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新連載!おじいちゃんの撃たれたい夜。支那事変
On a Slow Boat to The China Incident of 20th century boy !
覚醒遺伝。
1977年8月、北海道・沼田町の久保家の裏庭にて。
左、久保久作(くぼ・きゅうさく、1901年〜1984年5月1日)、右、高校1年生の私
祖父と私は、髪の毛の長さを比べているところ。

私は左腕のヒジをガラス窓に突っ込み、筋を切ってギブスをしている。
この約2カ月間のギブス生活が、私を俺はギターを鏡に投げ込んだ♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieギタリストからあきらめさせた、
との説があるが、私のギター・テクニックに影響してはいない。元々、ヘタクソ。
ちなみに、この時の私のウエストは40cm。マジ、やせすぎ。

この時、祖父は76歳だから今の理科系なんです〜♪若林博士と 同じ!博士、若い〜。
1901年、私の祖父は、20世紀が 始まった年に石川県金沢市で生まれた。
つまり、久保家初ので、俺。忍者猫のように忍び込み、電気羊のように充電中。20世紀少年だった、わけだ。
そして名前は、久保久作。久保の「久」を名前に入れた親の想いがありそうだ。
んで、元々、久保家は武士だったよーで、
今でも久保家の墓は兼六園の近くの寺にある。
瞬間移動した合成写真のような(微苦笑)。
1983年8月21日、金沢の久保家の墓参りをする 私。ウエスト はまだ40cm。

祖父が生まれた時はすでに武士の時代は終わっていた明治34年で、
久保家は武士ではなく、タバコ工場を経営していた。
そこで祖父も家業を継ぐため当時としては珍しい商業高校に進学したのだが、
シベリア出兵(1918年〜1922年)の懲役後、帰宅すると、
タバコが専売公社になっていて、「社長の息子」が「社員の息子」になっていた。
そこで祖父は、シベリアで見聞きした馬賊になろうと、
アジア大陸への移住の準備をしたのだが、
「これからはアジア大陸ではなく、北海道だ。」とのブーム(?)に乗っちゃった。
で、北海道へ単身、ヒッピー旅行へ。
で、すでに1910年に開通していた国鉄・留萌線の沼田駅に降りて、
駅前にあった主食という文化の物語。小泉雑穀店の主人が他人なのに同郷の石川県出身なので、
そのまま住み込みの社員になった。

なぜ祖父は、この時点で「主食という文化の物語。米屋」を仕事に選んだのだろうか?
それは祖父が17歳の 青春時代の夏が重要なターニング・ポイントだ。

1918年☆7月 14日 ロシア皇帝が、革命軍によって処刑される。
◎7月22日 今じゃ、酒騒動かっ?米 騒動が富山市で勃発。
◎8月2日 日本、ロシア革命への干渉を目的にシベリア出 兵を宣言。
◎8月13日 米騒動が祖父が住む金沢市にも飛び火。

「革命」と「米騒動」と「戦争」。なんて熱い17歳の夏なのだろうか。

小泉雑穀店は、小豆の相場で大当たりして、かなり大きな会社だった。
「コイズミが日本の小豆の値段を決めている。」と、言われた時期だ。
だから、小豆を運ぶ労働者が大量に必要だったので、ヒッピーも就職できたのだ。
が、しかーーーーーし、
たま&たま祖父は商業高校を卒業して、読み書きソロバンができたため、
すぐに小豆をかつぐ仕事から、事務の責任者の番頭になったようだ。
そのうち、町内の農家の四女、小島ヲトメと結婚し、女の子が3人生まれ、
1933年に独立して、久保商店を現在地に開店した。
長男である私の最後の手紙。が生まれたのは翌年の1月21日。
独立した翌年に長男が生まれ、こりゃ幸先いいわいな〜♪
と、順調であった矢先の1938年に、祖父は支那事変に徴兵されるのだ。

ちなみに、祖父が就職した小泉雑穀店は、その後、小豆の相場で失敗し、
主人の小泉虎次郎は自宅で日本刀で割腹自殺し、廃業する。
その死体の第一発見者が、アルバイトをしていた中学生の私の父である。
世の中のほとんどの推理小説の犯人は、第一発見者らしい、のだが。
現在、小泉雑穀店の跡地の横に、その親戚の呑んだらシャトルに乗るな、んで、『共犯新聞』に載るな。小泉酒店が 営業している。

満州が狙われてゆく。
1918年8月、シベリア出兵。17歳の祖父も、このどれかの紫の矢印にそって 北上した。

逆に迷いそうな地図。
1918年8月当時、シベリア出兵に使われた地図。分かりにくい(笑)なぁ。
進む意味。
シベリア出兵の日本兵。
17歳だった私の祖父も、ここにいた?

ヤミ米屋のイメージ?
1918年、米騒動の直後に、
シベリア出兵が宣言された。
これは政府が国民の興味を海外に向かせて、米騒動のパワーを弱めることをねらったのかも?

で、私の祖父が帰国後に主食という文化の物語。米屋を目指した心理も、こーゆー情況がまったく影響しな かったとは思えないなぁ。
読まねば。
安彦良和の「乾と巽ーシベリア出兵秘史ー」が2018年9月25日発売の
『月刊アフタヌーン』11月号(講談社)から新連載。

さて、私が生まれた1962年、祖父は62歳。当時の定年退職は55歳であり、すでに祖父は久保商店の経営を私の父に譲渡し、
祖父は地元の金融機関であった商組の常任役員や、寺の総代や、PTA会長や、町議会議員など名誉職のハシゴ(?)をしていたようだ。

もちろん、祖父の世代だから戦争に行ったのは常識として私は知っていたが、それが、どの戦争なのか、どんな体験をしたのかは、まったく祖父とは話さなかっ た。
太平洋戦争で祖父はすでに40歳代なので、さすがに徴兵はされていないだろうし、日清&日露戦争は1904年に終わっているので3歳の兵隊は無いし。

そして、祖 父が亡くなってから、下の写真の小さな手帳が発見された。
なんと、これは
37歳の
祖父が中国の戦争中に書いた日記
ちっちゃい。

日記は、1938年=昭和 13年7月7日から始まっている。
そして、数行づつ、毎日、書かれている。
祖 父は支那事変後、沼田神社に有志と記念ここに刻まれている意味と、血。を建てている。
まだ私は、知っている人が多いけど〜・ね。
「庶務会計」の久保久作が私の祖父。チャー ボ克典や ミカキチの祖父の名前もある。

書かれた最初の「昭和13年7月7日」からすでに祖父は「山西省博愛県清化鎮」にいる。
つまり、すでに入隊して中国にいる。だから、この手帳は最初の従軍日記ではないかもしれない。
もしかしたら、1937年(昭和12年)12月から約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって首都南京市を占領したの南京事件に参加していたのかもしれ ない。
それとも、それらを記録したメモを没収されたか、紛失したのかもしれない。それらは、すでに遠い歴史の彼方だ。

ただ、私には「昭和13年7月7日」とゆー日付が気になる。
なぜならば、ちょうど1年前の「昭和12年7月7日」が支那事変が始まっ た日なのだから。これは偶然なの だろうか。祖父の手帳には、それも書かれていない。

きっかけは、謎。

1937年=昭和12年7月 7日10Pm過ぎ、盧溝橋 事件(ろこうきょう・じけん)。この盧溝橋をはさんで緊張していた日本軍と中国軍が衝突した。
日本の初年兵が行方不明になり、中国兵が撃った歌手だった時は、ミュージック・フェア。がくっ。1撃たれたい夜。銃声が、1945年の日本の終戦まで続く長い戦争の始まりとなった。
日本の初年兵は、しょんべんを一貫教育、一歩、前へ。していたのか、すぐに 出てきた。最初の銃声も誰が弾はひとつだけの、ロシアン・ハスキー・ルーレット?撃ったのか、いまだに確認はできていない。
いずれにせよ、日本は満州から南下したかったのだし、中国はそんな日本を追い払いたかった。
そんな2つのストレスが同時にまた午前3時まで呑んだのか!沸点に達し、合意したのだろう。

そして、祖父が手帳に書いた最初のページが、下記だ。
ここには紙が貼られている。最初のページにわざわざ貼ったのだから、祖父にとっては重要なメモだったのだろう。
もしかしたら、死んだら、ここに書かれていた方にこの手帳が渡るようにメモを貼ったのかもしれない・

では、間違いを覚悟で、祖父の書いた文字を活字に置き換えてみる。
『共犯新聞』無料愛読者のみなさんから、どし&どし、間違いなどの指摘をいただき、より正確に読み取っていきたい。

●●昇道
持名る
重慶市初●町
北京兵站病院 ●●●部 受付係
←と、うぇ〜ん!久保は読んだが、
泰弘さん と小嶋日向守さんの解読で、
こーなった♪→
北京兵站病院 發着部 受付係
金澤卯辰
持名
辰澤 昇道

言葉を信じるタイプ。
沁水 山中 中佐 班へ 五、六、二 ケ台隊●

十三年七月七日

山西省博愛県清化
午前五時 自動車ニテ 出発
沁水ニ向ツテ前進

八日 周 村ニテ 宿営

九日 途中 再三 敵襲ヲ受ケ
    前進 困難ニテ 劉村ニテ泊ル

十日 七時三十分 出発時 昨夜来ノ
    降雨ニ 河川増水 トラック 河道
    ニテ各所ニ 主住定スルモ
    夜行過ニテ 夜二時三十分
    漸ク沁水ニ  至ル 車廠ニテ
    露営  ココ山中ハ ナカナカ寒イ

十一日 民家ニ入リ 舎営設備
     ニ謀殺サル

十二日 支部圍リ一帯ニ抵抗
     線ヲ作る。夜襲撃ヲ受ク
←と、うぇ〜ん!久保は読んだが、
泰弘さん と小嶋日向守さんの解読で、
こーなった♪→
沁 水 山中 中佐 班へ 五、六、二ヶ 分隊行

十三年七月七日

山西省博愛県清化
午前五時 自動車ニテ 出発
沁水ニ向ツテ前進

八日 周 村ニテ 宿営

九日 途中 再三 敵襲ヲ受ケ
    前進 困難ニテ 劉村ニテ泊ル

十日 七時三十分 出発時 昨夜来ノ
    降雨ニ 河川増水
    トラック 河道ニテ立往生(た ちおうじょう)スルモ、
    夜、行軍ニ テ 夜二時三十分
    漸ク沁水ニ  至ル 車廠ニテ
    露営  ココ山中ハ ナカナカ寒イ

十一日 民家ニ入リ 舎営設備
     ニ謀殺サル

十二日 支部圍リ一帯ニ抵抗
     線ヲ作る。夜襲撃ヲ受ク

多様性国家。

祖父が活動した のは、地図ではピンク色の「山西」。
同じピンクの「天津」に日本の駐屯軍が、祖父の生まれた1901年からいた。
その理由は、1900年〜1901年の忍者かっ!義和団の乱か ら在留日本人を守るため。
つまり日本は満州を確保していながら、北京よりも内陸の天津にも常駐していたので、盧溝橋は火種だったのだ。

 祖父の軍隊の移動は、どうやら、「 山西省博愛県清化」→「周村」→ 「劉 村」→「沁水」。
トラックでの移動か。

周村」 から地図のように、まっすぐ「沁水」 へ向かう予定だったが、「途中 再三 敵襲ヲ 受ケ 前進 困難ニテ 劉村ニテ泊ル」ことになったと書かれている。

手帳内の「車廠」は、「車庫」のこと。

手帳内の「露営」は、外で寝ることだが、最も有名な軍歌が、これだ。

軍歌:「露営の歌」 (Field Encampment Song)


まさに、上記の動画のように、「露営の歌」は、支那事変の歌だ。
1937年、支那事変が勃発し、『毎日新聞』が戦意高揚のために「進軍の歌」の歌詞を公募し、
薮内喜一郎(1905年〜1986年、奈良県出身、京都市役所に勤務)が傑作に入選した。
それにパラパラ・・・北原白秋パラパラ・・・菊池寛ら が「露営の歌」と題し、 古関裕而が作曲を手がけた。
古関は満州を旅行し終え、下関から東京への特急列車の車中で新聞に発表された歌詞を見て心を動かされ、依頼されていないにもかかわらず作曲していた。
東京に着いた古関に日本コロムビアの社員が作曲を依頼した時には、「それならもうできていますよ」と楽譜を差し出したという。

1937年9月に、コロムビア共犯音楽祭★Music〜音という抽象芸術♪レコードから発売された。
1938年7月10日に私の祖父が中国で露営した夜に、歌ったかどうかは分からないが、この曲を知ってはいただろう。

京都の嵐山に「露営の歌碑」がある。題字は、陸軍大将の松井石根(まつい・いわね、1878年7月27日〜1948年12月23日、南京事件の責任で、死刑、享年70歳)。

戦場の「現場」はともあれ、
支那事変の「勝利」はジャーナリスト、文学者、音楽家ら芸術家たちを高揚させ、「露営の歌」によって「物 語」化され、「流通」した。
私が1週間前にさっちゃんも、プールに行きました。『共犯新聞』に書いたよう に、やはり、「現場」と「表現」の言文一致が民主主義だ、 とは永遠のテーマだ。

 激しい戦場の「現場」で、祖父は万年筆や鉛筆を使って備忘録のような小さなパラパラ・・・日記を書いた。紙が貴重な時代に、紙を節約するかのように、1行づつ。
戦場で泥水に漬かっても、「敵襲ヲ受ケ」て も、命と手帳は手ばなさなかった。
そして命と、この手帳を持って、ふたたび北海道の沼田町に帰ってきた。
40歳を目前にした祖父は、私の父が小学生になろうとしている姿を見て、米屋の主食という文化の物語。久保商店に力を入れる。手帳の後半には、それが書かれてい る。


1901年生まれ、祖父のみんなで踊れば、怖くない?同級生たち。
1月2日 - 久保栄、戯曲作家(没年〜1958年)
1月3日 - ゴ・ディン・ジエム、ベトナム共和国初代大統領(没年〜1963年)
1月28日 - 高橋新吉、詩人(没年〜1987年)
2月1日 - クラーク・ゲーブル、俳優(没年〜1960年)
2月2日 - 中村翫右衛門 (3代目)、俳優、前進座共同創立者(没年〜1982年)
2月17日 - 梶井基次郎、小説家(没年〜1932年)
2月28日 - 柳家金語楼、喜劇俳優・落語家・作家・脚本家・発明家・陶芸家(没年〜1972年)
3月14日 - 小栗虫太郎、小説家(没年〜1946年)
3月27日 - 佐藤栄作、官僚・政治家・内閣総理大臣・ノーベル平和賞受賞者(没年〜1975年)
3月29日 - 羽仁五郎、歴史家(没年〜1983年)
4月13日 - ジャック・ラカン、精神科医・精神分析家・思想家(没年〜1981年)
4月19日 - 岡潔、数学者(没年〜1978年)
4月29日 - 昭和天皇、第124代天皇(没年〜1989年)
4月29日 - 尾崎秀実、評論家・ジャーナリスト(没年〜1944年)
5月4日 - 富永太郎、詩人・画家(没年〜1925年)
5月17日 - 古在由重、哲学者、元名古屋大学教授(没年〜1990年)
6月6日 - スカルノ、インドネシア初代大統領(没年〜1970年)
6月20日 - 丸木位里、日本画家(没年〜1995年)
7月7日 - 円谷英二、映画監督・円谷プロ創設者(没年〜1970年)※戸籍上は7月10日生まれ
7月7日 - ヴィットリオ・デ・シーカ、映画監督・俳優(没年〜1974年)
7月24日 - 中村草田男、俳人(没年〜1983年)
8月4日 - ルイ・アームストロング、ジャズ歌手(没年〜1971年)
8月20日 - サルヴァトーレ・クァジモド、作家・詩人(没年〜1968年)
9月9日 - 小熊秀雄、詩人・小説家(没年〜1940年)
9月28日 - エド・サリヴァン、テレビ番組司会者(没年〜1974年)
10月10日 - アルベルト・ジャコメッティ、彫刻家(没年〜1966年)
11月3日 - アンドレ・マルロー、作家・冒険家・政治家(没年〜1976年)
11月3日 - 秋元不死男、俳人(没年〜1977年)
11月3日 - 山口誓子、俳人(没年〜1994年)
11月5日 - 海音寺潮五郎、小説家(没年〜1977年)※戸籍上は3月13日生まれ
11月11日 - マクダ・ゲッベルス、ナチス・ドイツの宣伝相の妻(没年〜1945年)
12月5日 - ウォルト・ディズニー、漫画家・映画監督・ウォルト・ディズニー・カンパニー創設者(没年〜1966年)
12月5日 - ヴェルナー・ハイゼンベルク、物理学者・ノーベル物理学賞受賞者(没年〜1976年)
12月12日 - 木村伊兵衛、写真家(没年〜1974年)
12月27日 - マレーネ・ディートリヒ、俳優・歌手(没年〜1992年)
  ↑
こう並べてみると、さすが最初の20世紀少年&少女たち。新しい時代を切り開くタフでアヴァンギャルドなチャレンジャーばかりだ。

てなワケで、この祖父の手帳を読み進めていこうと思う。
みなさんも資料などがあったら、是非、いろいろと私に教えてほしい。

text by うぇ〜ん!久保AB -ST元宏 (2018年11月21日 火曜日 2:29Am)











・・・・・・で、あれから、ずぅーっと、
でも、私の祖父のあの時間からすれば、★赤い眼球を、赤いタンバリンに捧げよう。まばたき以下の一瞬のひととき、私は 「支那事変」を思索しているホームページを探し回った。
宇宙は、広い。私の脳味噌ぐらい広い。さすがだ。こんなブログを私は「発見」した。


泰弘さんの【追憶の記】です・・・
大東亜戦争前後の、遥かに遠い遠い・・・子供の頃を思い出して書いております。



驚いた。
すごい。
本来は、国家こそが、きちんと、こーゆーことをするべきだ。←それは、私が議会で『民 俗資料の活用』を考察した通り。
それでも、それを市井の民が補う志に感動しない者はいない。

で、私は、このブログのゲストブックに書き込んだ。そして、数時間後、ブログの主催からレスが書き込まれた。
その私とのやりとりが、これだ。

泰弘さん、初めまして。
私は、1962年に北海道で生まれ、住んでいる男です。
私 の祖父も支那事変に陸軍兵で参戦し、現地で書いた日記を私が持っています。泰弘さんのブログを読み、私も自分のホームページに、それを紹介してみようと思 い立ちました。つきましては、私のホームページに泰弘さんが紹介されている絵葉書を利用させていただきたく思います。よろしくお願いいたします。
[ うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 ] 2018年11日22日(木)10:24Am
>久保AB-ST元宏さん、いらっしゃい、今晩は・・
写真のどれでもご自由に使ってください。宜しく・・

必要写真を右クリックして(名前を付けて画像を保存)をクリックです。
[泰弘さん] 2018年11月22日(木) 6:00Pm
>久保AB-ST 元宏さん、
 本日コメント戴いたので、ご返事の後ブログを拝見しました。
その中で、お祖父様の手帳の裏表紙の文字が草書の為、読み辛い部分(下記)
●●昇道
持名る
重慶市初●町
北京兵站病院 ●●●部 受付係
・・・は、

縦書きの為、左から読むため
北京兵站病院 滋養部 受付係
金澤市卯辰町
持名寺
辰澤 昇道
と読めます。

(金沢市卯辰町 持名寺)を検索しますと実在しますので、
そこの辰澤さんという意味でしょう。
[泰弘さん] 2018年11月22日(木) 7:51Pm

まいった。
これには、さすがの(?)私も、まいった。
人類がインターネットを発明した、その到達点が、ここにあるのではないだろうか。

私のよーな無教養な中年オヤジが、辺境の地で書いた戯言が、9時間後に、まったく見ず知らずの方によって克明に解明されている。
おそらく、この[泰弘さん]って方は私よりも、ずいぶん年上のお方のような気がする。もしかしたら、私の父ぐらいの世代のような情報量だ。

で、あわてて書いておく。
[泰弘さん]が見抜いてくれた「金沢市卯辰町 持名寺」。[泰弘さん]さんのご指示通りに「検索」すれば、「じょうみようじ」と呼ぶ真宗大谷派の寺だ。
確かに久保家は、聖徳太子祭りで、祭典委員長として趣意書を読む久保AB-ST元宏。真宗大谷派だ。

だったら、久保家の瞬間移動した合成写真のような(微苦笑)。墓が持名寺なのか?
それが違って、林幽寺(りんゆうじ)なのだ。
で、持名寺と林幽寺は、兼六園をはさんで、ちょーど意味がある。ただ、私(たち)は、その意味に気が付いていないだけ。裏側なのだ。
う〜ん。面白すぎ。
私的には、兼六園のすぐ南側に、『鈴木大拙館』がある凄さを感じる。
いずれにせよ、[ 泰弘さん ]と交流できたおかげで、また私は、おじいちゃんに近づける。
[ 泰弘さん ]、ありがとう。

では、整理しよう。今日の疑問は、論理の親だす。疑問。
なぜ私の祖父は、自分の寺ではない持名寺を戦死を覚悟の戦場で、いちばん大切な手帳の最初のページに貼り付けておいたのか?
この豊かな疑問が、また私を祖父の手帳へ戻らせる。
嗚呼。面白すぎ。

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元 宏 (2018年11月22日 水曜日 11:58Pm)








政治を取り戻すために。 政治 ★ Politics トム・ヘイデン 「参加型民主主義」の死(更新 日;2016年11月5日)





やっぱ、映画館で観たい♪ 映画 ★ Movie シン・ゴジ ラ』(更 新日;2016年8月18日)


■「ナイーブなセンサー」だから、「作品」で説明せにゃならんのかー。 『続・ペンギンの日々』  最終回
2012年8月8日(水)