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久保兄だよ。

アートなオヤジの、文科系★不良日記!


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小説★『久間十義「魔の国アンヌピウカ」』 2002,2,7
1990年に『世紀末鯨鯢記』で、第3回三島由紀夫賞を受賞した時から、久間十義の発言や書評も目に付くものは読んできた。
『世紀末鯨鯢記』の帯には、「ネオ・サイケ・ロマン」と書いてあって、そのコピーだけで、私にとって買う&読むに充分な価値の匂いがしていた。

その「サイケ」と言うコトバは、1990年当時はまだ時代錯誤であったと記憶しているが、
それを新鮮に感じさせるのに充分に「サイケ」な工夫が、その作品には仕掛けられていた。

その「サイケ」で個性的で魅力的な文体は、彼が「社会派」の道を進むことにより、
分かり易い「物語」を必要とせざるをえなかったためか、おとなしくなる。

たとえば、それは2000年に発表された小説『ダブルフェイス』に欠点として現れる。
この小説は、一流企業のOLが夜は売春婦であった女性が殺され、ネパール人が逮捕される・という実話が元になっている。
同じ素材で、佐野眞一はノンフィクション『東電OL殺人事件』を書いた。
評論家の小浜逸郎は、両方の作品が同時に出版された当時に朝日新聞に比較書評を書いている。
それぞれ、小説とノンフィクションと手法は違う。
小浜は、小説『ダブルフェイス』に手厳しい。

「文章のきめが粗く 会話やストーリー展開もB級テレビドラマの定型をなぞっているようなところが目立つ。結末も中途半端だ。」(『朝日新聞』2000年7月2日)

■ツライところだが、久間の弱点を鋭く突いている。
『世紀末鯨鯢記』はギミックの多用により、そんな弱点が隠れていたのかもしれない。

あまりにも衝撃的な事実は、よほどの想像力がなければ、小説より、事実をなぞるノンフィクションの方が手法的に優位なのかもしれない。

■それでも、小説の可能性を信じて、久間はテーマを「現代」に求めている。
その姿勢を私は指示したい。

■たとえば、『世紀末鯨鯢記』の次の作品『ヤポニカ・タペストリー』(1992)は、大本教の出口王仁三郎や、関東軍参謀の石原莞爾らを織り交ぜ時空を自由に行き来して書いている。

■1995年の『魔の国アンヌピウカ』は、その手法の延長にある。
ある意味、問題作だ。
具体名は出てこないが、明らかに北海道日高管内平取町にあるアイヌの聖地である二風谷を水没させて作ったバブル期の貧しい遺産である「二風谷ダム」をモチーフの中心にしている。
二風谷ダムの工事を推進した人が読むと不快になるであろう。


◎「二風谷ダム」のレポート『聖地は水の底に』


ここにも分かり易い図式がある。

・苫小牧東部大規模工業基地(苫東)のズサンな行政の計画。

・土地を転売する土地コロガシ。

・バブル。

・バブル崩壊後の「地域づくり」活動。

・苫東が単なる税金の無駄な捨て場にしかすぎないのに、同じ方法論を繰り返し、
 ついにはアイヌ人の聖地である二風谷にダムを作ってしまう愚かさ。

■ここにも、『東電OL殺人事件』のようにノンフィクションのテーマと素材がウジャ&ウジャしている。
しかし、男・久間十義は小説家である。
このテーマに「物語」の想像力で立ち向かう。

そこで使った想像力が、UFOと超能力(=アイヌの呪術)。・・・・・・あはは。
小浜逸郎の先述の批判がそのまま使えそうだ。

■ちなみに、久間はこの舞台のそばの新冠町で生れている。競馬馬の産地だ。
小説の中で小学生の作文にこう書かせている。

「こんなに馬がいるかというと、むかし、ご料牧場といって天のうへいかの牧場があり、そこでイギリスやアメリカから買った馬をそだてていたからです。その馬たちの子そんが、いまのきょう走馬なのです。」
さらに、その母は、

「牧場地帯いったいのアイヌが、御料牧場の開場とともに元あったコタン(集落)ごと強制移住させられたのを知った。」

■こんな記述もある。

「アイヌ系住民たちも軒並み借金づけの農薬をさせられているからだ。」
「やれ化学肥料だ、耕運機だ、トラクターだと、やたらに金のかかるばかりの農業指導だった。購入する資金が足りなかったら、いくらでも農協がお貸し致します、などとおためごかされ、」

■これらの記述は「物語」には直接影響しない。むしろサイド・ストーリーだ。
どちらかというと、これらはノンフィクション的記述だ。
これらを読んで不快になる権力者はいるだろうし、それを作者も計算していそうだ。

こういった記述が多く引用されることで、作者が取材にかなりの努力をしたことが分かる。

その「事実」の取材を普遍的な「物語」に昇華するのがまだまだ求められる。

しかし、その引き算を頭に入れても、久間の「現代」に向かう姿勢は貴重であり、日本人作家の中でも、重要な存在である。




クラッシック音楽・コンサート★『西本智美+札幌交響楽団「チャイコフスキー・3大バレエ」』 2002,2,2
>2月2日(土)に「地域づくり人全道交流会」(主催:北海道庁と地域づくりネットワーク北海道連絡会議)が開催されました。
 全体の参加者数は約150名弱と例年に比べて若干少なめでしたが、
酪農学園大学の松本懿先生による「基調講演」や
平成13年度北の・みらい塾塾生による「研修発表」、
3つのテーマに分かれて実施した「分科会」、
第2部として実施された交流会などを通じて、
全道各地から集まった方々による交流・意見交換などが行われました。


■上記は、道庁地域政策課の方からのメールからの転記です。私も、コレに参加させていただきました。
当日、参加者に配られた資料用の「参加者PR」に私は下記のように書きました。


「松本懿教授には申し訳ありませんが、『意識改革』を結論にする抽象論や、レトリックがロジックに勝るコンサルタントの大道芸には、もう20年前から食傷気味です。それでも魂を焦がしたいのであれば、もう北海道知事にトヨタやソニーの社長さんになっていただくのがベストなんとちゃいまっか?」


■で、上記のコメントを読んだ他の参加者が私の席へ来て、「久保くん、ケンカ売ったね」と笑う。

が、松本教授だけが、そーなんじゃなくて、この集まりに参加している「地域づくり」のエキスパートの方々が、多かれ少なかれ、この「地域づくり小児病」(←久保の造語)に犯されている・と、思うよ。

「分科会」に参加した私は、なんだか、
@ポスト土建事業に相応しい新しい北海道開発事業を探る公務員のバタバタ、
ANPO(非営利団体)のように利益を追求しないことによるミニ行政袋小路、
・・・・・・ってゆーか、
「元気を出」して、「あきらめない」命綱としてのコトバ、かもしれないが、
ひと時代前のキャッチフレーズの繰り返しで停滞しているように感じる。

だからこそ、参加者の一人として私も「打開策」を提案する責任もあるのかもしれないが、
私は、せいぜい、勘違いしていると感じる発言に、やんわりと否定の理詰めをすることぐらい。
↑でも、こういった会議で、否定発言をニヒリスト的にするのは・かっこよすぎる。
なんだか、つらいのだ。

■私は、「分科会」後の「なかよし」交流会に参加する勇気(?)が出せなかった。

■にゅるり・と、会場を抜け出した私は、歩いて10分ほどの古本屋「ザリガニヤ」へ行った。
そこは、木造モルタル2階にある10坪ほどの超・狭い空間だが、3mほどの壁でマンガ家の「森雅之・作品展」もギャラリー風に行われていた。
2月11日には、森雅之のサイン会も行われるらしい。
古本のラインナップのセンスも、いー感じ。解散したペヨトル工房の本も「サポーター」在庫している。

へこんでいた私も、「おおぉ!」。

なかよし&こよしの袋小路じゃああ無い「地域づくり」って、こんなところから沸いてくるのかも。


■んで、がぜんパワーの付いた私は、そこから1時間歩いて、札幌コンサートホールKitaraへ行った。
そこで、午後6時45分から、クラッシック音楽・コンサート★『西本智美+札幌交響楽団「チャイコフスキー・3大バレエ」』が行われるのだ。

■指揮者の西本智美は、パンフレットによると1994年大阪音楽大学作曲科を卒業というから、30歳?
黒の燕尾服を、細長い長身にまとい、ハイヒール、美形、まるで宝塚の男役みたいだ。
3歳からバレエを習っていたというからか、少し開いた長い足を踏みしめて、腕をダイナミックに振り、指で繊細に指示するのは、なんだか「かっこいい」。

■プログラムは、『眠りの森の美女』、『くるみ割り人形』、『白鳥の湖』。
どれもバレエ音楽だから、長いので、今回はもちろんダイジェスト。

西本は、ロシアでも音楽留学したためか、曲の解釈は非常に古典的。
シンプルに切り上げてもいいエンディングを重厚な音で仕上げたりもしていた。

北海道公演も、札幌交響楽団でタクトを振るのも初めてだという彼女だが、オーケストラを見事に纏め上げていた。
若い女性の指揮者であるので、楽団員も楽しんでいたのかもしれないが、
バレエ音楽特有のギミック的な楽器の複雑な組み合わせも、見事に練り上げていた。
例えば、管楽器や鈴やタンバリンも含めた打楽器などの賑やかさは、マーラーの出現がチャイコフスキーによって準備されていたのではないかと楽しい想像をしてしまう。

いくつかの楽器に未熟さが表出したのは、しかたないとするべきか。
『くるみ割り人形』第13曲「花のワルツ」は有名な曲だが、ソロをしたクラリネットが下手クソすぎた。
だからというワケでもないが、西本の本領は、このように聴き慣れた曲よりも、地味で「芸術」性の高い曲のほうに発揮されていたように感じた。
たとえば、「花のワルツ」に続く第14曲「パ・ド・ドゥ」は、見事な深い造形を表現していた。
この曲は東洋的と言うのだろうか。ロシア的解釈が楽しめた。

こういう曲を聴くと、昨年、ニューヨークのThe Frick Collection(フリック・コレクション)で見た、ロココ調の絵を思い出す。
その連作は、少女を主人公にした「花と夢」的な油彩画だが、中に1枚、ロシアをテーマにした絵があった。
19世紀のヨーロッパにとって、ロシアはあこがれの地だったらしく、
少女が雪の中をソリで走っている。笑顔で。が、ファッションは、まるで夏服。
その幼稚な設定が、無邪気にロシアにあこがれるヨーロッパ貴族の当時の気分を表していると思う。
ロココとは、そんな能天気が生んだ奇跡の花園でもあった・のかも。

んで、そのヨーロッパの東へのあこがれを形成したのに、チャイコフスキーのバレエ音楽はかなり大きな貢献をしたんじゃあないのかいな?

■今回は、オーケストラのみで、バレエは無かったが、今度こそはバレエで観たい!と、思ったのさ。

指揮者の西本は、日本人でも珍しくオペラにも積極的に取り組んでいるようだ。期待しちゃうよ。


■さて、会場のKitaraも、オケの札幌交響楽団も、「行政」の施設だ。
これらは補助金の幸福な使われ方・であると思う。

しかし一方、酒の席とかで、「趣味はクラッシック音楽鑑賞です」と私が言ってもギャグとしてはウケるだけだ。
その程度のレベルの市民の血税で、私たち少数派のクラッシック・ファンは快楽をむさぼっているのだ。

もしかしたら、現代は、「芸術」カースト制度の時代かも。


■心地よい感動でコンサートホールを出た私は、帰宅せず、
今度はサッポロ・ファクトリーへ、映画『ワサビ』を観に行った。
ヒロスエって、趣味じゃあー無い。やっぱ、西本智美コンダクターの知的な美しさがいいなぁ。
と、思いつつも、低予算なりの映画の工夫に感心したよ。
リュック・ベンソンの監督すらするヒマが無いほどの溢れる才能を体験。

充実している1日?
好奇心は、人をタイクツさせない。



 



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