感じた。


■こうして、いつの間にか、私は少しづつ知らないうちに年長者から「教育」を享受しているのかもしれない。

誰か、私にニヒリズムの意味を教えてくれないか?





小説★『野中柊「フランクザッパ・ ストリート」』 2002,11,6
いよいよ、雪のシーズン。
米屋であり、ガス屋でもあり、実は石油屋でもある私にとって、灯油やA重油の単価契約のシーズンでもある。

今日も午前11時から、某所にて今シーズンのA重油の単価契約。
無事終了後、そこの事務員が「久保さん、俳句もやっているんですね。」と話題を変える。
11月3日「文化の日」にぶつけての沼田町民文化祭に私の俳句を出したのを見てくれたそう。
と・言っても、今回ばかりは私もヤな感じ。
だって、私の作品が無断で修正されて展示されていたからだ。

私の俳句は、いつも文字はワープロ、で、短冊に写真などをコラージュ。
今回の2句は、
・崩れ落つ 言葉の瓦礫 菊も末
の文字を仏ノシに印刷して、その下方にNY911のワールド・トレード・センターが燃えている新聞のカラー写真をコラージュした。

・名月や 架空の国が 謝罪する
は、文字の隙間から北朝鮮の金正日が覗いている下に、今回帰国した5人の拉致被害者の写真。

いつもは私の原稿通りに展示されるのに、今回は無断で、どなたかの筆文字による短冊に摩り替わっていた。・・・・・・別に文句は言わないけどね。いいんか い?こんなんで?
金正日の写真が問題の原因であったのであれば、なぁんだかなぁー・だ。

しかも。その筆、間違って写しているんだよなぁー。情けない。
「名月」が「夕月」になっている。”口”を塞がれたって、このこと(笑)?
・夕月や 架空の国が 謝罪する
う〜む。もー、無言。

確かに私の俳句は雑俳だけどねぇ。

で、先ほどの事務員が「久保さん、俳句もやっているんですね。」と聞いたので、「あ・まぁ。」。
すると事務長が、無言でサラサラと何かを書いて、私に手渡す。

・ポチと行く いつもの小径 虫しぐれ

ううう。
なんでも、お母様が俳人だそーで、「虫の声」としたところ、「虫しぐれ」と添削してくれたそうである。なるほど。
「虫しぐれ」=「虫時雨」。突然の雨か。濡れたんかい?


■帰社してインターネットをチラ見すれば、HP『書評道場』に私の書評が新しくUPされてい る。

『山口昌男山脈 No.1』山口昌男、窪島誠一郎、大江健三郎、榎本了壱、他(めいけい出版)
  文化人類学者の山口昌男は、死後にフロイトや柳田國男のように全集が出版されてから初めて全貌が少し見えてきて、ようやくそこから「山口学」のような彼の 知の体系化を基礎とした研究が始まる巨人だ。彼は本を一冊出版するごとに、今まで茫洋としていた世界を驚くべき行動力と鮮やかな感性で「体系化」し続けて きた。しかし、未だ生き続け、日々、新しい著作と同時に新しい「体系」を展開してゆく彼自身の「体系」はフラクタルに拡張する一方で把握が不可能だ。
 だからって死んで欲しいワケじゃあないぞ。生きている。そう、彼と同時に生きているスリリングを楽しもうじゃあないか!だから、雑誌だ。年平均4回の発 行で個人雑誌がスタートした。
 創刊号は彼が実行委員長になって北海道各地で同時多発的に開催された『寺山修司展』をめぐる対談を中心に、学生時代の論文や、未発表の「アフリカ通 信」、韓国でのスケッチなどなど。
 発行部数は約2千部だという。少ないんじゃないの?売り切れる前に買え!
(久保元宏 40歳 自営業)

 相変わらず軽妙で優れた構成力をお持ちだと思います。
 しかし難を言うならば、冒頭部分が多少“茫洋と”しているかなと。
 長文名人の久保さんですから、やはりこれも2000字以上の、例えば新聞紙上での書評であれば、素晴らしい出来になったのではないかと想像されます。そ れだけの字数があれば、冒頭部分の次に、恐らく山口昌男氏についての鋭い各論が続いたのではないかと、惜しい気持ちで一杯になります。
 400字書評にはやはり限界というものがあって、あまり自在に暴れ回ることはできません。短い字数ですからどうしても制約が出てきてしまいます。
 本の中身を具体的に説明するとなると、残った行数ではせいぜいワンポイントに絞った暴れ方、遊び方しかできないでしょう。
 本を読んだ後の喜怒哀楽とか、皮肉とか諧謔とか大いなる共感とか、いずれにせよ書評家としては何かひとつのことしか個性を発揮できないと思います。通常 の場合。
 ですから、400字書評というのは、簡単なようで実に難しい。本のただの要約だけでは書評する側としての意地が示せないし、かといって個性を出し過ぎる と書評という軌道からポーンと飛び出していってしまいます。
 しかし久保さんは、本当に長文での書評の名人かも知れないなあ。
 う〜ん、技あり4点としておきましょうか。

■道場主、スルドイ指摘。
実は私、例の長文(スギル)10月20日の「共犯★日記」を1週間かけて、拒食症に3食分なり(笑)、それから推敲の日々だったのよ。文字制限が長文家の 私にはツライのよ。
うむむむ。よしっ!
と、今日、一気に新作の書評を書き上げた。もちろん、10月20日の「共犯★日記」を300文字に縮めたのだ!それダケで神ワザ?


『退屈な迷宮 「北朝鮮」とは何だったのか』 関川夏央(新潮社)
 なにかと北朝鮮である。24年間も覚えられなかったのに、たった一ヶ月で日本人のほとんどが「拉致」という漢字が読めるようになっちゃった。誠に日本人 は集団で変化してくれて、分りやすい。まったく、どっちがマスゲームをやってんだ?っーぐらいである。
 で、変わっちまった「欲望」のマスゲームを映し出す、変われなかった「絶望」のマスゲームが北朝鮮だ。個性的な存在は優秀な「鏡」になりうる。「絶望」 どころか60年代まで一部の日本人にとって北朝鮮は「希望」の国だった。「私も、よど号犯人になっていたかもしれない」と告白しつつ、北朝鮮建国以来はじ めて日本人が書いた1987年の「普通の旅行報告」から、1992年8月の中韓国交回復による北朝鮮の一層の孤立までが書かれている。この本の後、著者は NK(ノース・コリア)会を作り、地道な集団研究の共著を出版し続けている。この徹底的に時系列に考察する方法が、同時に日本人論になってしまうんだか ら、やっぱり北朝鮮は「近い国」なのだ。

■ううう。3点?
今回の道場主様による「書評家としては何かひとつのことしか個性を発揮できないと思います。」というご指摘は、ひじょ〜に☆正しい。私は欲張り過ぎており ました。誰も私の文章を読みたいのではなくて、書評される本が読みたいか・読みたくないかがチェケラッチョできればいいダケのことなんスねぇ。全くだ。
■でも、そー言っていただけると、楽チンになりました。なんだか、書評が大量生産できそーです。あははははは。なんてね。
重要なのはむしろ、「ダイジェストする能力」。そのダイジェストのフィルターの印象を、一言書けばいいのでやんすね!
■でも、さすが道場主、先のお言葉の後に「通常の場合。」と一言加えている。
これって、厳しくも&お優しい「挑戦」の一言と受け取った私って、いかした(=いかれた)うぬぼれ屋さん?
通常ではない書き方って、はたして私ごときに出来るのか?
■これとゆーのも、20年ほど前から、新聞の書評欄が「署名入り」になった頃からの私の嗜好(=思考・志向・試行?)の変化ですね。だんだん、書名よりも 署名で読むようになってしまった!

■ああ。だから・ごめんね。
この無駄な私の「冒頭部分が多少“茫洋と”している」書評、今回限りで次回からは悔い改めます。(できっかなぁー?)

■なんせ、10月20日からズーッと「推敲」の日々でした。
我がホームページ内「共犯☆日記」10月20日の長いことよ。
それを、文字制限の中に収めるパターンを十数編、書いた&書いた。合わせると「日記」より長くなったよん。
途中で、少々、自家中毒気味の文章になってしまい、何度もデリートしまくりました。
よーやく、そのイヤラシサのニオイも薄まったので、今日、貴殿へ送信ボタンを押そうと決意いたしました。

次回からは、さくさくと書けそうです。アドバイス、ありがとー!

んじゃ、次は小説とやらの書評を書いて、また撃沈すっかぁ!?
「北朝鮮観」にすら苦しんだ私に、「人生観」なんてあるのかいな?


■さて。私が「次は小説とやらの書評」とやらにこだわったのには、道場主が今日書いていた下記の文章が頭に残っていたからだ。


<道場主・夏野清三郎 拝>
小説というのはどうしても心理描写がメインになってきますから、かなり高度な知識や技、感覚等を持っていないと、それらを解剖して論評することが非常に難 しいからです。
 前々回の道場で、もくりんさんから村上春樹さんの作品に対する書評の書き方をアドバイスして欲しいと言われ、それは残念ながら僕の能力では対処できませ んと書きましたが、今現在道場を預かっている僕であっても、書評を書く上でかなり難しい種類の小説があることは事実です。

 小説のストーリーやその中心の眼目を具体的に書いた上で、その先に待っているのは著者の作品世界に拮抗する評者の鋭い視点です。人生観といってもいいで しょう。
 言わば書評家としてその人生観が試されているわけですから、これは難しいに決まっています。どうしても点数が辛くなりがちです。


■ほんじゃ、と、私は先日買っていた小説を手にした。

野中柊『フランクザッパ・ストリート』(光文社)

雑俳を日々垂れ流す私は、ザッパも好きだ。
アメリカ生れのクレイジーなロック・ミュージシャン、フランク・ザッパは生涯に60枚ほどのアルバムを出した不世出の奇蹟の存在。ジャズ・ミュージシャン であれば60枚は驚きに値しないであろうが、ロックの・しかもアヴァンギャルドのミュージシャンである。ふつーは、商売にならないのよん。

ザッパが死んだ1993年12月4日、私は俳句を作った。
・レノン忌に ザッパ忌重ね 遺句(行く)師走
相変わらずの、雑俳だ。

ザッパの死の直後、雑誌『レコード・コレクターズ』1994年3月号が、彼の全レコードを聞き直すとゆー便利な特集をした。
音楽評論家の中村とうようは、この特集の中で彼にしては珍しく思い入れのある文章を寄稿している。

「ロックという音楽は体制に順応して安楽に生きることをいさぎよしとしない純粋な若者の抵抗精神を表現するメディアだ――と、われわれが初めて出会った 60年代には言われていた。そのロック精神の原点ともいうべき姿勢を、少しもゆらぐことなく堅持し続けたミュージシャンは、ぼくの知る限りザッパ以外にひ とりもいない。そういう意味では、”最高の”というより”唯一の”と言ってしまうほうが正しいかもしれない。」

この5月には、「詩と批評」の雑誌『ユリイカ』も増頁特集「フランク・ザッパ 越境するロック」を組んだ。とても意味のあるタイミングであった・と、私は 思う。

だいたい、あの朝日新聞「文芸時評」で高橋源一郎がその月に発表された全ての小説を無視して自伝『ザ・リアル・フランク・ザッパ・ブック』1冊のみを取り 上げた時から、ある地殻変動は起こっていたんだよなぁ〜。きっと。


でも正直。そんなにザッパは聴かれていない・と思う。
アルバムごとにスタイルを変えるし、英語とアメリカ政治に疎いと分りにくいユーモアが多いのだし。


で、そんな時に、それほど大きくない本屋さんで野中柊『フランクザッパ・ストリート』(光文社)を見つけたときは、「おお!」と思った。1998年のこと だ。
が、ページをめくって、水前寺清子のギャグがあって、買う気は失せた。
今月の2日、札幌琴似の古本屋で300円(定価は1400円+税)であったのよん。

その日に琴似の陶芸家、水林さんからいただいた「ひとり熱燗」で酒を飲む。
これは、ロウソクで一人分だけのアツカンを作る、なんだかマニアックな瀬戸物。

ホントにローソクだけで、沸くんかいな?
と、思いつつ本を読み進める。時間はかなりかかるが、それなりになるよ。あー、スルメが欲しい!

で、本。
う〜ん。全てのページに、女の子向けのイラスト。登場人物も、ウサギやキリン。メ・メルヘン!?
フランクザッパ・ストリートという架空の町に住む個性的な動物たちの御伽噺。
でも、ゲイの鶴(ジョン・ガラっー名前も、オヤジ的だけどね。)や、お酒の話題もあるので、やっぱオトナの本?

それにしても、ちょい幼稚で安易なキャラが多いけど、多彩なキャラたち!
これ、いわゆる「長屋モノ」だね。愉快で個性的な地域の住人のココロアタタマル交流のお話。
キリンとシマウマの新婚、ダイナーのマスターの種馬、アイスクリーム屋のペンギン、バーのマダムのウサギ、古本屋のパンダ、ついでにニンゲン も・・・・・・。
彼らが出たり入ったりしつつ、いつのまにかバラバラの登場人物が有機的に結びついてゆく。まるで、そう、パーティ。
そこに、映画やファッションや音楽、さらに料理の話題が加わるのが今日的か!

でも、若い女の子は「水前寺清子」や榊原郁恵の「♪アイ・スクリーム、ユー・スクリーム」なんてシラネぇーし、知ってる私たち世代はシラケルよなぁ。
読者ターゲットが・あいまい。この手の本は、もちっと読者層マーケティングが必要なんじゃないのかな?

フランク・ザッパほどの前衛感や「純粋な若者の抵抗精神」は無いよ。
これじゃ、『ロッド・スチュワート・ストリート』でも、『フレディ・マーキュリー・アヴェニュー』でもよかったんじゃあないの?
それでも、作中でかのカルト映画『ピンク・フラミンゴ』にこだわるように、モノによって自己武装しようとする作者の方法論は、どこかバッタモノの村上春 樹っぽくて憎めない(?)。

でも、私、「長屋モノ」好きだよん。
手塚治虫『来るべき世界』の幻の長屋シーン、全部読みたいなぁ。


■今日、私の飲み仲間、若林さんが横浜へ帰省。
陶芸館の寺沢嬢と小林嬢も、今日、旭川空港から名古屋へ戻った。この二人の女性とは、もう一生会えないかもしれない。もっと、パーティ、したかったね。
私がA重油の単価を決めて、事務長の俳句のメモを持って帰社した時に、たまたま3人揃って、我が社に来ていた。
「単価を決めに行ったら、短歌じゃなくて俳句を決められちゃった。」とゆーギャグをかまそうかと思っていたら、お別れの言葉だけで出発の時間はスグにき た。

つい2日前には彼らの送別会と言いつつ、ハシゴして芸術論を戦わせたっけ。
お題は「インスタレーションとクロッキーの肉体的快楽は、芸術家長寿時代に組織化できるか?」とゆー感じだったかな?
つまり、即興(演奏も絵画、陶芸作りも)には、作者の肉体的快感=カタルシスがモチベーションの一つとしてあるのではないか?という論議から、しかし、グ レン・グールドたちはスタジオに籠もった。その意志の可能性とは?とゆー議論でした。→なんせ、遅くまで飲んだもんで。

色んな人がいる。その楽しさ。人生はパーティ?
少し淋しくなった夜に、アツカンの空酒を飲みながら読んだせいか、にぎやかな「長屋モノ」がいとおしくなった・のかな。
この程度の「人生観」で、文学という「人生」を書評に組織化できるんかいな?



-△-
てへぺろ。 ロック★『ポール・ウェラー「ヒー リオセントリック」』 2002,11,4 ちらちら。
昨夜、NHK-BSで、フランス料理人の三國清三が20歳台のときに修行したフランス・リ オンの三ツ星レストラン「アラン・シャペル」に再訪するという”青春プレイバック”国際版みたいな番組がやっていた。

三國は1954年8月10日に北海道・増毛町で生れた。私の住む沼田町から自動車で50分ほどの漁師町だ。

彼は1985年には、東京・四谷に「オテル・ド・ミクニ」を開店している。若干31歳だ!

そんな彼が30歳台を振り、「30代は”勝ちに行く”料理を作っていた」と何度も語っていたのが印象的だった。
確かに、テレビで見る厨房の彼は、テレビカメラの前の過剰なパフォーマンスではないのかと思わせるほど、怒りながら料理を作っていた。そうか。怒っていた のではなくて、闘っていた・のか。


■今日も雪。雪道を、夏タイヤのローリーで、よろよろと灯油の配達に行く。
3件目に行ったのは独居老人。90リッターの灯油タンクに70リッターほど納品。
「いやぁー、おばさん元気ですねぇー」
「わしも、もう90に近い80代じゃから」
元気な年寄りは、自分の高齢が自慢な方が多い。
確かにこの老婦人も70歳代にしか見えないほど、お元気だ。
でもね、70歳台と80歳台の区別なんか私にはできない。
「来年、沼田町にも、いい老人ホームができるっちゅーから、わしもそこへ入れてもらいたいよ」
老人ホームに入るのが夢の人生って、どんなんだろう・か。


■帰社して、大きな長靴を脱いで、コーヒーを淹れる。
昨日聴いていたCD5枚チェンジャーには、ポール・ウェラーのソロが5枚、発表順に入っている。それを、シャッフルに設定してランダムに聴く。

雪が降ると日中は、窓の外が明るくなる。雪が光を反射するからだ。

ポール・ウェラーも、私には、まぶしかった。

セックス・ピストルズの唯一のオリジナル・アルバム『Never Mind The Bollocks/勝手にしやがれ!!』が発表されたのは1977年10月。
この時期を短かったロンドン・パンクの頂点とすれば、1962年生れの私は正にパンク世代だ。

が、ビートルズ世代にしても、当時、本当にビートルズを聴いていたのがクラスに1〜2人であったのと同様に、日本にパンク世代なんて無いに等しい。

だいたい、当時の私(たち)は、レッド・ツェッペリンやジェフ・ベックなどのパンクに先行するブリティッシュ・ロックを理解することもまだ途中であったの に、いきなり、それらを否定するものを提示されても戸惑うばかりであった。
だって、パンクスは「ミック・ジャガーなんて太った白ブタだ」と言い、それまでの全てのロックをオールド・ウェイブというゴミ箱に入れたんだもの。

それでも、セックス・ピストルズがイギリス国歌と同じタイトルの「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」を発表し、シングル・ジャケットにはエリザベス 女王の肖像画をコラージュし、曲のキメの歌詞が「No future(未来は無い)」であったのなんかには、理解する以前に好きになってしまった。

これは、日本では「君が代」のタイトルで、ヒロヒト天皇をジャケットに「お前に未来は無い」と歌うこと。うむむむむむ。

セックス・ピストルズは、そんなスゲーことを、過激とゆーよりは、ポップにやり抜いた点にあると思う。いまだに、彼らのファッション・コーディネイターの ビビアン・ウエストウッドは、パリコレの超人気ブランドであるのも、そんなしたたかなポップさを証明している・と思う。

で、当時のパンク御三家が、セックス・ピストルズ、クラッシュ、ザ・ジャム。

クラッシュも好きだったねぇー!来日コンサートにも行ったよ〜。「ジョー!!!」と私も叫んだよ。
パンクスはアルバム『ロンドン・コーリング』以降のクラッシュはパンクではなくなったと言うけど、私のクラッシュのアルバム・コレクションは『ロンドン・ コーリング』以降。特に好きなのは『サンディニスタ!』。来日直後に出た『コンバット・ロック』には、ニューヨークのビート詩人アレン・ギンズバーグも参 加していたっけねぇー。

が、クラッシュはその後、ドラムのトッパーが抜け、ギターのミック・ジョーンズが、でかいラジカセを持ってアポロ・キャップをかぶってしまった。

ぽつんと残ったジョー・ストラマー。だんだん、歯が抜ける。

で、もうその頃にはパンクは「思い出のメロディー」になってしまっていて、結局、パンクはセックス・ピストルズだけだった!と回顧するのがかっこいい風潮 になっていた。

パンク・ムーブメントの功罪はあるだろーけど、ジミー・ペイジやジェフ・ベックのギターをコピーすることがロックである・とユガンダ観念の呪縛にとらわれ ていた日本人に、「ぼくちんでも、できるかもしれない」と、気軽にバンドや作曲をさせた功績は重要だ。
実際、パンク以降、日本には非ミュージシャン系のすぐれたバンドが沢山登場した。P−model、プラスチックス、ヒカシューなどなど。

私のようなギターも歌もヘタクソなガキでも、名曲「空中ピラミッドの生活」を作曲するところまで到達したのだから、パンク、恐るべし。
で、私は1985年、ロック戦線から離脱。

1985年、三國清三が、若き天才シェフとしてフランス料理界に旋風を呼んでいた頃、セックス・ピストルズのボーカリスト、ジョン・ライドンはアヴァン ギャルドなバンドであったPIL(パブリック・イメージ・リミッテッド)を、ふつーのハードロック・バンドにしてしまった。

日本ではバブル時代が準備されていた。
だれもが、DCブランドのスーツを自分の給料より高いのに買って着ていた。

ジョー・ストラマーの歯は、抜け続け。

で、ザ・ジャムは?
あ、そーそー、私はジャムの良い聴き手ではなかった。
クールでポップなセックス・ピストルズ、好き。
不器用だが文学的なクラッシュ、好き。

ザ・ジャムは、おしゃれ☆だったのだ。

細身のスーツに、ベスパのバイク。モッズだよね。

セックス・ピストルズのファンであれば、古着屋でチェックのジャケットを買って、Tシャツを破いて安全ピンを付ければよかった。
クラッシュのファンであれば、白い大き目のシャツの腕を肩ギリギリまでめくって、黒のスリム・ジーンズを一年中はいていればよかった。

でもねぇー、イギリス製のスーツや、ベスパなんて、変えまへんでぇ〜。

じゃあさ、パンクスを止めて、バブルになった頃に買えばいいじゃんか。

おお。
その頃、ザ・ジャムは解散し、フロント・マンのポール・ウェラーはザ・スタイル・カウンシルを結成。
スタ・カン。The Style Council、つまり「スタイル会議」。くーっ。おしゃれスギ!

当時、クラブと名を変える前夜のディスコで、私もスタカンの大ヒット曲「タンブリング・ダウン」で踊りまくったよ。
でも、もうこれは・すでにパンクではなく、むしろ、モータウン・サウンド。
でも、なんだか粗っぽい演奏と、熱いボーカル。パンクの素性は隠せねぇや。

で、時代はいつのまにかアナログ・レコードからCDに変わっていた。
貧乏でレコードを選びながら買っていた私も、中古で安くバカ&スカとCDが買えるようになった。
「タンブリング・ダウン」の入っているスタカンのアルバム『アワ・フェイヴァリット・ショップ』を買った。そのアルバム・ジャケットは、なんのことはな い、フツーのロックおたくグッズ屋。ビートルズやハンフリー・ボガードのポスターやカードが売っている店で物色するポール・ウェラーたち。つまり、アワ・ フェイヴァリット・ショップか。

え?ちょっと・まてよ。
古いロックや既成概念を「太った白ブタ」とツバを吐いたパンクスが、ぼくたちのお気に入りのお店かよ?

もうその頃には、ジョン・ライドンがビールっ腹で「太った白ブタ」になっていて、ミック・ジャガーはジョギングとオーガニック料理でスリムな肉体のまま、 世界中でスタジアム・ツアーをしまくっていた。これを歴史のヒニクと言うのか?!

1995年ごろにはイギリスでブリット・ポップの大ブームが起こった。らしい。
その頃、私はコルトレーンとマイルスとモーツアルトの日々だったのだ。

20世紀も終盤になって、フジ・ロック・フェスティバルに代表される一連の巨大ロック・フェスが日本各地で開催され、パティ・スミスや、ジョーストラマー と言ったすでに歴史上の人物がなにげにやってきていた。しかも、毎年。

ジョー・ストラマーはジム・ジャームッシュの映画でたまに少ない歯を見せていた・が。

結婚&出産で寿引退をしていたパティ・スミスも、夫の死により、1990年代には偉大なる復活をする。パティ・スミスの復活アルバム『ピース・アンド・ノ イズ』は素晴らしい。
昨年、私がニューヨークで見聞きした彼女に対するニューヨーカーのリスペクトは、もうすでにカリスマへのものであった。

今年の4月14日、旭川で中古CD、Joe Strummer and the Mescaleros『Rock Art and the X-Ray Style』('99)を買った。
クラッシュ時代の『サンディニスタ!』の方法論の15年後の解釈とも言える本作は、それなりに気合の入った久々のジョー・ストラマー節であった。ワール ド・ミュージックやテクノへの知識も取り入れて、まだまだ現役じゃわい・と、抜けた歯で笑うジョーが目に浮かぶよ。

実際、このアルバムは私にとっての2002年に聴いたCDベスト1になる予定だった。
私にとっては、古い作品であっても、読んだり聴いたりした時が私にとっての「新作」であるわけなんだから。
で、そー言った意味で、下記が今年のCDベスト5になる予定だった。

1位 Joe Strummer and the Mescaleros『Rock Art and the X-Ray Style』('99)
2位 パティ・スミス『ピース・アンド・ノイズ』(1997.11.1)
3位 あがた森魚『學校の放送倶楽部用 永遠の遠国の歌 ガリガリ版』(1977〜1983)w/鈴木慶一,大貫妙子,細野晴臣
4位 上田正樹と有山淳司『ぼちぼちいこか』(1975年6月1日)
5位 シェーンベルク『浄夜 作品4六重奏/弦楽三重奏曲 作品4/ファンタジー』シェーンベルク・アンサンブル(1984)

ところが・だ。
9月7日に、ポール・ウェラー『ヒーリオセントリック』(2000.3.29)を買ったら、順位が変わってしまった。
その時点で、これが4位に入った。じゃあ、シェーンベルグが圏外になったのか・と言うとそーではない。
なんと、ジョー・ストラマーが圏外になったのだ!

1位 パティ・スミス『ピース・アンド・ノイズ』(1997.11.1)
2位 あがた森魚『學校の放送倶楽部用 永遠の遠国の歌 ガリガリ版』(1977〜1983)w/鈴木慶一,大貫妙子,細野晴臣
3位 上田正樹と有山淳司『ぼちぼちいこか』(1975年6月1日)
4位 ポール・ウェラー『ヒーリオセントリック』(2000.3.29)
5位 シェーンベルク『浄夜 作品4六重奏/弦楽三重奏曲 作品4/ファンタジー』シェーンベルク・アンサンブル(1984)

まぁ、私自身のベスト5なので、他人にはどーでもいいことでしょーが、改めて私自身の中ではジョー・ストラマーとポール・ウェラーは同居しないことに気が 付いたのであった。

それは何故?
同じパンク御三家の慣れの果てなのにぃー?

うう。
とにかく、ポール・ウェラーを認めてしまった感性には、ジョー・ストラマーは陳腐に映るのだ。ごめんね、ジョー。

確かに二人とも、熱い男だ。
ロンドン・バーニング!だし、イン・ザ・シティ!だし。

うむむむ。似ている・と、世間では思うかも。でも、ぜんぜん違うよね。

だいたいにして、私が今回、ポール・ウェラー『ヒーリオセントリック』(2000.3.29)を買ったきっかけは、2月に古本屋ザリガニヤで買った雑誌 『BUZZ』(2000.3)「特集;オアシスVSビートルズ」であった。ん?なんじゃ、10月20日に買ったハッシュ・パピーの靴と同じ理由かよ。

えーと、このオアシスとビートルズを比較するとゆーヘンテコ企画の中に、ポール・ウェラーのインタビューがあったわけさ。
ポール・ウェラーは、ボスニア難民救済チャリティ・アルバムで、オアシスのノエル・ギャラガーや、ビートルズのポール・マッカートニーと3人でビートルズ のジョン・レノンの名曲「カム・トゥギャザー」を演奏している。で、そんなポール・ウェーラーが二つの世代のジョイントなわけらしい。

このインタビューでも彼は「まあポスターの1、2枚ぐらいならビートルズに限らずにピート・タウンゼントやスティーヴ・マリオットのを今でも持ってたりす るけど。」と、モッズ・ジェネレーションを否定しない。

やはり、彼はパンクスではなく、モッズか?

それよりも、この古い雑誌の後半にディスク・レヴューのコーナーがあって、そこにはその時点で新譜であった『Heliocentric/ヒーリオセント リック』が斎藤知太によって紹介されている。こんな感じだ。

「正直に言う。僕はスタカン以来ウェラーを追っかけてきたけれど、ここ数年は音楽よりもウェラーという「存在」とのみ何となくつき合ってきた。〜(省略) 〜でもやっと。やっと僕の心に届くウェラーが帰ってきた。いや、ここには、確実に新しいポール・ウェラーがいます。」

いやぁ〜、私、こーゆー文章に弱いのよ。

で、中古CD屋でみつけて、聴いた。
そしたら、良かったよ。
これは、もしかしたらジョン・レノンにとっての『ジョンの魂』かもしれない。

で、今年の秋、ポール・ウェラーが新作アルバムを発表した。『ILLUMINATION』だ。
朝日新聞に音楽評論家が書いた短評が載っていた。そこには、「あの熱血漢も渋くなったかと思わせた前作から一転して、熱いポール・ウェラーが戻ってき た!」風なことが書いてあった。

ふ〜ん。そっか。
『ヒーリオセントリック』は・どーやらウェラーにとっても特別なアルバムであったらしい。
だいたい、この時点で私はウェラーのソロはこれ1枚しか聴いていなかった。

で、ソロ第一作、その名も『PAUL WELLER』(1992)を中古CD店で750円で買う。安いしね。

聴いた。いやぁ〜・熱い。確かに、熱い。熱血漢だ。
クラッシュのジョー・ストラマーが泣き顔で社会正義をシャウトするのとは違った熱さ・だけど、これも熱い。

しかもソロ第一作。栄光のジャム、ヒット・メーカーのスタカンを経ての一人立ちだ。気負いもあるのかな?

もっと聴きたくなって、今月の2日に札幌のレコーズ・レコーズ琴似店に物色に行った。
ガチャ&ガチャ探していると、ヒゲズラの元ヒッピーっぽいデブオヤジ客と、店員の会話が耳に入ってきた。
「ストーンズのあの海賊盤、良かったよ。」
「てゆーか、ストーンズって正規盤より海賊盤の方が面白いよな。」
「はははは。もう、いいよストーンズって感じ。もういいんじゃない?止めても。」
う〜む。憎たらしいが、当たってんなぁ、と思いつつ、ポール・ウェラーのコーナーを発見。
結構あるな。よく分らんが、4枚、正規盤(笑)を買おう。

レジに行くと、さっきの店員が私に「ザ・ジャムでは何が好きですか?」と馴れ馴れしく聞いて来る。
「あ。私、ジャム、1枚も持っていないんです。」これで話は途切れるだろう。ついでだ、情報を聞いちゃおう。「ジャムって、何枚、アルバムを出しているん ですか?」店員はボソボソ言いながら、指を折る。「6枚ですね。」ゲッ!そんなに出してるのか!?セックス・ピストルズは、たったの1枚だぞぉ!こりゃ、 大変だ。もしポール・ウェラーにハマって、全部集めた後に、ザ・ジャムも集めようとすると、こりゃ、ロング・アンド・ワイディング・ロードじゃわい。
う〜む、とりあえずマストはなんだろうか?聞いちゃえ。「何が好きですか?」「ぼくは、やっぱり1STと2NDですね。」「はぁ。」「中学1年生の時に ジャムが初来日した時からのファンですよ。」。
あ!
そーだ、私はジャムの初来日時のライブ・テープを持っていたっけ。
1980年7月6日、東京・中野サンプラザ。「引き裂かれぬ仲」「サタデーズ・キッズ」などなど、NHK−FMから録音して聴きまくったぞ。テープのB面 は、同年同月2日に新宿のディスコ(おそらくツバキ・ハウスだろう。)でのスペシャルズのライブだ。「ルード・ボーイズ・アウト・ア・ジェイル」「モン キー・マン」・・・・・・。ううう。懐かしすぎるぞ!
このテープを繰り返し、裏&表、聴いたんじゃんか!なんだ、私はジャム=ポール・ウェラーのファンだったのか。

なぁ〜んて遠い目をしていると怪しまれるので(?)、「いやぁ〜、あの頃はレコードが高くて欲しいヤツを全部買うわけにはいかなかったんだよね。」「そー そー」「1枚2,500円はコドモにはキツイよ。」「今も同じなんですけどねぇ。そー言った意味では価格の優等生ですよね。でも、もっと安くなってもいい ですよね」ふむ。私は結局、ポール・ウェラーばかり4枚買って4,420円。中古って・ありがたい。

買った4枚を発表順に聴く。

2ND『WILD WOOD』(1993)
ポール・ウェラーはソロと言っても、ドラマーとベーシストは固定しているし、基本的にはジャム以来のスリー・ピースで、シンプルなバンド・サウンドと言っ ていい。
が、そこで作られるグルーブは明らかに黒人ファンク好きのティストを通過したもので、他人に簡単にマネできるものではない。
しかも本作1曲目の「サンフラワー」は、なんとサイケ。
この曲には「♪We have no future - we have no past」という印象的な歌詞がある。セックス・ピストルズが「no future /未来は無い」と歌ってから26年。パンクスの子供も成人する今日この頃、ウェラーは「過去も無い」と歌った。う〜。かっこいい。
その曲もかっこいいが、私にとってのベストは「フィフス・シーズン」。かなり激しい怒りの歌っぽいが、歌詞は、かなぁ〜り内向的。「♪季節が変わる時 ぼ くも変えて欲しい」なんて歌詞もある。
明らかに、ウェラーのテーマが、若くは無いロック・ミュージシャンの可能性の中心に移っているのが分る。その手法としてのモータウン・サウンドであったの か?とも思ってしまう。
アルバムの最後の曲「シャドウ・オブ・ザ・サン」には、「♪まだ若さが残っているうちに 夢を追い続けるんだ」なんて日本語で歌えば、ほとんど大事マン・ ブラザーズになってしまう歌詞もある。こんな歌詞を歌ってしまうところに、ファンたちは引かれるんだろーけどね。
それにしても、この時期の彼のキーワード「Wood」って、「Mod」のシャレなのかな?

『LIVE WOOD』(1994)
前作を引き継いだライブ・アルバム。元々、シンプルなスタイルでスタジオ録音をしているので、ライブだろーが同じアレンジ。でも1曲目「Bull Rush」の後半をザ・フーのヒット・シングル「Magic Bus」へとつなげてみたりと、彼の生の姿が楽しめる。
黒人女性ベーシストのヨランダ・チャールズ、キーボードも女性でワンレンのヘレン・ターナー。この二人は視覚的にライブをかっこよくさせてるだろーね。
そして、実はこのアルバムのハイライトは、これらライブではなく、ふろく的に最後についている「コスモス(ボーナス・ビーツ)」だ。これは1STのハイラ イトであった同曲のブレン・ダン・リンチによるリミックス。この曲が1992〜1994年のロンドンのクラブ・シーンで、ガンガン、パワー・プレイされて いたのだ。もうすでに、ポール・ウェラーは過去の人ではなくなっていた。むしろ、ジャムやスタカン時代以上に時代のフロントに出てきたんじゃあないのか な?

3RD『STANLEY ROAD』(1995)
おしゃれなウェラーにしてはサエないジャケットと思ったら、なんとザ・ビートルズ『サージェント・ペッパーズ』のアート・ディレクションをしたピーター・ ブレイクの絵らしい。う〜む。よく分らんぞー。でも、タイトルは、「アビイ・ロード」を思い出させるね。ラストの曲が「ウィングス・オブ・スピード」っー のも、もう一人のポールを思い出させるし。
このビートルズ回帰は、元々優れたソング・メーカーでもあった彼に、「一緒に歌える歌」とゆー、日本のオリジナル商品カラオケ革命のインフルーエンスのよ うな動きに出た。この年の日本ツアーの時に、ウェラーがラジカセでオアシスの1Stアルバム『ディフィニトリー・メイビー』をデカイ音でガンガンかけて一 緒に歌っていたのを雑誌『バァフアウト!』の山崎二郎らが目撃している。時代は、合唱の時代に入っちまったのだ。音痴の私、危うし!
とにかく、この時点でのポール・ウェラーは、ブリット・ポップのゴッド・ファーザーになっていたらしい。オアシス、ブラーと久々にブリティッシュ・ロック が世界市場を賑わせたが、そんな彼らの先達としてリスペクトされもし、CDも現役で売りまくっていたのがウェラーだった。
なんと、このアルバムは初登場1位は当然、1年間もトップ10に居座ったオバケ・アルバムだ。
当時、そんな動きには無関心な私は老体に鞭打つつも、後輩たちに親しまれているウェラーが・まぶしすぎたよん。私には必要の無い音であると思った。私に は、むしろ、メンフィスでどろどろに泥酔しているジョー・ストラマーの・どうしょうもなさのほうがロック的にリアルに感じたのだ。
それでも、今、こうして手にして聴いているとウェラーの自信がうらやましくも感じる。
まるでオーティス・レディングのような1曲目「チェンジングマン」。時々、布袋に歌い方が似ていて嫌だけど、不安でスタートした彼のソロ時代もこうして変 化=自信と歌い上げることができるところまで到達したのだ・と、考えるならば長年のファンには感慨ひとしおなんだろーな。
このアルバムには、トラフィック、ブランド・フェイスと歩んできたブリティッシュ・ロックの歴史の重鎮、スティーヴ・ウィンウッドが2曲に参加している。 考えて見れば、ウィンウッドこそが元祖ブリティッシュ・ブルーアイド・ソウルなんだなぁ〜、これが。
同じブランド・フェイスのジンジャー・ベイカーは1985年のPIL『アルバム』に参加しているよ。なんじゃ、結局、パンクのやつらも、老人を大切にして るんじゃん。

4Th『HEAVY SOUL』(1997)
5枚連続CDプレイヤーで聴いていたら、このCDがかかると、まったく違う音質に驚く。
とにかく、音がリアル。最初の深いディストーションがかったギターのかきならす音などは、この部屋で高校生がいたずらしているんじゃあないかとういぐら い。つまり、オーディオ的には、いい音だ。クリア。
しかも、CD解説の増井修が書いているように「音はライブ感を増し、いい意味で荒れているというか、非常にエッジが立っている。一方ではメロディアスなナ ンバーはカッティングやリズムに新しい工夫が凝らされ、過度のドラマチックさが意図的に排除されている。」という感じ。
これは前作のセールスを含む成功からきた自信もあると思う。
楽曲も相変わらずキャッチー。そこに色濃くなったビートルズの影響を私は見る。かわいい後輩=オアシスがビートルズのあからさまなパクリをしている中、 ウェラーも『ラバーソウル』〜『リボルバー』時代のビートルズのテイストを出している。私の好きな曲だが「ブラッシュト」なんかはビートルズ「トゥモ ロー・ネバー・ノウズ」の世紀末的展開にも聴こえる。続く「ドライヴィング・ノーウェア」は、タイトルからして『ラバーソウル』の「ドライヴィング・マ イ・カー」と「ノーウェア・マン」。テープ逆回しとか、シタールとかアナクロなビートルズ・ティストもスタイリッシュに楽曲の中に染み込ませている。
う〜む。かっこいい。きっと私が若ければ、このアルバムから彼のファンになれるだろう。


■そんなわけで、11月2日に買ったウェラーの4枚のCDを3〜4日の連休にじっくりと聴いた。
なるへそ。

そして私はあることに気が付き、ギクリとしたのだ。

私のポール・ウェラーへの興味は、若い時にバンドをやった人間の「その後」への興味ではないのか?

考えて見れば、我々にはその優れた先達がいなかったんじゃあないのかな?
ビートルズの解散後、4人は年金暮らしのようなアルバムを出したし。
レッド・ツェッペリンもザ・フーも、誰もソロ・アルバムに対して多くは語らない。
ザ・ローリング・ストーンズは解散していないから、悪口を極東の中古CD屋で言われても、バンド後のみじめさからは逃げられている。

私が同時代的にアイドルだったパンクス御三家はどうか?
ジョン・ライドンは、ロックン・ロール・スィンドル。おいおい、本気かよぉ?
ジョー・ストラマーは、浮浪者気取り。それって、一種のピーターパン・シンドローム?

そうか。
もしかしたら、ポール・ウェラーが最初の、バンド後の生き方を見せてくれたロッカーなのかもしれない。
アルバム『HELIOCENTRIC』は、地味だ・とか、熱血漢も落ち着いた・とか言われたかもしれない。それでも、このアルバムから感じ取った私の印象 は、とうとう最後までニヒリズムの甘い誘惑にのらなかった最初の男の鍛えられた魂(?)なのだよん。
1曲目「He's The Keeper」は故Ronnie Laneに捧げられている。ロニー・レインはザ・フーと同時期の1966年デビューのロンドン、イースト・エンドのモッズ・バンド=スモール・フェイセス のリーダーだった。デビュー・アルバムの1曲目はロニーが歌っている。2曲名以降はウェラーが今でもポスターを大切に持っていると言っていた美少年ス ティーブ・マリオットだ。このアルバムで聴かれるロニーのパンチのきいた(←古臭い表現だけど、その通り。)歌い方は、ウェラーのスタイルそのままだ。ロ ニーはのちに、わがままで脱退したスター=スティーブ・マリオットの大きな穴を、ロッド・スチュワートとロン・ウッドをさそって埋めて、フェイセスを結成 し大成功。
「わがままで脱退した」と聞けば他人事ではないが、今やロニーもスティーブも死んじまった。
ロニーの晩年は多発性脳脊髄硬化症に苦しむ闘病生活だった。1983年にはその病気の基金のために開かれたコンサートでロニーは歌った。そのバックがスゴ イ!3大ギタリスト(エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ)、ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツとビル・ワイマン、キーボー ドがスティーヴ・ウィンウッド。うう〜、人徳だねぇ。
ちなみに、ロニーは1990年3月には来日コンサートを行った。モチロン、車椅子のままで。

ロック・ミュージシャンのバンド後は生き難いものなのかもしれない。
料理人の三國清三は30歳台を振り、「30代は”勝ちに行く”料理を作っていた」と言っていた。ロック・ミュージシャンにとって、バンド期が”勝ちに行 く”時期なのかもしれない。
ロックの歴史が私の誕生と共に始まって40年が経った。そろそろ、世界初の老衰で死ぬロッカーも出てくるだろう。誰だ?ミッキー・カーチスか(笑)?
老人ホームで、ストーンズが流れる日も近いだろう。


私はまだ、今年発売されたばかりのポール・ウェラーの新作アルバムを聴いていない。
私が気に入った前作『ヒーリオセントリック』とは違い、再び熱いポールに戻ったらしいが、バンド後を生きる彼はもう無視できない存在になってしまった。
もしかしたら、年末には私の2002年ベスト1CDはパティ・スミス『ピース・アンド・ノイズ』を抜いて、ポール・ウェラー『ヒーリオセントリック』に なっているかもしれない。



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小説★『マヌエル・プイグ「蜘蛛女 のキス」』 2002,11,2
■サッカーW杯で、アルゼンチンのファンタズマに感激した諸君、
やはり★tpt公演『蜘蛛女のキス』
・11月8日(金)午後7時●朝日町サンライズホール 前売¥2,000(当日¥2,500)
は、見ておくべきだ。

■集英社から「ラテンアメリカの文学」シリーズが、かのボルヘス『伝奇集』を第一巻としてスタートした1980年代前半、それは確実に文学的事件だった・ よね。
それには、いくつかの理由があるだろうが、それまでの文学のルールと違うカルチャーを持っていたからじゃあーないかな。

『蜘蛛女のキス』は、そのシリーズの第16巻として、1983年に邦訳された。
訳した野谷文昭は、1948年生れで、当時は若きラテン文学の紹介者として注目されていた。

もちろん、さらに注目されたのは『蜘蛛女のキス』が映画化されて、日本公開された1986年。

この年の9月11日(9.11!)に、野谷が朝日新聞に寄稿した文の切抜きが手元にあるので紹介いたしやしょーう。その書き出しだけで、この作品の個性を 捕らえている。

・『蜘蛛女のキス』というキッチュなタイトルに、高尚な趣味を持つ教養人が反発すれば、それはマヌエル・プイグの戦略の成功を意味する。

■プイグとは?
1932年アルゼンチンに生まれる。ブエノスアイレスの寄宿学校で学び、ブエノスアイレスの大学で哲学を専攻した。 1955年、映画監督をめざし、奨学金をうけて映画技術を学ぶため、ローマへ。そこで失望し、映画副監督、翻訳家、教師などの職をこなし、時には皿洗いな どをしながら、パリ、ロンドンなどをまわった。1959年にはストックホルムで暮らし、その後、アルゼンチンに戻った。1963年、ブロードウェイミュー ジカルを学ぶためにニューヨークへ。1967年、ふたたびブエノスアイレスへ戻る。その後も、ブラジル、ニューヨークと移り、政治的な問題で、1973年 にはメキシコに亡命。その後もブラジル、アメリカ、メキシコと生活の場を移していった。1990年7月22日、57歳で亡くなるまでに、スペイン語で8つ の小説を書いた。

■さて、映画も演劇も大好きなプイグは、彼自身の手で『蜘蛛女のキス』を戯曲化していて、初演は1981年6月のスペイン、マドリードのマルティン劇場で だ。

1991年に松竹が、日本でも同じ戯曲を舞台化している。
松竹と言えば、どちらかというと保守的な会社なので、当時の劇評では「実験性に富むこうした演目の小劇場公演を続ける最近の松竹はなかなか意欲的である」 と評価されている。

この舞台はキャスティングが注目された。
監房に閉じ込められた革命家バレンティンを、ジャニーズ事務所の美少年、岡本健一(男闘呼組)。
対する同房のホモセクシャルの男モリーナを、ベテラン俳優、村井国夫が演じた。

■1996年には、モリーナを市村正親が演じ、なんとミュージカルとして上演された。
ラテン音楽の「モルヒネ・タンゴ」などを取り入れ、モリーナと蜘蛛女(麻美れい)が踊るシーンなどは、ミュージカルならではの醍醐味であった。
しかし、先の演劇でモリーナを演じた村井国夫は「舞台が大きすぎて、アルゼンチンの閉鎖社会が伝わってこない」と否定的な意見を当時、ミュージカル作品に 与えた。
翻訳者の野谷文昭は「非常にアメリカ的な仕上がりだ」と揶揄しながらも、「一面に張りめぐらした鉄格子とクモの巣の装置には圧倒されました」とミュージカ ルならではの魅力を評価。

■だいたいにして、原作者マヌエル・プイグ(1932〜1990)は、自国アルゼンチンで、作品が次々と発禁になり、亡命生活を続けた男。
そんな彼が映画と演劇への愛をかかえながらも、ニューヨークで小説家としてデビューした時に住んでいたのが1960年代のヒッピーのメッカ、グリニッジ・ ヴィレッジだった。
当時、ジョン・コルトレーンが毎晩、ジャズを破壊し、ボブ・ディランが路上に詩をばらまいていた街。
昨年、私がそこへ訪れた時に、「Lucky Cheng's Restaurant」というドラッグ・クィーンのいるショー・レストランに行った。残念ながら開店前で入れなかったが、サイケな店作りは楽しめた。帰国 後、友人に聞いたら、そこはゲイ・バーらしい。なんだか私はマニュエル・プイグ『蜘蛛女のキス』を連想して、少し心地よい眩暈を感じたのさ。

■さて、2002年。
かの自腹で東京芸術三昧の漢幸雄が「この数年、私が東京で観続けた中では唯一といってもいいほど完成度の高い芝居」と言い切る舞台『蜘蛛女のキス』が、朝 日町サンライズホールで公演される。
どんな舞台を魅せてくれるか。スリリングだ。



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