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悲しい譜面。
死が公表されたのは、亡くなってから5日後の5月27日。
あこがれと海。吉 田秀和
1913年9月23日~2012年5月22日
Requiem for Mr. Hidekazu Yoshida.




photograph and text by. うぇ~ん!久保AB-ST元宏
(更新日;2012年5月31日 木曜日 3:12Am)
3月16日に吉本幻想の拡散。吉本隆明が亡くなった2 カ月後に
クラッシック音楽評論家の吉田秀和が98歳で亡くなり、
一瞬で世界は優秀な評論家をふたり失った。

(もちろん多義的な意味でだが)吉本は「悪文」と言われ、
吉田は「名文」と言われてきた。

吉本の文章はインテリですら読み通すのに苦労するが、
吉田の文章は小学生でも読みやすかった。

だが、吉本は詩人だった。

そして、吉田は詩人、おーい、1907年になったら、またここへ来るから。おれ?おれは、中原中也だよ。中原中也の 友人だった。

ふたりの文体は両極端だったが、
ふたりとも詩人として言葉をたいせつにしたからこそ
それぞれの言葉の方法論を選んだのだろう。

日本は両極端の日本語で評論する才能を、
同時代に持っていた。そして、ほぼ同時に失った。
ねぇ、ちょっと話、もとにもどるんだけど。
共犯書斎には、吉田の1988年からの新聞の切り抜きがある。
相撲は、バレエ。
相撲の八百長問 題の2011年2月には、相撲だけの「音楽展望」。
元来、私は ミーハーで、言葉になった情報に弱い。
「今年、最大の話題作!」とか「歴史に残る名作!」と
言われれば観たいし、聴きたいし、読みたい。

思い返せば私が
ロックに熱中したのも、渋谷陽一の言葉があったからで、
ジャズにハマったのは、中山康樹の言葉があったから。

私の子供のころから我が家に
レコードのクラッシック全集があったが、
それは両親が家具として買ったよーなもので、
「運命」や「トッカータとフーガ」などキャッチーな曲のみを
たまに家具調ステレオで聴く程度だった。
その全集には月報が付いていて、
著名な音楽家や作家などがエッセイを寄せていたが、
それは音楽そのものを書いているのではなく、
作曲家の伝記や、自分の経験談を書いているだけだった。
もしくは当時ブームだったオーディオ自慢。
そんな言葉では、私はクラッシック音楽に興味を持たなかった。

それから私が18歳の時に出版された村上春樹の
デビュー作『風の歌を聴け』にグレン・グールドが登場し、
同年にクラッシックの声楽家をめざすかわいこちゃんと知り合い、
(ちなみにその娘は、ミック・ジャガーの大ファンだったんだけど)
20歳を過ぎたころに知り合ったかわいこちゃんが、
グレン・グールド『ベートーベン』
サンソン・フランソワ『モーツアルト』
マルタ・アルゲリッチ『ショパン』
の、ピアノの3枚のレコードを選んで貸してくれ、
これはとんでもない世界だと実感してしまった。

それまで私はクラッシックを曲で聴いていたんだけど、
それから演奏家で聴くようになった。
つまり、私にとってようやくクラッシックが「表現」となったのだ。
それから私 はロック好きには分かりやすい(?)マーラーにはまり、
マーラーを基軸として年表のように聴きまくった。
それでも、私にはロックやジャズを語る言葉を得ていたのに、
クラッシックのボキャブラリーを持てずにいた。

そんな時に、朝日新聞で吉田の評論を読んだのだ。
最晩年まで連載されていた「音楽展望」は1971年からなので、
どの時点から私が熱心に読み始めたのかは定かではないが、
手元に残っている切り抜きの最古は、1988年7月21日のもの。
ブーニンの亡命を「黙って見逃し難い気持ち」、
小澤征爾のマーラーを「筋肉質のきりっとしまった」、
グールドの未発表ライブ盤を「曲のポリフォニックな構造が強調」、
などと言葉を総動員しつつ、一言で本質を貫く。

この最高品質の日本語が印刷された新聞紙の裏側には、
道内初の原発に、核燃料が搬入。渦巻く賛否の声」の記事。
なんとも、いやな偶然だが、
北大工学部の教授でも、神山桂一は反対、石黒亮二は賛成。
小説家でも、三浦綾子は反対、高橋揆一郎は賛成。
と、さまざまな立場の声が記録されている。
それらの意見の理由を今日読むと、
残念ながら最高品質ではない日本語の存在を思い出させる。
らばー・かむばっく・とぅ・みー。
真夜中のレコー ドは、言葉にしにくい音楽を言葉へと回転する。
映画館とレコードは、いつも雨降り。
吉田はフルトベ ングラーが亡くなる前年の1953年から欧米へ。
また、吉田 の人生は評論だけではなかった。
むしろ、「実践家」だった。
有名なのは1948年に「子供のための音楽教室」を開校し、
小澤征爾、中村紘子、高橋悠治ら多くの音楽家を世に出した。
さらに、「二十世紀音楽研究所」を設立し、
ばらばらだった若い作曲家、柴田南雄、黛敏郎、武満徹らを束ねた。
そしてもちろん、ラジオや新聞、雑誌でのクラッシック啓蒙活動。

吉田が亡くなる3日前の5月19日、詩人の杉山平一が亡くなった。
杉山は吉田より一歳若い、享年97歳。
ふたりとも東大文学部を、それぞれ1936年、1937年に卒業。
吉田が1937年に死んだ中原中也と友人だったように、
杉山は東大在学中に
詩人の三好達治に認められて同人誌『四季』に加わる。
詩人のかたわら、映画評論をするが、
電気工場も経営し、苦労を重ねる。

この世代の共通点が、透けて見える。
関東大震災や東京大空襲をくぐり抜けながらも、
太平洋戦争に兵士として行くことはなかったが、
常に自己を相対化して考察する習慣が染みついたからこそ、
言葉への過敏さは詩人への接近として現れる。
その言葉への切実さは、言葉以外が焼け野原になったからか。
そして、その言葉には実践という肉体が付く。

この両者が最後に残した文章が、
東日本大震災と言う三度目の焼け野原に向けてだった。

吉田は音楽のみならず、1980年代の絵画論は評価が高いし、
「音楽展望」を相撲だけで埋めた月もあった。
つまり、吉田にとって絵画は音楽であり、相撲はバレエだった。
だから、音楽ではない絵画、バレエではない相撲に厳しかった。

今の日本は、音楽だろうか。バレエだろうか。
その時、私の言葉は有効だろうか。