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久保兄だよ。

アートなオヤジの、文科系★不良日記!


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本★『山田風太郎+森まゆみ「風々院風々風々居士」』 2002,8,30
■午前6時に起き、昨夜作っておいた「ニフレック」を2リッター、2時間かけて飲む。
昨夜9時には病院からもらってきた液体下剤を2つ水に溶かして飲んでおいてある。

■7月17日に受けた健康診断「総合健診」にて、”ひっかかった”のだ。
私も40歳になったっーコトで、地元の行政主催の「総合健診」からお呼ばれされたのヨ。

■結果は下記の通り。

・血液検査=貧血、血小板増多症。
・大腸がん健診=大腸がんの可能性あり。

「大腸がん」検診は、「便」を2回チェックするわけだけど、2回とも血液が混じっていたらしい。
目視では分からなかったし、「痔」の自覚もないので、それならば、大腸の中に出血の原因がある・とゆー論法だ。

んで、肛門から「大腸内視鏡」を入れて、大腸の中をグルリとチェックするコトとなった。
そんで、昨夜から下剤を飲んだり、早朝から腸を洗う薬を2リッター飲んだりしてるっーワケ。

病院から貰って来た「大腸検査ができる便の状態をチェックしましょう」というカラー写真の「便」の色の変化一覧写真を片手に、自分の「便」の色の変化をチェックする。

前日に食べてはイケナイものの一覧に、トマトも入っていたのだが、つい&うっかりミニ・トマトをパクリと食べてしまった。んーだけど、さすがに正直&しつこく、トマトの赤くて薄い皮が何度も出てくる。「ふーん」と、感心してしまった。

■午前8時には社員が出勤してきたので、私も出社して、本日の仕事をテキパキ(?)と支持して、再び書斎&トイレに・こもる。

2時間で飲み終える予定の「ニフレック」2リッターっーのが、なかなか飲めない。
なんだかマズい☆ポカリスェットみたいで。
生ビールであれば、2リッターぐらいペロ&ゴクなんだけどさ。

■んで、そのニフレックを横に置いて、書斎の一人がけソファに深く座り→まったり。
南向きの窓から、優しい風。
ん?風?

そこで山田風太郎+森まゆみ『風々院風々風々居士』を手にとった。

山田風太郎は1922(大正11)年1月兵庫県生れの小説家。
『甲賀忍法帖』『くノ一忍法帖』などの小説で忍法ブームを巻き起こした昭和の人気作家だ。
ジュリー・マニアの私としては、1981年の沢田研二・主演映画『魔界転生』の原作者としての記憶が強い。

1981年6月に映画『魔界転生』は公開されているんだけど、
沢田研二は同じ月にLP『ストリッパー』を発表している。

その二ヶ月前にアブノーマル・ストリッパーというロック・バンドが誕生している。

沢田研二のLP『ストリッパー』は当時流行のロンドン・ニューロマンティックのサウンドを取り入れた名盤だった。
ロンドンのストレィ・キャッツやアダム&アンツのパクリと言えば、パクリだ・けど・さ。
それでも、前作アルバム『G.S.I love you』で、1960年代サウンドと80年代ニューウェーブの絶妙な融合を成功させた沢田&スタッフに迷いは無く、かなりの高レベルの作品になった。
このアルバムのメインは9月にシングル・カットされる「ス・ト・リ・ッ・パ・−」だろうが、クライマックスは「テレフォン」〜「シャワー」と続く三浦徳子の作詩による後半のメドレー曲だ。

「シャワー」に、こんな歌詞がある。

「♪シャワーを浴びながら ひげをそる
からだの 裏側で 血が飛びちっては とまらない
ドアの下 おかれたNews Paper 手にとれば 文字が消えてゆくぜ」

私はこの年の渋谷公会堂での沢田研二のコンサートに行ったが、
明るいヒットメドレーから急に暗転したステージに、ジュリーが舞台の上から、あやつり人形のようにぶら下がってきて「テレフォン」と「シャワー」を不気味に歌ったのを強い印象と共に憶えている。

で、今でも星の数ほどあるジュリーの曲でも「シャワー」がベスト1なのさ。

それでも、一番印象的な歌詞「♪からだの 裏側で 血が飛びちっては とまらない」は、抽象的なイメージとして捕らえていたんだけどさ、
肛門から内視鏡を突っ込んで調べられる私の「♪からだの 裏側で 血が飛びちっては とまらない」のだろーか?


■さて、映画『魔界転生』は、そんな沢田が俳優人生最後の”妖しい美形”として採用された映画だ。
この数年後の映画『リボルバー』では、ビールっ腹をつきだしてステテコを着た中年オヤジとして沢田研二は出演してるのよねぇー。

■公開当時に観た私は、沢田主演の名作『太陽を盗んだ男』と比べて、金がかかっているワリにはラストが尻つぼみになっていて深作欣二・監督の才能にガッカリした記憶がある。
今から考えると、角川映画特有の上手な話題作りに溺れた結果かもしれない。
沢田研二の起用も、沢田でなければ・ではなく、ジュリーであれば集客できる・というソロバンであったろーし、当時新人売出し中の真田広之とジュリーとのキス・シーンといった話題作りも、なんだかなぁーっ・て・ゆー感じ。

今、手元にある映画のパンフレットをパラリとしても、そのカドカワのしたたかさはある。

が、このパンフの貴重さは中に山田風太郎とプロデューサーの角川”ジャンキー”春樹の対談が4ページに渡ってあることだろう。
最後に角川”蝿の王”春樹はこうオチをつけている。

「6月6日の6時から6週間ロードショーということに(笑)。」

これ、666のオーメンのギャグ。風太郎も笑ってるけど、もろ、オヤジ・ギャグ元祖。
でも・まぁ、当時の日本映画には、こんなクダラナサを含めたパワーすら無くなっていたんだから、春樹ちゃんの力技も、いつか再評価されるでしょーね。もち、それは私の仕事じゃあないけど。

んでさ、ここに映画雑誌『キネマ旬報』1981年6月号がある。当時、私が買ったのだよん。
表紙を飾るのは、『魔界転生』の主役、天草四郎・役の沢田研二と、柳生十兵衛・役の千葉真一。
ちなみにこの号の表紙を飾る映画タイトルは他に、『歌え!ロレッタ愛のために』『ニューヨーク1997』『ハウリング』。どいつも&こいつも、お見事にB級映画でんなぁ〜。
『ニューヨーク1997』なんてさ、「1997年!ニューヨーク・マンハッタン島は巨大な監獄となっていた!」という設定。2002年の今日、もし仮に再上映されたら☆笑って観てあげてくれ、たのむぜ、Tommyオヤブン。

この映画雑誌『キネマ旬報』1981年6月号に「風太郎忍法帖―ゲームの規則」という宅和宏(←これって、宅八郎か山田宏一のペンネーム?わからんケド。)の文章が寄せられている。
なかなか上手に山田風太郎の魅力を紹介しているので、そこから少し抜粋してみよう。

@有名な剣豪作家=柴田錬三郎(=シバレン)は「なにがし氏の忍法のごとく、男根が消えて女陰が現れたりするような、インチキは、書いて居らぬ」とエッセイに書いたりして、山田風太郎に暗に悪口を書いていた。
これが書かれた昭和40年当時、シバレンはさかんに、”最初に忍法ということばを使ったのは私だ”と言ったり書いたりしている。

■今回、読んだ『風々院風々風々居士』で山田風太郎は次のように回顧している。

「柴田錬三郎さんが忍法ちゅう言葉の発明は俺だちゅう、山田某は、無届けで使っていると。
ところが、ぼくは柴田さんの小説あんまり読んだことないうえにね、忍法使った小説全然読んだことないんですよ。
どこかなと思っておったら『神州天馬侠』なんですよ。吉川英治。」

もちろん、この時点でシバレンはとっくに死んでいるケド、時系列の問題だから、やはりシバレンの負け・とゆーこと・か。
それにしても、重要なのは山田風太郎はシバレンの悪口をズーッと根に持っていた(笑)という事実ですね。わっはっは。

山田風太郎は吉川英治をかなり評価していたみたいで、この本のなかでも、タビタビ語っている。
しまいには、「百年たっても残っているのは漱石と吉川英治」と言い切っている!


A実際、天下のシバレン先生をかくもムキにさせるほど、昭和30年代後半から40年代初めにかけての風太郎忍法帖ブームは凄まじいものがあったのである。

なるへそ。私はガキだったので分からんが、たしかに忍者マンガも藤子不二雄『忍者ハットリくん』から白土三平『忍者武芸帳』、横山光輝『伊賀の影丸』までブームだったなぁ。

その忍者マンガについても、山田風太郎は『風々院風々風々居士』で次のように語っている。

「白土三平ちゅう人の『忍者武芸帳』、あれが、昭和34年か、おれの忍法帖は34年か、おんなしくらいに出てんですよ。あれ、2、3年おくれたら、おれがまねしたちゅうことになるんじゃないかと思ってねぇ。」

この山田の発言に相席していた古本屋の高橋がソッコーで、「全然ちがいますよ。」と言うのさ。


B記念すべき第一作の『甲賀忍法帖』が光文社から単行本になって刊行されたのは、昭和34年のこと。たちまち大反響を呼び、”世の中にこんなに面白いものがあっていいのだろうか”(種村季弘)、”天下の奇書”(高木彬光)と識者を驚倒させた。

うむむむ。高木彬光は同業者だから、リップ・サービスもチョイありでしょーが、種村季弘がこんなに激☆ホメしてんのには、私もビックししたよん。
昭和34年当時はまだ鎌倉の澁澤龍彦邸で遊んでいた若手のドイツ文学者だったんでしょーが、それにしても、さすが!


B設定やストーリーは大した問題ではない。問題は、奇怪な肉体を持った忍者たちが次々に披露する忍法そのものにある。

こりゃまた、うむむむむむむ。と、「む」の大安売りじゃわい。
んで、宅和宏が例えて上げる奇抜な忍法にこんなのもある。



C肛門から巨大な腸をたぐりだして武器として使う忍法「足三本」

ぎゃふん。
これから病院へ行って肛門からファイバー・カメラを入れて腸を検査する私に、なんという忍法!
まったく強いんだか、弱いんだか・ワケわからんゾー!
でも、なんだか風太郎サンは、強い弱いより、面白いを重視してる・みたい。


D忍法の論理づけ。

そう。山田風太郎は医学部出身なのだ。で、医学的なコジツケを文中に書いて、(きっと)腹の中ではゲラゲラ笑っているんだろーな。

あ、兵庫県生まれで、戦争体験をして、医学部出身の優れたストーリーテラーと言えば・・・・・・。
手塚治虫!


宅和宏は、こんな極めつけの忍法(?)も紹介している。

E自分をムシャムシャ食べてしまう忍法「我喰い」(←「われくらい」と読む・らしい。)
自分を食べてどうなる?



凍りつくぐらい笑えるネタだ。
『魔界転生』の原作には「ゲームのルール」と題する章があり、下記のやりとりがある。

F「一方で、われら、一人ずつ、十兵衛と立ち合おうと存ずる」
「一人ずつ?」
「七人がかりでは、この遊び、面白くない。」
「遊び?」
この大長編もまた、知的お遊びの精神に支えられたゲーム小説なのである。



■さて。
「大長編」と遊んだ後は、「大腸」検査だ。
ニフレック2リッターは予定の2時間では飲めなかった。

だんだんダルくなってゆく肉体。
ソファに沈む体。なんだか、しびれるような緩い快感が体を包む。
手にしている『風々院風々風々居士』のザラッとした表紙が手に心地よい。
見てみれば、表紙を装幀したのは、あの(?)南伸坊。
薄いクリーム色に白い雲のような水の光のような模様が不規則に続いている。
ああ、なんだかモネの『睡蓮』みたい。柔らかい紙質と共に手に馴染む。





と、ここまで書いて、今日は外出します。
数日に渡って書く「日記」って、なんじゃー!!と、思うでしょうが、すみません。

さて、久保元宏は、はたして大腸ガンだったのか?!
続きは数日以内に書き足します。

ここまで読んでくれたヒトは、また後日読んでネ。
すまぬ。





さて、全世界、11人(も居る!)の「共犯☆日記」愛読者の皆様、つづき・です。

前回、「あやうし!久保元宏!」で終わったので、ソコから。


■午後1時半からの「大腸」検査のために午前中は、まったりと山田風太郎+森まゆみ『風々院風々風々居士』を読んでいた。

山田風太郎は2001年7月28日に肺炎で死んだ。79歳だった。
この7月28日は、山田風太郎も尊敬する江戸川乱歩の死んだ日と同じだ。
最後までトリックとチャメッケが・あったとゆーコトか。

江戸川乱歩と言えば、3日前の8月27日にTBSテレビで2時間ドラマ『明智小五郎 対 怪人二十面相』が放送された。明智・役の田村正和はフ ジ・テレビ『古畑任三郎』でのハマリ役の応用ながら、さすがの場の読み。二十面相・役のビートたけしは、彼に頼らねば成らない日本メディアの貧しさを感じ させる程度。前半は、チープながらテレビじゃあモッタイナイ、映画にしたらーと思ったが、途中からガタ&ガタで、まるで映画『魔界転生』。

■この山田風太郎+森まゆみ『風々院風々風々居士』は、風太郎の死からわずか4ヵ月後の11月25日に出版されている。
インタビュアーの森は、あとがきで「この肉声を読者に届け、山田風太郎作品が読まれ続けてほしいとの思いで、おこがましいことかもしれないが、本書を急ぎ編んだ。」と書いている。

「急ぎ編んだ」本はフツー、便乗本が多いのだが(=ベッカムさま本のよーに。)、この本は便乗を超えたリスペクトにあふれている。ハイエナ本と言うよりは、ハイエナジー本。

■だいたい、(笑)が文末に付いているとはいえ、インタビュアーが「聞くことがなくなっちゃった」と言うインタビュー本を私は初めて読んだ。
コレはインタビュアーとしては無防備な発言。しかし、ソレが「許される」以上に「受け入れられる」優しい雰囲気に覆われているインタビューなのだ。

なぁ〜んだか「優しい」なんて言葉を私も無防備に使ったけれど、下剤を飲んで平日の午前中に暖かいソファでまったりと大腸ガンの検査を待つ身には・なじむ・のである。

■この本には3種類のインタビューが載っている。

@1994年。古本屋の機関誌『彷書月刊』掲載。
A1996年。日本の『ニューヨーカー』(?)、雑誌『東京人』掲載。
B1997年。『山田風太郎明治小説全集』1〜7巻のフロク用。

森が無防備に「聞くことがなくなっちゃった」と言っちゃったのは、@である。
初対面なのに、なんだか、縁側でご近所のご隠居と、時間が過ぎるのを待つまでの時間無制限の世間話のようだ。

読み出した私は、巨匠の晩年の遺言であると思って身を引き締めて読み始めたのだが、
なぁ〜んとも、ゆるい雰囲気に腰くだけ。←もち、いい意味で。

だいたい二人の対談かと思っていると、途中から古書店「月の輪書林」の高橋徹と、古書店「なないろ文庫ふしぎ堂」+『彷書月刊』編集人の田村治芳が加わる。だんだん二人の登場回数が多くなる。このルール無視のナチュラルな乱入が、この縁側話をさらに、そーさせる。

もちろん、森も高橋も田村も、並外れた知識&教養&好奇心の持ち主である。
かしこまった雰囲気ではなく、このゆるい雰囲気で、山田風太郎の話を聞くゼータク。
まるで、その場にいるよーだよ。こっちは下剤でラリってるし。

いつの間にか、この対談は山田風太郎を囲むとゆーよりは、各自のペースで話し出したりもする。
たとえば、山田が奈良本辰也の話題で盛り上がろうとするが、残り3人の興味に合わないのか、話題が変えられたり。←ビミョーだけどね。

途中でスイカが出てきたり、持ってきた本にサインしてもらったり。

フツー、こんなのはカットするけど、どこまでも自然体の対談は全てを空気のように収録している。

最初はぎこちなく「山田先生」と言っていた3人が、いつのまにか「風太郎さん」と呼んでいる。
森はソレを、「かしこまらせない、何か気持ちのよい人格の力がそこにはあった。」と振り返る。

さらに、
「座談とは楽しみなのであって、そこで何か因果関係を組み立てたり、
知識をヒケラかしたり、
聞き手の技でメリハリつけて整理したりするものではないと思う。
そういうわけで今回はできるだけ、手を入れず逐語録とすることにした。」と書く。

コレは雑誌掲載時の付記であるが、7年後のこの本の出版時の「あとがき」には、

「座談会はも少し手を入れるものです」と風太郎から葉書をもらったことを告白している。

さらに、「坪内祐三氏は、この逐語録というのがいい、整理されたものより後世の研究者には役に立つ」と言ったという。←確かに!


■で、本の2番目に収録されている雑誌『東京人』掲載のインタビューでは「私はちょった上がってしまった」と森は正直に告白している。
確かに、二度目のインタビューでヘンな慣れが出たのか、話題も『彷書月刊』時のネタを故意に繰り返すミエミエの編集者テクが出ていて、ちょいツマラナイ。


■ところが、3番目の『山田風太郎明治小説全集』1〜7巻のフロク用インタビューにおける森の気合はスゴイ。
当時、もうすでに風太郎はかなり体調を崩していて、「腰が痛いから、もう止めよう」を繰り返す。
が、会うたびに、これが最後のインタビューと思っているかのように、森は山田から執拗なまでに根掘り葉掘り聞き出そうとしている。全集のフロクだから、各 巻に収録される小説にそって話題は展開されるわけだが、森の事前調べはスゴイ。どっちが作者か間違えるほど、森は山田が書いた小説の背景を克明に語り、聞 く。まぁ、森は元々、明治期の東京下町のオーソリティなのだから、「明治小説」に関しては一家言あるんだけど。


■こうしてみてみると、ユルクてなごむ@、編集者の気合が空回りのA、最後の死に水バキュームのB、とゆー感じだ。

★ゆるい&スゴイ→だって、「風」なんだもん。


■午前中に読破した私は机のハジにある朝日新聞の大岡信「折々のうた」の8月17日の切り抜きを手にした。

踊り子のうすら汗してにほひをり  森澄雄

「俳句では「踊り子」は盆踊りの踊り手。」という大岡の解説が続く。

「盆踊り」と言えば、森まゆみ『一葉の四季』(岩波新書)に樋口一葉の時代の風景をスケッチした次の文章がある。

「盆の間は島中がお互いを訪問し、十三日から三日間、亡き人を慰める盆踊りが行われる。」

つまり、盆踊りとは、死んだ人のために踊るのだ。
私はコレを、古墳の周りに埋められた埴輪のイメージとダブらせた。
ヤグラの周りを囲んで踊るのって、古墳の周りを囲んで埋められるのに似ていない?

森ちゃんの文章はフツーなんだけど、こうして脳味噌に刺激があるのよー。
と、思いつつ森まゆみではなく、森澄雄の切抜きを彼の句集にはさめようと本棚から本を取り出して開くと、こんな句がっ!


(大腸癌を宣告さる)
死ぬ病得て安心(あんじん)や草の花  森澄雄

ひゃっ&ひゃっ。出かけよーっ・と。


■ストリート・スライダーズの「Catch a Fire」を聴きながら車で30km先の深川市立病院へ。
村越さんって、こーゆー歌を歌わせると、やっぱ・オンリー・ワンじゃなぁ。
それにしても、スライダーズのラスト・ライブのCDジャケット、ありゃキツイ。
CD屋で手にして、あのジャケットを見た瞬間に、元に戻したよ。ほんとに&もー。
車窓から見える田んぼの米は、まだ青い。


■病院で、お尻側に大きな穴の開いた使い捨て(←う〜む。本当に使い捨てだよなぁー?)のパンツを看護婦に渡されてはく。着替え部屋で待っている。持って きた森まゆみ『一葉の四季』(岩波新書)を読みながら待つ。疲れるので座ろうとすると、パンツの後ろが開いて、畳に尻が着きそうになるので、立ったまま読 書。

すると、私の前の老人が内視鏡検査の結果を医者から聞いている。
医者「大腸を見たんですが、ポリープが4つありますね。ガンの恐れもありますので、主治医と相談して焼ききったらいいでしょう」

うー。病院に来る前に後輩が「ポリープは誰にでもあるんですよ。それがイイものか悪いものかが重要なんです。」と私に言っていたのを思い出す。

■いよいよ検査。
仮面ライダーの冒頭のシーンみたいなベッドに寝せられる。

私の肛門にグリセリン(→ローション?)を塗っているような感触。
肛門を開かれて、異物が私の肉体を逆流している。
二人の看護婦が「口を大きく開けて息をして」とか私にアドバイス。
前日にアレルギーを調べるために私から血液を注射で抜いた看護婦は、「昔と違って今は内視鏡も細くなったので痛くないですよ」と言っていたので、「じゃあ、看護婦さん、一緒にやりましょう」と言うと、「お断りします」とキッパリ言われた。

異物は肛門をまっすぐ昇ってくる。
で、壁にブツかり曲がる。ここが「S字結腸」。一番の難所らしい。
が、あらら。スルスル。意外と楽。

「仰向けになってください。」と言われ、上を向いてヒザを折って足を組まされる。まるでベッドで本を読んでいるポーズ。違うのは肛門からシッポが生えていること。

腸をふくまらせるためか、肛門から空気みたいなものが注入される。
これが気持ち悪い。オナラを逆にしている感覚か?

でも、スルスル大腸を通り過ぎ、小腸という突起された個室に到達。
「いやー、若いヒトは楽ですね。」「ホント、毎回こーだったら1日に何人でもできるのにね。」などと、医者と看護婦が会話してやがる。
「えっと、久保さん、こちらを向いてください。」
そこにはモニターがあり、まさしく私の「♪からだの 裏側」が映っている。
「ここが小腸です。」と医者は嬉しそうに彼にとっては見慣れた迷路を解説してくれる。

ピンクのジャバラ・ホースの裏側を見せられた感じ。ワリとキレイ。
医者は「きれいな腸ですね。ポリープはありませんし、もちろんガンなんてありません。腸もたるんでいませんし、まったく健康です。便に血が混じっていたと 言っても肛門の周辺も傷もオデキもありませんし。しいて言えば、薄い皮膚の部分から滲んだのかもしれませんね。」と、ニコニコ。

なんじゃら。ほんじゃら。
何だったんだ?この数日は?
でも便に血が混じっていた事実の原因は?目視では分からなかったのだから、かなりビミョーなのかよ?
うーん。しいて言えば、私はウォシュレットを最強にして使うからか?・・・・・・で、肛門の近くの皮膚が薄くなってた?・・・・・・分からん。

■病院近くの古本屋で、
@安東次男『近世の秀句 芭蕉から一茶まで』
A道浦母都子『男流歌人列伝』
を買う。
安東は今年の4月9日に82歳で死んだ。彼は「日本にはハンサムな詩人が2人いる、1人はおれだ」と言っていた。生き残りとして(?)私も余生(?)を楽しみたいものでごじゃる。


(1月17日早朝)
国一つたたきつぶして寒のなゐ  安東次男

(一九六九・一・一八、十九)
力の差越えてゆくものなお持ちて手錠の友ら護送車に消ゆ  道浦母都子






テレビ★『テレビ朝日「やじうまプラス×2」』 2002,8,15
■沢田研二が1980年の年末に発表したアルバム『G.S.I love you』は、1960年代サウンドと80年代ニューウェーブの絶妙な融合という良くできたコンセプト・アルバムだった。
その中の一曲、「I'll be on my way」は、評論家の三浦雅士の妹の三浦徳子が歌詞を書いている。彼女はヒット曲「ス・ト・リ・ッ・パ・−」の作詞も担当しており、「TOKIO」で糸井重里が開拓したポップながら意味深な歌詞路線をさらに追求している。
「I'll be on my way」自体はたいした歌詞ではないのだが、ジュリーが自然体で歌う歌詞「♪時計がわりの モーニング・ショーTV にやけた男がジョークを 飛ばすよ」が私の耳に残っていた。

■この曲が発表された1980年、沢田研二(1948年6月25日生まれ)は32歳。30代の男が、結婚して妻の入れるホット・ミルクで目覚め、 出勤前の時間をモーニング・ショーTVで過ごす。と、言う当たり前の日常を否定はしないが、「I'll be on my way」(我が道を行く)と断罪する曲。
■1948年生まれ、ネズミ年といえば、団塊の世代のど真ん中。いわゆる全共闘世代の中心だ。そんな彼らも、日常に溶け込んだのか?というのがアルバムのコンセプトの1960年代と1980年代のサウンドの融合と同時に時代の比較として浮かび上がってくる。

■確かに、「時計がわりの モーニング・ショーTV」は便利。私の一日もコレで始まる。

■それでは、ジュリーがそう歌った1980年当時のモーニング・ショーTVというと何をさすのか?
→おそらくは、日本テレビ『ズーム・イン!朝』だろう。「にやけた男」とは、徳光アナウンサーその人のことだろう。
歌詞を書いたのはジュリー本人ではないにしても、彼は大の巨人ファン(→※特に当時は王選手のファンで、ベスト・アルバム『ロイヤル・ストレイト・フラッ シュ』の題を『ホームラン』にしたかったそうだ。で、当時、30歳を過ぎてもガンバルことを、「サダハル」とジュリーが命名していた。もち、王サダハルか らきた言葉。それにしても、元タイガースがジャイアンツ・ファンでいいのか?サッカーはコンサドーレ札幌が好きらしいが。)なので、前夜の巨人の試合結果 によってテレビでの言動が大幅に左右する徳光アナのパフォーマンスには共感しながら見ていたと・思う。

いや、もちろんジュリーはサラリーマンじゃあないし、当時は超★売れっ子だったので、毎朝規則正しくモーニング・ショーTVを自宅で見る生活ではないでしょーが。
ちなみに当時のジュリーは一日の最初の仕事の開始時間の2時間前に起きて、まずシャワーを浴びることから始まっていた。
アルバム『ス・ト・リ・ッ・パ・−』には、やはり三浦徳子の作詞による「シャワー」という曲があって、「♪体の内側に 血が飛び散っては 止まらない」という80年代ほとんどビョーキ・サウンドで、非常にカッコイー。
沢田研二のポリドール最後かつテレビ常連時代最後のアルバム『ノン・ポリシー』のタイトル・チューン「ノン・ポリシー」は、テレビ構成作家の秋元康が書い ているが、この曲のブリッジ部分の歌詞は「♪雨が降っても 晴れになっても 問題なのは シャワーを浴びる温度ぐらいだよぅおう」というのがある。

これらの曲を聴いていた当時の私は、風呂無し&トタン屋根のボロ・アパートに住んでいたので、朝起きてスグにシャワーを浴びる生活に究極のブルジョワを感じていた。
なんてったって、銭湯に行く金を惜しんで玄関で水浴びをしていたのだから。

それから、サラリーマンになった私は、まずは風呂&シャワー付きのアパートに引っ越した。
そしてそこで、「♪時計がわりの モーニング・ショーTV」を毎朝見る生活が始まったのだよん。
サラリーマンから自営業者に変わった今も、そのパターンは変わらず、夜に風呂は入らないで朝にシャワーを浴びている。


■こうして20年近く「♪時計がわりの モーニング・ショーTV」を見てきた私だが、ここにきて少し変化が起きた。
その変化に気付いたのは、やはりテレビ朝日の『やじうまワイド』が終わったからだろう。

■おそらくは、日本テレビ『ズーム・イン!朝』はスタート当初は画期的な番組であったと思う。
だって、それまでの早朝テレビ番組は、NHK的ニュースや、アニメの再放送とかでお茶を濁していたんだろーし、ソフト蓄積のまだ少ないテレビ局はゴールデ ン・タイムに力を入れていたんだろーから、朝のデッド・ストックみたいな時間帯に力を入れる気にはならなかったんだろーなぁ。

そこで、すきま産業的に登場したのが「朝の情報番組」という新ジャンルの『ズーム・イン!朝』だったんだろーなぁ。

■この番組の成立の背景として、日本の産業構造の変化が考えられる。
つまり、「産業構造の変化」=「労働環境の変化」だ。
それまでの早朝番組の代表は、NHK『明るい農村』だった。
日本人の大半は江戸時代以前の流れで、農民であった。
しかし、高度成長時代、および敗戦後の団塊の世代(=まさしく沢田研二の同級生たち)というベビー・ブームによる労働力の大量の余剰と都市部での会社就労により、日本人の最多労働種目は農業からサラリーマンへと変化する。

そこで準備されたのが、出勤前の「♪時計がわりの モーニング・ショーTV」だったワケだ。

しかも、『ズーム・イン!朝』は、日本テレビという読売ジャイアンツを手放しで応援できる免罪符(?)が与えられていた。

かくして、”巨人の勝敗を話題に、安酒場で憂さ晴らしをする企業戦士”という日本人像が完成した。


■さて、ジュリーが「I'll be on my way」でそんなサラリーマン生活を歌った翌年、モーニング・ショーTVは次の段階のイノベーションを行う。
それが、81年4月スタートのテレビ朝日『やじうまワイド』(午前5・50〜)であった。
この番組は、新聞の朝刊紹介などのスタイルを開拓した。

考えてみれば、朝の情報番組に『ズーム・イン!朝』以外に選択肢が無かった頃、私がその番組中で一番好きだったコーナーは午前7時30分ごろの「集英社の雑誌」の生CMだった。
今でも雑誌のテレビCMは珍しいが、私はこのスタイルに興味を持っていた。
つまり、マスコミ就職希望っぽい当時の私にとって、活字メディアの新しい展開は、こんな・ささいなことですら、興味の対象であったのだ。
この集英社の生CMでは、その日発売の雑誌『りぼん』とか『週刊プレイボーイ』、『少年ジャンプ』などを紹介していた。

ちなみに、その時間帯の前後にあった同番組のコーナーは、「ウィッキーさんの英会話」と、「7時31分31秒」という特集コーナーだった。なつかしーっ!


■さて、そんな・たかが雑誌のCMぐらいで喜んでいた私。
それって、活字メディアと映像メディアの結合という興味であった・のかもしれない。

そんな時に、新聞の活字をブラウン管一面に広げて、記事を紹介しつつ、新聞そのものの批評もしてしまう『やじうまワイド』は、新鮮な興味を私に与えてくれた。

■番組は81年4月に『おはようテレビ朝日』の1コーナーとして開始。吉沢一彦アナウンサー(47)、当時局アナの古舘伊知郎(47)らが進行役を務め、 新聞の朝刊紹介などのスタイルを開拓した。吉沢アナは85年の番組昇格後も司会を続けてきたが、22年目の今年7月で「卒業」となった。
テレビ朝日広報部では「司会、出演者の一新は大改革の一環。朝の番組戦争を勝ち抜くため、より分かりやすい内容、構成を検討中です」と事前に説明していた。

結果として、7月以降は、出演陣をすべて一新。内容も雰囲気も大幅リニューアルし、新しいスタイルの番組に変わった。

新司会者は、テレビ朝日の局アナ、飯村真一になった。
21年にわたり司会を務めた吉沢一彦アナウンサーの辛らつな語りは聞けなくなった。

っーか、変わってみて分かったにだが、私は早口で新聞の記事を紹介するという密度の濃さを、
朝の忙しい出勤前の時間の密度に重ねて、ブラウン管の向こう側とリズムを共有していたのだ。

だから、7月以降の飯村アナや女性アナの佐分千恵らによる新聞の読み方のスピードは、『やじうまワイド』と比べると、はるかに遅くなった。しかも、新聞記 事内からの引用が長くて的確ではない。つまり、テレビを見ている者は、ただ新聞が映っているだけの静止画像を見せられながら、かったるい棒読みの相手をさ せられる・だけなのだ。

そんなスピードと長い引用であれば、視聴者はテレビではなくて、自ら新聞を読んだほうがマシ。
しかも、ダラダラの新聞読みに加えてのコメンテーターの解説が薄い!
ああ、嶌 信彦(しま・のぶひこ、1942年中国・南京生まれ。)さんや、頑固オヤジ風のコメンテーター、元毎日新聞記者の三宅久之さんが懐かしいー!

加えて、7月中は新番組スタートのせいか、準備&リハ不足のためか、キャスターや構成にミスが多かった。
朝の情報番組は、短い時間にサクサクと密度を濃く情報を盛り込まなくてはいけないので、数秒の構成ミスが命取りになる。視聴者は残酷にチャンネルを切り替えるのだ。それも、わずか5秒以下の画面で判断して。

■かつての『やじうまワイド』にも欠点が無かったワケでもない。
私が不満であったのは、7時30分以降の芸能ニュースのコーナーだ。
数人用意されていたベテランの芸能レポーターは、ただ芸能雑誌の二次加工のスピーチばかりで、彼ら自身の存在理由を、自らのお粗末な「解説」で否定していた。
■その裏番組、フジテレビ『めざましテレビ』では、登場当時はキモイ男であっただけの軽部真一が、「スキャンダル」中心路線ではなく、「エンターティメント」紹介路線を進めており、それがいつのまにか成功していた。
ここには、フジテレビの「事業本部」という興行を目的とする別部隊の存在がある。
つまり、一見、「情報」として放送しているエンターテイメント・ニュースなのだが、実はフジテレビが主催or後援する興行の「宣伝」なのだ。
サルティンバンコがその代表だが、この時間帯で繰り返し「情報」として流すことにより、日本人にとって身近ではなかった興行が有名なイヴェントに育ってしまう・という魔法。

■確かに、いつの間にか「芸能」の環境も変わっていたのだ。
例えば、キムタクやモー娘がスキャンダルを起こしても、テレビ局は積極的に追及しないであろう。
彼らはテレビ局にとっては、金を持ってきてくれる大切な「お客様」なのだから。
「稲垣・容疑者」が「稲垣・メンバー」とすりかえられた記憶は新しい。

■しかし、私はスキャンダルに朝の貴重な時間を割かれるよりは、新しい映画や舞台の紹介を知りたい。
だから、この変化は歓迎する。
問題は、テレビ局の「宣伝」を「情報」とすりかえられるゴマカシをクリアにしてほしい・ということと、「宣伝」以外の有益な「情報」も的確に紹介してゆく優れたバランス感覚が求められている・とゆーこと。

『やじうまワイド』も最後の数年は、芸能ニュースに映画の解説を加えたりしていた。
が、その解説が芸能レポーターが気取って話すわりには、低レベルであった。
こっちは朝の忙しい時間に、てめーらに付き合ってんだどぉ!


■以上の「芸能」の取り上げ方にもイノベーションがあるように、モーニング・ショーTVにも、『ズーム・イン!朝』以降、変遷があった。

私としては、1980年代後半は、よくTBSの生島ヒロシの番組を見ていた。
生島ヒロシがベストとは思わないが、人情が似合う徳光アナや、勘違いプライドの高い古舘伊知郎(47)よりも、好感が持てたのだ。結局、視聴者なんてのは与えられたチャンネル数から選ぶしかない。

■そー言えば、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』という歌番組の司会が井上順(=おお!ザ・スパイダースのリード・タンバリニスト!)から古舘伊知郎(47)に変わった時は、本当にイヤだったな。
あの番組の終了近くに、ストリート・スライダーズが出て「エンジェル・ダスター」かなんかをやったんだけど、歌の前の古舘伊知郎(47)とのカラミの時に、村越さんたちは、みんなノラリ&クラリで、古舘伊知郎(47)がイライラして怒っていたなぁ。
村越さんたちにとっちゃあ、アレがいつもどーりなんだけど、テレビ言語が当たり前の古舘伊知郎(47)は、自分がバカにされたと思ったのだろう。ゆかい&ゆかい。

■生島ヒロシの失脚(?)は、おそらく1991年の宮沢りえのヘア・ヌード写真集『サン・タフェ』からだろう。
なんてったって、番組開始のシーンから、宮沢りえの乳首のアップだった。
おかげで私は、あの写真集を見なくても主だった写真をチェックできた。

確かに、あの放送当日の最もニュース・バリューがあったのは宮沢りえの乳首であったのだから、番組制作者の意図はジャーナリストとしては正解だったと私は援護する。
が、翌日、生島ヒロシは神妙な顔で宮沢りえ&写真集スタッフに謝罪していた。

確かに、あんなに内容を見せられると、買わなくても分かる・かも。


■まぁ、そんなコトもあったが、生島ヒロシは、そのダサイ風貌のわりには、コンサバな雰囲気の徳光→福留の『ズーム・イン!朝』路線よりも魅力的だった。
生島ヒロシの魅力的なフットワークと比べ、明らかに、徳光→福留の巨人軍バンザイ路線はオヤジ路線として位置付けられたのだ。

■ここに、「明るい農村」→「巨人ファンのサラリーマン男社会」→「OLの増加」という就労者構造の変化が読み取れる。

■それと重要なのは、オヤジは朝起きたら、新聞を持ってトイレでクソして出勤するが、OLはシャワーを浴びる。そう、ジュリーのように。10数年前は「朝シャン」とかで髪の毛だけだっただろーが、どーせ顔もゴシゴシ洗わねばならないんだし、シャワーだべさ。
と・ゆーことは、ドライヤーをかけたり、全身のほてりをとったり。
つまり、オヤジよりも朝、テレビの前にいる時間が長いのだよ。

■日本テレビも他社のモーニング・ショーTVが、ひそかにOLをターゲットにしている点に遅まきながらに気がついたようで、徳光→福留の巨人軍オヤジMCから、局アナながら、とんねるずと絶妙のカラミを演じていたハイ・テンション男、福澤朗をメイン司会者に持ってきた。

これは微妙な選択であったハズだ。
福澤朗の個性は、とんねるずなどとのアナーキーなカラミの坩堝から発揮されるものであったのだが、早朝番組では「家族」という最大公約数をマーケットにある程度は抑制された司会が要求されるからだ。
日本テレビが、もし、福澤朗をゴールデン・タイムで自由に展開させていたら、新鮮な番組が創造できたかもしれなかった。しかし、その可能性を犠牲にしてま でも、『ズーム・イン!朝』を復活させる大きな課題が日本テレビにはあったのだ。つまり、いつの間にかモーニング・ショーTVは、全部のテレビ局がしのぎ を削る重要な時間帯に成長していたのだ。

■しかし、日本テレビは、どこかセンスの悪い楽屋オチの伝統があり、そこから脱皮できない。
それは深夜の江川卓などが出るスポーツ番組での、くだらない演技に現れている。
それも&これも、巨人軍が官軍という「他者」を受け入れられない体質からきた田舎芝居だ。

■いまだに、『ズーム・イン!朝』でもブルー・シャドウを使った、幼稚なトリックを使っている。もう、だれも驚かないし、笑わないよ。あ〜あ。

■福澤朗というエキセントリックな逸材を無個性な学級委員長的MCに押し込めたのが、そもそもの間違いなのに、『ズーム・イン!朝』のスタッフは番組が盛り上がらない理由を、別の点に求めたようだ。

■モーニング・ショーTVのコマーシャルは、化粧品や高感度女優による飲料とか、どー考えても出勤前のOLがターゲットの中心になっていたのよ。

■そこで安易(←ごめんね。)な日本テレビは、福澤アナだけじゃあ、OLにアピールしないであろーと考えて、NHK育ちのタレント、大桃美代子を加えた。
しかし、今のところ、福澤アナ同様、大桃の魅力はこの番組では生きていない。

■日本テレビの悪あがき(=工夫か?)は、大桃と同時に投入されたコメンテーターのメンツでさらに明らかになった。
番組コメンテーターとして、佐々淳行、久保潔、橋本五郎、河上和雄が加わった。
さらに、新聞キャスターとして、辛坊治郎。
これらのメンツに、日本テレビのテレビ朝日『やじうまワイド』に対する対抗意識が読める。

『やじうまワイド』は、全編、イスに座ったまま、新聞を読み、それをコメンテーターが深く解説してゆくという、いわば「密室」的番組であった。
それに対して、『ズーム・イン!朝』は、日本テレビ系列の全国のキー局アナウンサーが日本中の野外から生でレポートするという「野外」的番組であった。

日本テレビの側から見れば、テレビ朝日の手法は、新聞を読むだけ=他人のフンドシでハッケヨイ&ノコッタしてるだけじゃんか!と・なる。
全国のレポーターが自らの足でレポートする努力&財力は、イスに座って新聞を読むだけの番組に負けるわけが無い!

しかし、明らかに『ズーム・イン!朝』の魅力は減退していた。
そこでご出演願われたのが、テレビ朝日に対抗する右翼的コメンテーターであって、ここで「密室」性のバランスを構築したというワケだ。

あまり触れたくないが、ついでなので触れておくと、『ズーム・イン!朝』のコメンテーターって、バカなんじゃないの?

■この2つの局の「密室」型と「野外」型の中庸に、TBSの生島ヒロシの「ラジオのDJ」型があったわけだ。しかし、「ラジオのDJ」型は魅力の有る司会者=DJがいなければ成り立たない。
TBSは、その社風のビミョーにマジメな点から、生島後、司会者に恵まれず、1990年代の後半はモーニング・ショーTV界で辛酸を舐めることになる。
そこで起死回生と、輸入してきたのがフジ・テレビOBの露木茂であった。
このライバル会社のアナウンス部長を輸入する、しかも明らかに賞味期限が切れている人物を選ぶ、という点にTBSの憎めないトロくささがある。

だいたい、街角レポーターに、『アッコにおまかせ!』で成功してから仕事を選んでテレビから消えた(?)、ハッヒ・フ・ヘ・ホー吉村を使うという持ち札の棚卸的布陣である。

「英語コーナー」なんてのもあって、かつての『ズーム・イン!朝』のウィッキーさんの21世紀版とゆーか、もろパクリで、クリステル・チアリとかパックン(パトリック・ハーラン)といった飛び道具も使っている。

ただ、救われるのは露木茂と共にメイン・キャスターをしている久保田智子のニュー・トラルさだろうか?

■このTBSのモーニング・ショーTVのタイトルは、『おはよう!グッデイ』という。
http://www.tbs.co.jp/goodday/cast/cast.htm
安易ながら、無難なタイトルであろう。

色々とTBSのは(=にも?)失礼なことを書いたが、露木路線になってから、明らかに個性も出ている。
それは、「健康」路線だ。
つまり、内臓がどーだ・とか、健康食品がこーだ・とかいう「健康」をじっくり考える路線である。これはMCを露木というジジイにした言い訳にしても、実は意外としっくりする。
これは、明らかに、みのもんた『おもいっきりテレビ』の中高年狙い路線を参考にしているんだろーが、考えてみれば、今のところ他局には無い路線なので、この展開に希望がある。私には興味の無い話題だが。


■さて、そんな他局のバタバタをよそに、さすがフジテレビ、着実に『めざましテレビ』のコンテンツを充実させていっている。
http://www.fujitv.co.jp/jp/

とくにこの春からは、本当に細かいところまで手を抜いていない番組作りをしている。

たとえば、早朝、5時55分からのニュース。
これは、あえて午前6時にしていない。そこにも憎たらしい計算が有る。
「6時」というキリのいい時間には全局がいっせいに、ファンファーレを鳴らす。
『ズーム・イン!朝』の初期の時代はサラリーマンは午前7時に起きていればよかったが、今や土地問題は深刻さを増し、ノンキに7時に起きるようではマトモな就職はできない。
そこで、「6時」なのだろーが、目覚まし時計をビミョーに早くしておいてベッドの中でまったりする数分。コレを利用したのが「5時55分」。このニュースは6時をはさんで、さらに数分続く。けっして他局のファンファーレにチャンネルを変えさせないゾという計算だ。
しかも、フジ・テレビのスゴイのは、数あるニュースの中でその日最も大衆の興味をソソるニュースを5時59分45秒過ぎに持ってくる点だ。こーすれば、6時に目覚めた人も他局のタイトルを見るよりも、こちらのスタンバイ後のニュースの方に食指が向くであろうし。

■そして、それだけではない。フジテレビの工夫は他にもある。
@ニュースの出だしに、内容を言うのではなく、興味をそそる謎賭けを言う。
たとえば、「女子大生、殺される」とは言わずに、「殺されたのは、女子大生でした」と言う。
このレトリックは、日本テレビも夜のニュースで採用しているが、短いニュースを機関銃のごとく並べる時に有効である。

Aテレビ画面上に、伝えるニュースを箇条書きに並べる。これは最近はほとんどのテレビ局がやっているコトだが、この時の文字デザイン、画面デザイン、BGM、めざましキャラの文字とのアニメでのからみ、などフジテレビのデザイン作業が最もすぐれている。
これは視聴者をあきさせない効果と、なんだか高級=ハイ・センスな番組に参加しているという印象を与える。

Bニュースを読むアナウンサーは、あえてクールに朗読。
『ニュース・ステーション』以降、フランクなアナウンサーが定番だが、朝一番はあえて、クールに決めて、このニュースを見てから出勤しなくてはいけないという雰囲気を演出。


これらの教訓を与えてくれたのは、おそらくNHK−BS『ニュース50』であると思う。
この番組は、各時間の50分に10分間だけコンパクトに、その時点で重要な事件をまとめて報道する番組である。
『ニュース・ステーション』などで長尺のニュース番組に馴れた視聴者にとって、10分だけで全ての情報がGETできるなんて、チョー便利。

朝の時間には、特に重宝だ。
きっと、7時50分からの10分間に、NHK−BS『ニュース50』を見ようか、フジテレビかテレビ朝日の占いを見てから出勤しようかと悩む人は多いんじゃあないだろーか。


■そーなのだ!
NHK−BS『ニュース50』がやっていることの一面は、『やじうまワイド』がやったニュースのコンパクト化というコンセプトの延長であるのだ。


■しかし、その『やじうまワイド』も『やじうまプラス×2』になってから、どーも中途半端である。かつての硬派な切り込みはないし、フジテレビのようなエ ンターテイメントの話題のボリュームも無い。だいたい、東大出身の西脇亨輔とかいうアナウンサーの勘違いキャラは鼻につくだけだ。本人の将来のためにも、 キャラの修正をしておいてほしいところだ。
http://www.tv-asahi.co.jp/yajiplus/contents/profile/index.html

■そんな中で、TBS『おはよう!グッデイ』の久保田智子のニュー・トラルさと同様、唯一、可能性を感じさせるのが、もう一人のメイン司会の阿部美穂子だ。
テレビ朝日のウェッブ上の紹介文は下記の通り。

タレント、女優。1975年東京都生まれ。TBS「王様のブランチ」黄金期の中心メンバーの一人。
主な出演番組はNHK教育「ハングル講座」、
BSフジ「週刊BSデジタルマガジン」(いずれも司会)、TBS「一攫千金夢家族」(ドラマ準主役)など。他にもラジオ、コラム、CMと幅広く活躍。
“究極”のタヌキ顔に明るく素直な性格、強烈な天然ボケ、しかも趣味(?)は「早起き」と、
早朝番組MCの資質を全て備えた10年に1人の逸材。
特技は料理、着付け、ダンス、水泳、短距離走、ソフトボール、韓国語など多彩。

「“究極”のタヌキ顔」、つまり、これまたファニーフェイスだ。
NHK教育「ハングル講座」を司会で経験したというビミョーなインテリでもある(?)。

■私が、阿部美穂子に可能性を感じたのは次の会話からだ。

飯村真一「某国のピスタチオに有害物質が入っているというニュースでした。」
阿部美穂子「キャー!こまっちゃう。」
コメンテーターの先生「いや、困る必要はありませんよ。今は商品の袋に産地を記載する義務がありますからね。それをチェックすれば問題はありませんよ。」
阿部美穂子「でも、私、マンゴー・プリンが好きなんです。」
コメンテーターの先生「え?」
阿部美穂子「だって、マンゴー・プリンの上にピスタチオが乗っかっているんです。それには産地は書いてありませんよね。」
コメンテーターの先生「うーむ。(絶句)」

こんな発言に真実はあるものだし、コメンテーターの底の浅さも同時に暴露している。
いっそのこと、『やじうまプラス×2』は、阿部美穂子だけを残して総入れ替えしたらいいのかもしれない。


■さて、モーニング・ショーTVの歴史を20年以上にわたって振り返ったわけだけど、ここまで何人が読んでくれたのだろーか?
まぁ、そんなコトはいいが、最後にどうしても付け加えておきたいことがある。

■この20数年のモーニング・ショーTVの歴史の中で、特別な時期が1990年代の中盤にあった。
それは、1995年1月17日であり、同年の3〜5月である。
1995年1月17日の早朝のモーニング・ショーTVは、まるでゴジラ映画のように都市に煙が上がる映像を、日本中のお茶の間に流した。
それから、3〜5月には、モーニング・ショーTVの放送時間に合わせたかのように、警察&機動隊がオウム真理教のサティアンへ突入した。
それらを、出勤前にリアル・タイムで生放送で紹介したのがモーニング・ショーTVだったのだ。

■早朝&突然の震度7の阪神大震災。そして、サリン、拉致などで死者を続出させたオウム真理教。
それらは極端に不幸なできごとだった。
が、同時にテレビ製作者は、あまりのニュース・ソースに製作思考が中断したのではないのだろうか。
素材が良いので料理の必要なし。←まるで北海道の刺身料理のように。

もし、1990年代後半のモーニング・ショーTVの停滞の理由がソコにあるとするのならば、
我々は「不幸」と「ジャーナリズム」の意味を少し考えておかなければならない・のかも・ね。


■今日は、敗戦記念日。



 





映画★『熊井啓監督「海は見ていた」』 2002,8,7
■午前中、仕事をバタバタとやっつけて、スーツに着替える。
着替えながら、8月10日が締め切りの俳句雑誌『氷原帯』へ提出する俳句をひねる。
するすると数分の間に6句できる。

@青嵐(あおあらし)君のスカートのはじまるところ
A南風(みなみかぜ)主人のいない入歯あり
B夏の雨濡れることより触ること
C夕立が僕を追い抜き駆け抜ける
D雷雨後の櫛(くし)には髪が付いている
E夏の露最長老の詩人死す

最後の句は、8月3日に95歳で死んだ伊藤信吉へ。
『氷原帯』へは7句必要なので、もう一句。
「夏山路」の季語で考えるが、浮かばない。時間だ。出発しよう。


■午後1時集合の、石狩市新港工業団地にできた「ホクレン・パールライス工場」へと、ミーのカーで南下。片道2時間。

いい天気。
海沿いの山が青い空に溶けそうに青い。
「夏山路」の季語の句を、
F目を閉じて空に溶け入る夏山路
と、運転しながら、ひねってみる。

「石狩市」と言っても北海道以外の人には馴染みがないかも。
ここは小樽のスグ横。「新港」というぐらいで、海に隣接している巨大な工業団地だ。
巨大すぎて、あたしゃ、道に迷ったよ。

今年の5月に完成したばかりの総工費43億円の新工場は、見学者用のコースもあり、
「製造」過程のディスクロージャーが最大の「営業」になるという時代の空気を先取りしている。

■まさしく、ここに着くまでに道に迷いながら、聴いていたラジオのニュースでは、
日本ハムの「国産牛肉買い上げ事業」に混入していた輸入牛肉焼却の不正問題が繰り返されていた。

日本ハムと言えば、数年後に北海道にフランチャイズされるパ・リーグ球団の親会社。
北海道は雪印ショックを、日本ハムでまぎらわせようとしている矢先に、コレだもんなぁー。
コンサドーレも、また負けちまったし。ふにゃぁ〜。

■こんな四面楚歌の中で、ホクレンのみが43億円も投入して、巨大な牙城を構築するのは、
道路政策に代表される「北海道開発局」政策の農業バージョンの税金投入システムがあるからであろう。
グローバル化は、北海道から「土地・人件費」の安さの特権を引きずり落とした。
農民は、「なぜ消費者は中国から輸入される安い米やネギを買うのだ!?」と憤る。
が、その農民の肉体にまとわっているユニクロの服は中国製なのに。

■それでも、私はこのコルホーズの末裔の可能性を贅沢な傍観者として、これからも見てゆきたい。


■現代のノイシュバンシュタイン城、ホクレン・パールライス新工場を出たとき、雨が降り出した。

■小樽へ向かう海岸線を軽く過ぎて、札幌へ向かう。雨はどんどん激しくなってゆく。

■札幌の北海道近代美術館へ飛び込む。
ここでは『ゴッホ展』の最中。さすがに前回来た時の『スカンジナビア風景画展』と違って、激☆混み!
平日の夕方なのに、ブロイラーのごとく有閑マダムを中心とするお行儀のいい行列がズラリ。

オランダの「ゴッホ美術館」こそ見ていないが、パリとニューヨークのほとんどの美術館を見ている私にとって、今回の『ゴッホ展』は出品点数こそ多いのだが、作品として魅力のあるものが少ない。
その「魅力」とは「有名」という意味ではなく、初見のショックが少なかった。

それでも、キューレターの工夫は必要であり、今回の『ゴッホ展』の英語タイトルは、『テオ・アンド・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ展』。
おお!今回の「ゴッホ」とは、弟テオも含めたファミリー・ネームのゴッホなのね!
そー言えば、今回の展示のハイライトでもある「ゴッホの手紙(←ああ、ここでもゴッホは個人名ではなく家族名。)」には、母親ゴッホの手紙も印象深くある。
テオの「家計簿」なぁ〜んてのもウヤウヤシク、ガラス・ケースに展示してある。

この展覧会の直前に、テレビや単行本で、「ゴッホの自殺の新説」が話題になった。
このジャーナリスティック(?)な情報環境も、今回の激☆コミを準備していたのは明らかだ。

こうしてズラリと並ぶ「ゴッホの手紙」は確かに感慨深い。
小林秀雄じゃあないが、確かに日本人のある世代の青春の書として『ゴッホの手紙』はバイブルだった。
私にとっては、1983年に哲学者・西田幾多郎を研究する目的で生地の石川県宇ノ気に行った時、居合わせた年長の女性から推薦された本が『ゴッホの手紙』であった。
ポスト・バブル期のバカ者の青春の書にはなるまいが、デフレ&ハローワーク期のプーには青春の書になるかもしれない。
つまり、時代が不幸になれば、『ゴッホ展』が激☆混み?

んでも、先ほど述べたように今回の『ゴッホ展』は正確には『ゴッホ一家・展』。
手紙も、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのは2通しかない。
しかし、その中の1通は、弟テオから届いた封筒をそのまま、便箋(=びんせん、と・ヴァン・ゴッホ?なんちゃって。ごほん。)にしたという、おいおいお前、紙も買えねぇのかよ状態。ゆかい、ゆかい。

手紙コーナーで私が一番「おお!」と思ったのは、テオに出したモネの手紙。
う〜む。モネ、優雅な文字。高級な家紋入りの封筒セットにゆったりとしたスペースに文字。
ビンボーくさいゴッホ一家の紙全体に文字を細かく埋めて、書くだけ書くぞという情熱と違うねぇ。

あ、そっか。
限られた紙(=スペース)にできるだけ文字を書いてゆく。この過剰な情熱。
過剰な情熱を離れた肉親へ伝達する(不器用だが)たった一つのメディア、それが「ゴッホ(一家)の手紙」か。
そこには表現の原型がある・ような気すらする。

■こうして「作品」よりも「作家のネームバリュー」ありきでボリュームのみが先行する展覧会っーのも、なんだか最近増えた半額だけが売りの「新古書店」みたいだな。
それでも、どんなゴミ古本屋にも最低、1冊は魅力のある本がひっそりと隠れているっーのが私の持論です。それは、そんな本とのカクレンボごっこのような本探し。
まぁ、ソレとゴッホを比べては失礼千万だけど、魅力ある1枚をゴミタメ(←ああ〜、又もや失礼。)から見つけだすのを試されているというゴッホからの挑戦状。

さて、絵の話もしましょうか。
『ニュー・アムステルダムのはね橋』に代表されるゴッホの初期の絵は、
あのゴッホ独特の彫刻刀のストロークのような筆跡で表現はされておらず、古典主義的な静謐な画風。
ここには修行時代の上昇志向のゴッホと、ストイックかつ不器用なテーマを選んでしまう生涯の予感が同居している。

ここいらの画学生的に描いている絵は、それほどでもないが、いわゆるゴッホ画風を確立した後のゴッホの絵は……、あー、えーと、ヘタクソです。ごめんね、ゴッホ。

私たちは『ひまわり』とか『星月夜』とか有名な作品で、彼の個性が幸福に名作を生んでいる姿を当たり前のように記憶しているし、それらをいつでも脳味噌の中で思い出すこともできる。

んがぁ、今回のようにゴッホの傑作以下の作品をしこたま集めた展示によって、私たちはゴッホの絵のヘタクソさを確認できるのだ。あー、ありがたや。

つまり、今回の『ゴッホ(一家)展』の最大の良さは☆ここだ!

そして私たちはヘタクソなのに、永遠の傑作を量産したゴッホの特殊さに改めて驚かされるのだ。
考えてみれば、セザンヌにしてもゴッホにしても印象派の人の多くは、テクニックより、ギミックの斬新さで驚かせて、一発!という感じだ。しかもあの宮廷画家全盛の直後に!
これって、プログレッシヴ・ロック全盛の直後に登場した、パンク・ロックやニューウェーブ(おお!『NO NEW YORK』!)みたいじゃんか!

だから、ゴッホの「超☆傑作」と「超☆傑作」の間に存在していたであろう語られなかった欠落部分を埋める「駄作」の展示として、今回の『ゴッホ(一家)展』は貴重なサンプルなのだ。

なぁ〜んだか、かなぁーり・ゆがんだホメ方だなぁ、我ながら。

いや、でもホントにそう。
そういう見方で見ると、面白い作品がけっこー・あるぞ。
たとえば、

『教会の信者席に座る救貧院の人々』ハーグ時代、1882年9月末〜10月初 水彩・インク・鉛筆、紙
▲これなんか、3年後に描かれる有名な『馬鈴薯を食べる人々』(1885年)をホウフツさせるプロレタリア絵画だ。
アップされた一人一人の表情をていねいに書こうとして「失敗(!)」しているゴッホが、かわゆい。

この絵のとなりにあるのが、
『種まく人』ハーグ時代、1882年12月 鉛筆・インク・白のハイライト、紙
▲絵画界のパンクス(←耳を切って&ピストル自殺なんて、元祖シド・ヴィシャス?)にとは言え、リスペクトする先人への思いは大きかった。特にゴッホ前期は、何度もモチーフに使った『種まく人』の作者ミレー。ゴッホ後期は、やはり日本の浮世絵。
何度も描かれた『種まく人』だが、鉛筆で描かれたこの作品には習作ならではのリアルさがある。

『種まく人(ミレーによる)』サン=ミレ時代、1890年2月(?) 油彩、カンヴァス
▲同じ『種まく人』でも、こちらは「耳切り事件」と「ピストル自殺」の間に描かれた作品。
ヘタクソと言うのもいいかもしれない。それほど、太い手足に関節などのデツサン無視の作品。
しかし。しかしだ、彼にとって一番不安定であった時期に、こうしてじっくりと油絵で再びミレー『種まく人』に向かい合ったという事実は重い。
そう想像すれば、不自然に太い手足も、ゴッホの不安の裏返し=存在できる根拠を求める病んではいるが強い意志を感じる。
彼は死のフチで、何の種をまきたかったのであろうか?
この作品は会場の出口にある。

『雨』ハーグ時代、1882年頃 水彩、紙
▲再び初期の作品だ。先ほどの鉛筆による『種まく人』の近くに展示されている。
今回の展覧会で私が最も気に入った作品だ。
小さな紙に少ない色と筆数で描かれた水彩画だ。
構図も単純で、雨の中の数人の人物の立っている姿が不安定に紙の少し上部に書かれているだけだ。
同じゴッホの水彩画でも『ニュー・アムステルダムのはね橋』のように大きな紙にじっくり描かれた大作とは違う。言ってみればスケッチの延長だ。淡くて明るい色の組み合わせはデュフィを思い出させる。
そして、群集の絵なのに、先ほどの『教会の信者席に座る救貧院の人々』や『馬鈴薯を食べる人々』のように、登場人物の顔や表情が省略されている。
つまり、これは今回の全展示の中で最もゴッホらしくないのかもしれない。
でも、もし今回の全展示作品から1品、私にいただけるのであれば、コレがいいなぁ。

『花咲く桃の木:モーヴの思い出』アルル時代、1888年3月 油彩、カンヴァス
『花咲くアーモンドの木』アルル時代、1888年4月 油彩、カンヴァス
▲これは田園風景に奥いきの無い平板な色使いで木が前景に描かれている。太い枝。平らな花。
これぞ、ジャパネスク浮世絵。
ゴッホの最も有名な浮世絵コンプレックスの絵は、その名も『日本趣味・広重の梅』であろう。
日本趣味という彼にとってのソフィスティックな世界。
ゴッ ホ『日本趣味・広重の梅』の元ネタは、歌川広重『亀戸梅屋鋪』だが、オリジナルも空が赤くて地が緑で、そこに黒くて太すぎる梅の枝。主役の梅の花の可憐さ を消すかのようなディーモニッシュな作品だ。なんだか横尾忠則の作品みたい。実際、1960年代の天井桟敷のポスターなんかにあったアイディアかも。
それに比べると、ゴッホ『日本趣味・広重の梅』は幼稚なキッチュさすらある。
今回展示されているこの2作品は、そこまで露骨に浮世絵をなぞってはいない。
発表当時は、説明が無ければヨーロッパ人には浮世絵の影響を指摘するのは難しかったのではないであろうか?
今、こうして何の説明も無く西洋人の風景画に日本の浮世絵の影響を感じ取れる不思議さ。

『石のベンチ』サン=ミレ時代、1889年11月 油彩、カンヴァス
▲後期になり、グルグルうずまき乱発時代。
ただ、この絵の筆のストロークは、ムンク『叫び』を連想させる。もう一つのゴッホの狂気だ。

『夕べの散歩』サン=ミレ時代、1890年5月 油彩、カンヴァス
▲これもヘタクソ。かつ、途中で手を抜いたかのように、中央の庭が薄い単色で色紙のように単純に塗られている。その中央の不在がヘンテコリン。
ただ、この絵には「糸杉」が描かれている。
グルグルうずまきの自然界の表出者=糸杉を描くことができれば、ゴッホはもう満足だったのか?

『糸杉』サン=ミレ時代、1890年2月頃 葦ペン・インク・黒チョーク、紙
▲上記作品と同時期の糸杉もの。糸杉もゴッホが好んで何度も採用した作品だ。
ただここでは「葦ペン」のタッチを楽しみながら、糸杉の枝を炎のように末端パラノイアのように描いている。当時生きていたフロイトがこの絵を使ってゴッホを精神分析していたら、どんなにか魅力的な報告書が書かれていただろうか。
ちなみにフロイトは1886年にウィーンで精神病院を開業して、結婚。ゴッホの死の10年後の1890年に有名な『夢判断』を出版している。そして、ゴッ ホもようやく死後10年にして世間から評価される。ここに、芸術に作者の「物語」を求める大衆の興味を見て取れるが、それと『夢判断』の成立の社会背景は 無関係には私にはみえないのだよ。
ついでに書けば、フロイトが死んだ1939年に第二次世界大戦が始まった。

『医師ガシェの肖像』オーヴェール時代、1890年5月 エッチング、紙
▲『ひまわり』や『糸杉』や風景画が有名なゴッホだが、『馬鈴薯を食べる人々』で見せた人物への観察眼も興味のあるところ。この絵も決してすばらしいとは 言えないが、2ヵ月後に自殺する人間が医師を虚無的ながら、見つめなければ絵は描けないと言う因果の底で筆を重ねていった作家の疲れを見て取れる。

さて、今回の展示にはゴッホ以外の周辺作家の作品も展示されている。


エドゥアール・マネ(1832−1883)『婦人の肖像』製作年不詳 黒チョーク、紙
▲マネ!私が最も好きな印象派の作家です。
ゴッホが広重のマネ(?)をして、黒く太い梅の木を描いたけれど、マネは誰よりも黒を魅力的に描いた画家だった。
この『婦人の肖像』は黒チョークで書かれたデッサン画。しかし、絵のヘタなゴッホをたっぷり見た後、マネの絵の上手さがよーく分かる。デッサン画のためか完成した作品ではないが、顔は執拗に描き込んでいる。女性の顔の筋肉が想像できるほどだ。
くらべれば、ゴッホには必要な無いテクニックであったのかもしれない・の・だ・が。

エミール・ベルナール(1868−1941)『祖母の肖像』1887年 油彩、カンヴァス
▲私にとっては、あまり意識的に見てきた画家ではなかったけれど、この絵にはドキリとさせられた。
こんな出会いも、こんな企画の副産物だ。

さて、ゴッホの晩年を少々、おさらい。

1888年12月友人の画家ゴーギャンとの対立からの神経症になり、自分の耳を切断。

1890年7月27日ピストル自殺。

■さて、今日の日記の「ゴッホ編」の最初に書いたように、私にとっては、1983年に哲学者・西田幾多郎を研究する目的で生地の石川県宇ノ気に行った時、居合わせた年長の女性から推薦された本が『ゴッホの手紙』であった。
その西田幾多郎の研究会を東京に帰ってからも、哲学が専攻の複数の大学の大学教授や学生などと「東京無学会」という名で続けていた。参加者の中で私だえが、哲学が専攻ではなかったのだが。
その会の会報『炬火』1985年2月号Vol.14に私が『「確信」と「不安」 そして、その弁証法としての「狂気」』という論文(?)を寄稿している。
その中で私はゴッホが『烏のいる麦畑』を描いて自殺した前の年の1889年に、哲学者ニーチェが狂人となって創作力を失い、廃人となったことを分析している。
この1889年にドイツでは、哲学者ハイデッガーとアドルフ・ヒトラーが誕生しているのだ。ウィーンでは、フロイトが「ブロイアー浄化法」を使用し精神医 学に新しい地平を切り開いていく。ムンクは1893年製作の『叫び』に向けて狂気を研ぎ澄ませて行く。日本では、この年、明治憲法が発布。そして西田幾多 郎は、なんと中学校を落第している。


■と、色々書いたが、私が『ゴッホ展』の会場にいたのは20分ほどであったろうか。
あまりの混雑ぶりに、行列の後ろからスタスタ歩いて見たのだ。
しかも、展覧会の図録カタログを買ったワケでもないので、これらは会場で私のマブタに記憶された残像を思い出して書いたのにすぎない。

ところで、北海道近代美術館に提案したいことがある。
札幌市内にある無数のギャラリーを紹介するスペース、総合チラシ、ホーム・ページを作ってみてはいかがであろうか。
このように『ゴッホ展』に群がる美術消費者を、地域のギャラリーでさらに教育すべきだ。
それとも、ライバルに客をとられたくないのかな?

■最後の『種まく人(ミレーによる)』まで見てから、私はもう一度、お気に入りになった『雨』を見に、会場の人波を逆に泳いで戻った。

■美術館を出ると、雨はさらに激しくなっていた。走ってミーのカーに戻ってラジオをつければ、午後4時のNHKニュースのトップで再び、日本ハムの不正焼却事件。

■昼飯を抜いていたので、美術館近くのビル裏の狭い路地の雑居ビルの地下にあるカレー屋「スリランカ共和国」へころがりこむ。
髪の毛をチャーリー・ワッツのように短く刈り込んだ初老に近い中年の女と、ちょっと見はイイ女の中年初心者がヒマそーに、店のスミでしゃがんでいた。
15年ほど前はよく来た店だ。
メニューにも、「18年前に札幌に初めてスリランカ・カレーを紹介した店」と自慢げにワープロ打ちしていやがる。確かに、スープ・カレーでは草分けだ。最近、平岸にakiler氏の友人がスープ・カレーの店をオープンしたらしいが、どーなんだろうか?
カレーの味は2番から100番まである。辛い。
前回最後に来た時は、ちょっと大きな番号で注文して、全部食べ切れなくて、チャーリー・ワッツ・ヘアーのオバハンに、「食べれんのなら、頼むな!」と怒られたっけ。
今回は久しぶりなので番号の相対的価値が分からず、注文に悩む。
「スリランカ・カレーの10番。セットで、ドリンクはチャイで。」と、ライス付きの1,350円を頼む。
カレーが来る前に新聞で映画の始まる時間をチェック。あ、午後6時45分からか。
カレーが来た。スープの中に骨付き鶏の足、なすび、しめじ、馬鈴薯。
私もまた、『馬鈴薯を食べる人々』(1885年)か。
やっぱ辛い。が、水無しで食べた。カレー・スープ、美味い。鶏肉も美味かった。また来よう。

■えーと。まだ午後5時前なので、「古本市場・伏見店」に行ってみる。前は通るが、初めて入る。
大きなスーパーマーケットのような古本屋だが、やっぱり・とゆーか、いわゆる「新古書店」のオバケ。ここは半額どころか定価の6割引!ここでむりくり2冊を探し出す。『ゴッホ展』で、むりくり『雨』に出会ったように。

@ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』
A『風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く』聞き手 森まゆみ

@はインド系の美人作家。ニューヨーカー系の新人作家の短編集。
高校時代とかにサリンジャーやマラマッドの短編集を読んだが、当時はニューヨークもロサンジェルスも、ニュージャージーもカンサスも同じアメリカだ。と、 思っていたが、昨年ニューヨークに行って、ニューヨークの中でもアッパー・イーストサイドとトライベッカでは全く違うとか分かってきたし。まぁ、このよく 売れた本の初版本を6割引で買えて・良かった。

Aの森まゆみは、先日、買った『一葉の四季』の著者。おりから、次の紙幣に樋口一葉が採用されたことが世間を賑わしている。
美人ではないがファニー・フェイスの童顔の森まゆみは、かなりの才女で、Aでは死んでからさらに神格化されている山田風太郎に、彼女の東京下町フィールド・ワークによる知識と独特の編集センスで巨人の浮き彫りに成功している。

これらの本を濡れないように抱いて、どしゃ振りの雨の駐車場のミーのカーへ。


■映画館に到着。ギリギリ、午後6時45分に間に合う。
映画は熊井啓監督の『海は見ていた』。
巨匠・黒澤明の残した脚本の映画化。しかも原作は山本周五郎。ついでに、「日活創立90周年記念作品」。
こりゃ、クロート好みかにゃ。どーりで観客も広い映画館に10人ほど・か。

私と言えば、主演女優の遠野凪子が、私の住む=沼田町を舞台にしたNHK連続ドラマ小説『すずらん』の主演だった義理みたいなもん。

で、映画は、あー、うーん、『ゴッホ展』レベルかなぁ。

正直言って、この映画で一番得をしたのは、遠野凪子だ・と思う。
(日本では)一流のスタッフを揃えた中心で主役を演じられたんですもの。ねぇ。
彼女がNHK『すずらん』で演じた”耐える女”は確かに、清楚で寡黙なイメージの彼女にピッタリだった。
が、このままでは彼女の演技の幅は広がらない。
今回の共演者、清水美砂も当初は同じであった・と、記憶している。
「若さ」の商品価値が減少した時に、女優は試される。そして、同時にブレイク・スルーのチャンスも体験できる。
が、遠野凪子には、それに耐える逞しさが私には感じられない。
なんだか、中年期をジャンプして、リリアン・ギッシュの映画『八月の鯨』みたいな清楚なおばあちゃん女優になったらいいような感じだ。
しかし、そうはいかない。
彼女の本番はこれからだ。安易に寿★引退を選んでしまいそうなひ弱さが気になる私だが。

映画は江戸の街の鳥瞰風景から始まる。もち、コンピューター・グラフィック。
3日前に映画『タイムマシン』でCGにちょい食傷気味になった私だが、クロサワ映画の出だしにCGを使って得意になっている老いたスタッフに優しい微笑を。

話は単純で、「実らない売春婦の恋」がテーマ。
恋をするのが遠野凪子の演じる、「おしん」。
あれ?おしん…と言えば、NHK連続テレビ小説のヒット作のタイトルじゃんか。
と言う訳じゃあないだろーが、全体的にNHK好みのキャストであったり・も、する。
純情な遠野凪子に、しっかりものの先輩の清水美砂。わきを固めるデコボコ・コンビが、つみきみほ、河合美智子。この4人が岡場所(幕府公認の売春宿)”葦の屋”で働く。
”葦の屋”?ああ。スグに、私はさっき見たゴッホの『糸杉』を描いた”葦ペン”のタッチを思い出す。
私は清水美砂は生理的に苦手なタイプだが、キャスティングは成功していると言っていいだろう。
河合美智子のバカ丸出し演技は相変わらずだが、監督の意図には合っているし。
特記すべきは、つみきみほの少し見せる狂気であろう。遠野凪子が、惚れた男に裏切られた後に見せる演技は少しやせた彼女の体重コントロールかと思わせるほ ど、将来への楽しみを垣間見せる。私は何度かスクリーンの彼女から夏木マリを連想した。←いや、これはいい意味で。ホント。

さらに常連のご隠居に、石橋蓮司。清水美砂のヒモのヤクザに、奥田瑛二。
奥田瑛二のワザトラシサは、これまた私の苦手だが、この映画ではバッチリだ。
この二人のひょうひょうとした演技が、黒澤明の求める「先ず、粋に行きましょう」というコンセプトに説得力を与える。

「粋」と言えば、中盤に突然、岡場所の通りを踊りながら出てくる若い男(ごめん、名前が分からん。)がいい。こいつがこの映画で一番、光っていた。

この「粋」男に比べると、遠野凪子の惚れる侍役の吉岡秀隆も、二番目に惚れるチンピラ役の永瀬正敏も、ダメ。ダ〜メ。
だいたい、私は吉岡”『北の国から』”秀隆は、元々、ダメ。
日本以外では俳優になれなかった男でしょう。日本には、っーか日活には、浜田光夫(=映画『キューポラのある街』1962年とかで吉永小百合と共演した俳優だよん。)という純情男の伝統があり、安易な映画には役に立つ俳優なのよ。

永瀬”キョン2の年下夫”正敏も、せっかくテレビでヘンテコ探偵を演じて世界を築こうとしているのに、今回は、残念賞。

そして、最もダメなのが、遠野凪子。とは、言いません。
彼女は彼女なりにがんばっている。でも、男に裏切られた泣き顔と、水害で死にそうな泣き顔が同じでイイの、熊井監督ぅ?

いくつか私にでも、この映画のダメな点を指摘できる。
先にも書いたようにこの映画の骨子は「実らない売春婦の恋」だ。
で、二つの恋が映画の前半と後半に短編を2作見せられるように不器用に並んでいる。まぁ、それはイイ。
んが、この「実らない恋」、すんごく映画的テーマなんだけどさ、致命的なのが、主人公の遠野凪子にも、出てくる二人のバカ男にも、だぁ〜れにも観客は感情移入できないのだよ。
文豪☆山本周五郎の設定が安易なのか、天皇☆黒澤明の脚本が甘いのか、巨匠☆熊井啓の手腕が鈍いのか、それとも、その全てなのか。私のような一介の米屋には分かりまへんどす。

映画は登場人物に感情移入できなきゃ、ただのバカどもの狂言に暗闇でじっと付き合わされるダケになっちゃう。

が、この付き合いに飽きてきた頃に、スコーンと「粋」な雰囲気で登場するのが、先に述べた名前の分からん若い俳優だ。こいつは身軽に踊り、三味線に合わせて歌う。
私はこの瞬間に夭折した天才☆川島雄三の名作『幕末太陽伝』を思い出したよ。あの映画こそ、粋だった。主演をした若きフランキー堺は、数十年後に夢よもう 一度と、『ええじゃないか』をプロデユースする。黒澤明にとって、同世代の映画監督で小津安二郎や木下恵介はキャラが違うが、同じエンターティメント作家 として、死んでからでも川島雄三を追い抜いておきたかったんじゃあないんだろーか?

確かに、あの名も知らぬ俳優が岡場所を歌舞伎のような大ぶりの踊りで群集を引き連れて登場するシーンは輝いている。
そうだ。CGなんかをオープニングにするぐらいであったら、このシーンを最初にもってきた方がかなぁーりマシだ。そして、この男を狂言回しにして、年配の男の色気を石橋蓮司に、江戸ヤクザの粋を奥田瑛二にまかせれば、映画の魅力はかなぁ〜り増すぜ。

確かに、この映画で最も魅力的だったのは、名無しの若者の登場から、ヤクザ奥田が清水美砂にドメスティック・バイオレンスを振るうシーンだ。
ほ〜ら。この魅力的なシーンに、遠野凪子も吉岡秀隆も永瀬正敏も、まったく出てこないんだよ!ぎゃふん。

んで、映画は終わり近くになっていきなり急展開。
急に激しい雨が降り出す。
お江戸は深川の少しはずれの海のそばにある岡場所なもんで、台風が突然やってきて、大水害になる。水が葦の屋の階段を一段ずつ埋めてゆく。

確かに、クロサワ映画に「雨」の名シーンは多い。『七人の侍』の雨の中の戦いのシーンは有名だし。この『海はみていた』同様に、死後に作られた映画も『雨あがる』だったな、確か。

NHK−BSの深夜の映画番組に、この映画『海は見ていた』の宣伝に熊井啓監督と遠野凪子が出ていた。
あー、遠野凪子ちゃん、中途半端に新しいファッションと髪型で、やっぱ、いまいちなのよねぇ。残念!
で、熊井監督が「私は本当は、あのクライマックスの水害のシーンにかなり大量の水を使いたかったのだが、だめだった。××トンの水を”葦の屋”にぶっかけて家を壊したかった。13秒のシーンだったんだが。」と残念そうに言った。
私は、実はこの一言で、この映画を見る気になったのさ。
つまり、実現されなかったシーンへの監督の情熱があれば、映画全体に緊張感が行き届いていると思ったからだ。
まぁ、えーと、これは、俊輔を外したトルシエ・ジャパンの演出したモチベーションみたいなものさ。

それと、「13秒のシーンだったんだが。」というのもスゴイよね。
13秒は短いけれど、映画の洪水のシーンとしては長い。重要。
その緊張感ある13秒が、2時間ほどの全体に行き届いているのか・と、吉岡秀隆のように純情な私は思っちゃったのさ。

でもねぇ。
確かに、岡場所の群集シーンなんかは美しい美術だったけど。
例えば、最も重要であろうラスト・シーンの舞台となる水害に沈んだ葦の屋の屋根から見る夜空。
ばかにすんじゃねぇ!っー感じです。
それと、清水美砂の見る流れ星。これもダメ。しかも、太い流れ星が二つ。黒澤明であれば、細い流れ星をシャープに一つしか流さないんじゃーないだろうか?分からんけど。

そうそう、その星空、「天の川」もあった。
今日、8月7日は、北海道では七夕だったな。

最後の最後に、海の水が陸に上がって水浸しになって屋根だけが水の上に残って、雨もあがり、ひとりぼっちになった清水美砂が、女の強さ&たくましさを表現するセリフを言い、この映画は終わる。
黒澤明で言えば『どですかでん』的終わり方か?
それでも、私は監督が最後に持ってきた清水美砂の決意表明にも共感は持たなかった。

救いは脇を固めた数人の俳優の健闘。
私は、残酷なことを想像した。もしもジュゼッペ・トルナトーレ監督がこの映画を撮ったら、もっと良くなったのではないのか?
『マレーナ』で女の悲しさ&美しさを表現した彼、『海の上のピアニスト』で海を表現した彼。『ニュー・シネマ・パラダイス』で群集劇を描ききった彼であれば、同じモチーフでも、さらに魅力的な作品に昇華できたのではないだろうか?


■そんなことを思いつつ、映画館を後にして120km北にある自宅へとミーのカーは走った。
すごい雨。
ラジオで繰り返す、日本ハムの偽装焼却事件。
CDで、ジミ・ヘンドリュックスの『ボールド・アズ・ラブ』を爆音で聴く。

ゴッホは日本にあこがれて、南フランスへ向かった。
その奇妙であるが純粋な愚行が、奇蹟の作品を生んだ。
しかし、その奇蹟と奇蹟をつなぐ線にある作品は駄作であったという教訓。

激しい雨に、ゴッホの『雨』を思い出し、映画『海は見ていた』の豪雨シーンを思い出す。
あ、「夏山路」の句、
F夏山路ヴィンセント・ヴァン・ゴッホあり
は、どうだろーか。だめかな。

古本屋で買った二冊。
美人作家のジュンパ・ラヒリと、童顔の森まゆみが”葦の屋”で働いていたらどうだろう?

雨はさらに激しくなり、ワイパーはぐるんぐるん、最高速度で往復。それでも前は見えない。真っ暗だ。




映画★『サイモン・ウェルズ監督「タイムマシン」』 2002,8,4
「タイムマシン」 
(ワーナー・ブラザース映画/配給)上映時間:1時間36分

企画:サイモン・ウェルズ
監督:サイモン・ウェルズ
出演:ガイ・ピアース、サマンサ・マンバ 他

1899年冬。若き科学者アレクサンダーは、恋人エマに指輪を渡して結婚を申し込む。
その時、ピストルを持った強盗が現れ、エマは胸 を撃たれ息を引き取ってしまう。その日からアレクサンダーは、憑かれたように研究に没頭する。彼が研究していたのは、「あの日」に戻って過去を変えるため の機械、つまりタイムマシンだったのだ。そして、完成したタイムマシンに乗り込んだアレクサンダーは、目盛りを「あの日」に合わせる。
(C)2002 WARNER BROS. & DREAMWORKS, LLC.


■これも又、ニューヨークの映画だ。
19世紀末の馬車が行き交い、男は山高帽をかぶるロマンの時代。
このレトロなシチュエーションに、レトロな恋愛がのり、レトロなデザインのタイムマシンが飛び交う。
けっこー私の好きな☆ゆるい雰囲気。
特に、ゴシック調のタイムマシンのデザインは最高。
当時、ようやく自動車が発明された時代にタイムマシンとは、あまりにも背伸びしすぎだが、
蒸気で動くタイムマシンというヘンテコさも思考停止で楽しみたい。

■んが。
後半は一気に、サイバーSFの世界へ突入する。
2030年のニューヨークに行った主人公は人類が月を開拓しているという人類文明の絶頂期を知る。
ここで、1899年から2030年へタイムマシンが飛ぶ背景になるマンハッタン島全景の発展の図が魅力的。にょき&にょき伸びる摩天楼たち。早回しで20世紀のニューヨーク建築の歴史を体験している錯覚。悪名高きコンピューター・グラフィックでも、こーゆー時は美しい。

さらに、主人公は数十年の未来へ。
そこで、月が地球に落ちてくるパニックを体験。
さらに、映画の後半はなんと、80万年先の未来へ!
そこは「猿の惑星」だった。……あははは。でも、そーなのさ。
どこかユーモラスであった映画の前半と違い、まるでまったく別の映画のような「語法」でグロテスクな未来の弱肉強食の世界を描いている。

ここで、主人公はグリーン・ピースやヒッピーの生き残りみたいな自然主義者の人類に出会う。
会話はテレパシーか?と邪推する私を腰砕けにするように、
80万年後の未来人は子供の頃、学校で「古代語」として英語を習っているから教師と子供とは会話ができる!
なんじゃぁー、そりゃぁー?英語は古代ギリシア語のように教育カリキュラムに入っているのか?
こんなご都合主義が盛りだくさんなところは、なんとなく&やっぱ、レトロSFがベースっちゅー感じ。

■それにしても、レトロ・ロマンの前半と、サイバー・グロテスクの後半では、まるで違う映画のようだ。
例えれば、ザ・ビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」のように違うものを無理やりくっつけた作品みたいだ。
もちろん、両者とも、違う「語法」の軋轢を一つの鍋の中で料理するのであるから、ある種のダイナミズム、もしくは表現のパースペクティブが演出される。

しかし、とまどうのは映画会社のマーケティング部であろう。
この両面を持った映画を、どう宣伝してゆくか?

この文章の冒頭に転記したのは、この映画のネット上の紹介文章だ。
これだけ読むと、恋人エマとの時間を巡るラブ・ロマンスかと思っちゃうよね?
このように、ほとんどの告知や、映画チラシにさえ、後半のサイ・グロ(=つまり、サイバー・グロテスクね。)には触れていないし、グロい未来の猿人間(?)の写真もパブリには採用されていない。
この宣伝コントロールに、ある種の意図を私は感じるよ。ここ、ポイント。

もしこの映画が、冒頭から『未来都市ブラジル』や『ハンニバル』みたいな映画であれば、
映画会社の宣伝部も、「サイ・グロ映画の決定版!」とかゆーコピーで展開するのでしょうが。

公開の時期が時期だけに、少年時代に科学未来小説『タイムマシン』を読んだオヤジが息子と見に行ったり、ラブ&ラブな恋人同士が時空を超えた永遠の愛を確認に行ったりしてんだろーな。

でも、オヤジは、「う〜ん。お父さんが読んだ本とは何だか違うなぁ。」と言い、小さい子供は途中で退席をねだったり。
ラブ&ラブちゃん達は、主人公が80万年後のヒスパニック系の女に鞍替えしたのを見て、あぜん。

■繰り返すけれど、私は前半のメグ・ライアン映画みたいな雰囲気も好きなのよ。
でも、これが歴史だ。←と、監督は思っているかどーかは・分からん・が。

■ちなみに、監督サイモン・ウェルズは、原作者の末裔らしい。それも、この映画の話題のひとつ。
末裔だからこそ、逸脱した個性を見せたかったのか?

■どうも全体的にネガティヴな印象になるけれど、
タイムマシンのレトロ・ゴシックなデザインや、
2030年のニューヨーク市立図書館にある3D解説者(ガラスに投影されたデータ・マシンの人間像)のアイディアは魅力的だよ。次、がんばってくれ、サイモン君。



■映画後、私は行きつけの中古CD屋「レコーズ・レコーズ」へ行き、中古CDを2枚買った。

@VAN MORRISON/ヴァン・モリソン『BLOWIN' YOUR MIND/ブロウイン・ユア・マインド』(1967年)
http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Arch/ES/VanMorrison/ESCA-7742/

AContortions、Teenage Jesusu And The Jerks、Mars、D.N.A.『NO NEW YORK』(1978年)
http://tcnweb.ne.jp/~another/no_ny/index.html?Main2=ny_nonewyork.html

両方とも以前から欲しかったCDで、流通がレアなので「幻の名盤」とか言われているやつだ。
@のヴァン・モリソンはアイルランドの歌手がロンドンでゼムというロック・バンドでヒーローとなった後、ゼム解散後、友人(ビートルズでも有名な「ツイス ト&シャウト」の作者)の作った新しいレーベルに参加し、ニューヨークに渡って録音した名盤。ほとんどスタジオ・ライブのノリで、いい感じのR& B。

この名盤を発表直後、そのヴァンの友人は心臓麻痺で死んでしまう。
又、このアルバムには9分を超える当時としては異例の大作、「T.B.シーツ」というグルービーなブルースも収録されている。「T.B.」とは、結核の意味。なんでも、ヴァンの女友達が結核で死んだことをテーマにしているそうだ。
つまり、このアルバムは陽気なポップスであるのだが、35年後の私たちには死の影が見て取れる。実際、この後、ヴァンは一時期は恋人との蜜月期のアルバム 『テュペロ・ハニー』もラブ&ラブなジャケットで出すが、分かれたり、なんだり&かんだりで、魂のさまよいをしてゆくのだよ。
まるで、映画『タイムマシン』。

Aは、1970年代後半のニューヨークのビレッジやソーホーに起こったパンク〜ニューウェーブの記録。4つのバンドの生々しくも鋭角的な演奏が、重要な記録になっている。
プロデュースがブライアン・イーノということで当時、このアルバムにより、一気にニューヨーク・パンク・シーンがクローズ・アップされた。
私は非常に懐かしく聴いたよ。このシーンの関係者が日本に戻ってフリクションを結成したりしたんだよなぁ。しみじみ。

■あ!両方ともニューヨーク。
しかし、その間の10年間に、音は大変化しているのだ!そう、まるで映画『タイムマシン』の前&後半のように。

思えば、1970年代のロック・シーンとは、ジミ・ヘンドリュックスから、ニナ・ハーゲンまでの10年間だった。
じゃあ、1980年代の10年間は?ニナ・ハーゲンから、プリンスへの10年間?
1990年代は、プリンスから、ベックへの10年間?

ああ、そして1960年代はビートルズからビートルズの10年間だった。

■それじゃあ、もしタイムマシンがあったら私はいつの時代に行きたいか?
とゆー、ベタな質問でこの駄文をしめよう。
私はやっぱり、1960年代後半のスィンギング・ロンドンに行きたいねぇ。
っーコトで、ここは映画『オースティン・パワーズ ゴールド・メンバー』に期待するのを結論としよう。ぎゃふん。





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