さっちゃんも、プールを観たの。I'll follow you wherever you may go!
top page⇒うぇ〜ん!『共犯新聞』♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To DieROCK★ロック パラパラ・・・偏愛書物★Book Oh ! うめぇ〜♪肉体の共犯としての食犯。好 物★Gourmet やっぱ、映画館で、いっしょに観たい♪映画★Movie Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!美術★Art
moto_kubo@hotmail.com
読書時代So read on, read on ! The answer's at the end !村 松友視パラパラ・・・『百合子さんは何色 武田百合子への旅』
初版、1994年9月5日、筑摩書房、定価\1572→古本 \108
Get it on 2018年9月16日(日)7: 28Pm まんだらけ 札幌店
色よりも、光の方へ。
帯付き&初版&激安をたな日々。

祖父は作家の村松梢風。父・村松友吾は中央公論社の編集者。母も中央公論社に勤務。父方のおじに脚本家の村松道平、教育評論家の村松喬、中国文学者の村松暎(慶應義塾大学文学部教授)がいる。

村松友視
むらまつ・ともみ
1940年4月10日生まれ

ぜんぶ初版、ぜんぶ108円!しかも、まんだらけ。がくっ。
絶滅危惧種としての、昭和の文学!
『まんだらけ札幌店』レジ前の100円均一コーナーに、
パラパラ・・・金子光晴『どくろ杯』
パラパラ・・・大岡昇平『私自身への証言』
パラパラ・・・塚本邦雄『荊冠伝説』
パラパラ・・・村松友視『百合子さんは何色』
が売っていて、買った。
どれも、有名な名著ばかりで、びっくり!
しかも、すべて単行本の初版、美麗本。
こーゆー本を残して死ぬ蔵書家が各地にいて、家族は本に興味が無い。
私は、上記を「三角食べ」のように、ぐるぐるとかわりばんこに読む。

埴谷雄高だけで、14冊ある。
共犯書斎の武田泰淳コーナー。
右へ、埴谷雄高→大岡昇平と流れる。

水の底からレコードがきこえる。ふき込んだ人はとうの昔に死んでいるのに、声だけが生きのびて、うたいつづけているのだ。

金子光晴

ヨーロッパ滞在中に書いた作品を、帰国後京都洛北の等寺院の茶室にこもって推敲した。

金子光晴の詩集『こがね蟲』
(新潮社、1923年7月10日)

晩年は「文學界」に「成城だより」を連載、映画、ポップス、ロック、漫画までを語っていた。1988年、79歳で死去。

右、大岡昇平。
左、モー ツァルトの共犯音楽祭★Music〜音という抽象芸術♪レコード
持つ春枝夫人。

ルールじゃなくて。

左、埴谷雄高・夫婦。
右、武田泰淳・夫妻。

ルールとはあらかじめ定められた八百長であり、そして、プロレスはルールにもっとも重みをおかないジャンルである、ゆえに、プロレスは八百長からもっとも遠いジャンルである。

村松友視『私、プロレスの味方です』

映画『沼田喜三郎』計画、進行中。

長野時敏さんからいただいた
富山県お土産の焼酎『米騒動』

救済策にのっとり、米を支給してもらうには窮状を訴える必要がある。魚津米騒動のような動きはそれ以前にも度々起きており、決して偶発的ではなかった。

2007年、米騒動を学ぶ、
『第1回フォーラム』。
今年は米騒動から100年。
今まで米騒動は、
お上にたてついた蛮行として、
語ることがタブー視されていた。
今、母親の自立として見直されている。
富山県魚津町(現魚津市)で、
約45人の「浜のおかか(お母さん)」が
米の値上がりに反発して
立ち上がった。
町役場や米問屋に出向き、
「他へ持っていかないで」と訴えたり、
北海道に米を運ぶ船の
積み荷作業を止めさせたりした。
この騒動は地元新聞の報道を通じて
全国に波及する。
「蛮行」はその後であり、
むしろ大正デモクラシーの隆盛にも
つながった。
主食という文化の物語。三角食べ読書
久保の脳うぇ〜ん!味噌
2018年10月18日(木)1:41Am
「三 角食べ」とは、ごはんと味噌汁とおかずを順番に食べる方法のこと。ひょんなことから私は、金子光晴『どくろ杯』、大岡昇平『私自身への証言』、塚本邦雄 『荊冠伝説』、村松友視『百合子さんは何色』を買った。塚本邦雄『荊冠伝説』だけはキリストの伝記なので毛色が違うが、あとの3冊は少しづつ時期が重なり ながら違う時代の文学者の回顧録なので、ぐる&ぐると「三角食べ」読書をすると、登場人物が重なっていたりして、超☆楽しい♪
重 なりは、詩人の金子光晴(1895年12月25日〜1975年6月30日)が14歳の時に、小説家の大岡昇平(1909年3月6日〜1988年12月25 日)が生まれ、大岡が3歳の時に小説家の武田泰淳(1912年2月12日〜1976年10月5日)が生まれ、泰淳が13歳の時に妻の武田百合子(1925年9 月25日〜1993年5月27日)が生まれている。百合子の写真はモダンで明朗な美人なので、私には自分と同世代っぽい親近感があるが、彼女と同年の生ま れは三島由紀夫、ポール・ニューマン、マルコムXだから、まぁ同じ時代を見てきたのかな?とも思うが、ほかにも梅原猛、夢路いとし、金大中がいるので、あ ららもっと上の世代か。なぁ〜んて思いながら1925年が 大正14年だと知ると、さもありなん☆と納得する昭和生まれの哀しい私かな。がくっ。
たとえば百合子は愛犬が死んだ日の日記に「ポコを埋めてから、大 岡さんへ本を届けに行く。」と書いている。夫の泰淳が小説を書くために週の半分を過ごした富士山麓の山荘の近所に大岡昇平も別荘を建て隣人となっていたの だ。そして大岡は青春時代に2人の夭折の詩人、パラパラ・・・富永太郎(1901年5月4日〜1925年11月12日、享年24歳)とパラパラ・・・中原中也(1907 年4月29日〜1937年10月22日、享年30歳)が死ぬまで親友だった。彼らが死ななければ大岡はフランス文学の研究者になっていたのだろうが、若き 詩人の相次ぐ死が大岡を小説家に向かわせた、と私は想像する。さらに、金子『どくろ杯』には、富永が「私の詩集『こがね蟲』の熱心なファン」と書かれてい て、当時のカリスマぶりをうかがわせる。それが金子のうぬぼれではないことを証明するかのように、大岡『私自身への証言』には、1925年の「富永の家にある本は、大抵はその秋死ん だ太郎の残したものだったが、『月に吠える』とか『こがね虫』とか『正午の果実』とか、僕のそれまで知らないものばかりであった。」と書かれている。嗚 呼、三角食べ読書の至福。さらに大岡に中原を巡り合わせたパラパラ・・・小林秀雄(1902年4月11日 〜1983年3月1日)と中原が出会ったのも1925年だ。金子も小林も中原も『ランボオ詩集』を 訳している。そして1947年に出版社の昭森社の社長が自ら店長になりオープンしたカフェ熱いものが入ってゆく。『ランボオ』には文壇人が集まり、働いていた人気美人メイ ドが百合子であり、そこでナンパしたのが泰淳だった。
それを雑な図式にすれば、彼らの先行する夏目漱石がイギリス文学、森鴎外がドイツ文学からインスピレーションを得たように、新世代の彼ら はフランス文学に淫した。
で、『どくろ杯』はその1925年前 後の貧乏詩人の青春放浪記。『私自身への証言』は詩人・中原中也の友人だった著者が1945年以降の戦後に文豪になってゆく青春放浪記。で、『百合子さん は何色』は文豪の妻としてしか知られていなかった百合子が1976年の泰淳の死後に明らかになった元々、文学美少女であった過去を探る探偵の手記のような 泰淳と百合子の担当だった編集者による伝記。
その担当編集者が村松友視だ。祖父は作家の村松梢風、父の村松友吾は中央公論 社の編集者、母も中央公論社に勤務とゆー文芸サラブレット(?)。そんな彼も 1980年のデビュー・エッセイ『私、プロレスの味方です』を大ベストセラーにし、1982年に『時代屋の女房』で第87回直木賞を受賞した。私にとって の村松は、私が1981年に知り合った♪はぁぐれたぁ〜・フロム・カナダァ〜!坂田知久が 高いテンションで読んでいた当時の流行のヘタウマなイラストが表紙の情報センター出版局から出ていた『私、プロレスの味方です』だが、そっち方面に興味が 無い私は同じ出版社の椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』を借りて&読んで&感心した。だから私にとっての村松は読まず嫌いですれ違ってサヨナラなハズ だったんだけど、安原顯が1992年に始めた書評誌『リテレール』にハマった私は、安原のかつての同僚の編集者@村松を意識せざるを得なくなった。ので、 私は村松の文章も、それなりに読んで来た。が、観光パンフレット程度だな。もちろん、それにはいい意味も含んでいる。つまり、ビギナーに優しい。だから、 文学クロウト全滅の時代には、ちょーどいい。そして、泰淳の代表作『富士』が超☆名作になったのには、編集担当をした村松の力もある。つまり、村松はポスト文豪の時代の職人なのだ。
だから、この『百合子さんは何色』も軽い。それは百合子をメ ジャーに定着させる効果として成功した。しかし、たとえば百合子を色に例える陳腐さに気が付かない鈍感さは、とうてい文学からほど遠い。だって、色は既成概念だし、天才は自由なのだから、限られた色 を天才に当てはめようとする愚行は文学ではない。
では、私は百合子をどう把握しているのか?それは、幕末にフラン スやイギリスが日本にやってきた情況から5〜60年経った1925 年は、意識の中へ西欧諸国が介入してきた「フ ランス問題」の緩和装置としての百合子だ。
先ほど述べたように、1925年当時の日本文学はイギリスとドイツのせめぎ 合いだったのだが、そこに第三の選択肢としてフランスががぜん魅力を発揮し始める。大岡も『私自身への証言』で、 当時の文学青年は「英語の教師の職は、どこも一杯であったが、ドイツ語にはまだ空がありそうだった」が、さらに「どうせどこにも就職のあてのない文科学生 の間では、フランス語がだんだん勢力を得つつあった。」と、その最初の理由は経済的な現実問題だったと述懐している。またしても私なりに図式化すれば、当 時は文学のイギリス哲学のドイツ文化のフランスだったのではないだろうか。この「文 化」とゆー分類はズルイ。だって、文学も哲学も「文化」だもん。その「ズルさ」を大岡『私自身への証言』では、「僕みたいに親爺の金のあてがなかった三好達治や小林秀雄が、フランス語を選んだのは必死だっ たわけだ)。しかしフランス語をやってるのは、堀口大学みたいな気障な奴ばかりで、フランス文学がはたして、君子の学ぶべき文学であるかどうか、疑問が あった。」と書いている。その時、気障ではないフランス文化の本質を把握していた最初の日本文学者として金子が存在していたのだ。
どー せ、このコーナーは誰も読んでいないんだろーから(がくっ。)一気に結論へ向かえば、泰淳の代表作&日本文学の金字塔『富士』は、「フランス問題」から、 どーゆー位置にいるのか?『富士』は明らかに誰が読んでもトーマス・マン『魔の山』がベースだ。じゃあドイツ文学じゃん。と、なるのだが、そこに自由な風 を吹かせたのが百合子であり、担当編集者だった村松だった。それは、既知としてのフランスではなく、彼らの天然キャラがフランス文化っぽかったのだ。
あと、もう一つ。百合子は主食という文化の物語。ヤミ米屋にとっても重要な血が流れている。1919年6月 6日、主食という文化の物語。米騒動でアナーキーな情況になっていた新潟県大河津村 (現・長岡市)を流れる信濃川で、バラバラの遺体を詰めたトランクが発見された。まもなく遺体は横浜の外米商と高利貸し鈴木弁蔵(64歳)、トランクの持ち主は農商務省外米 部の山田憲(30歳)と判明した。山田と共犯の 渡辺惣藏農学博士はすぐ逮捕された。鈴木は米の買い占めで財をなしていたが、更に利益を求めて農商務省外米管理部の山田技師からリークされた情報を基に 1918年米騒動で巨額の利益を得て、山田が渡欧する際には次男を同行させてあらゆる利便を供与した。このもつれが、日本初のバラバラ事件「鈴弁事件」 だ。この鈴木の孫が、百合子なのだ。泰淳は1951年3月に、この事件を小説「血と米の物語」にし、単行本に収録時に「未来の淫女」と改題した。しかし、 この小説は未完のままであり、泰淳は全集に入れなかった。村松は「作家としての新しい生命力を手にするきっかけを与えてくれたという思いと同時に、それを ふたたび世間の目に触れさせぬ方がよいという考えが生じたせいではなかったか。」と分析している。『富士』が出版されたのは、それから20年後の1971 年だ。この20年間が無駄ではなかったのは『富士』の成功が証明している。そして、その成功の本質に我々が気が付いたのは泰淳の死後、美人妻にしか過ぎな いと思われていた百合子が優れたエッセイストとして登場した時だ。日本文学が、物語イギリスと哲学ドイツを止揚して自由フランスに到達した時にドイツ文学 の手法で描かれようとした『富士』が、天然の自由=天然の フランス=百合子によって永遠の新しさを手に入れることができたのだ。残念ながら村松は、そこまで描けなかった。しかし、その村松を金子光 晴『どくろ杯』、大岡昇平『私自身への証言』とゆー補助線と一緒に読んだ私は、そこまでを発見できた。三角食べ読書、万歳。
うぇ〜ん!久保AB-ST元宏約40年が経ち、渋谷は先日のワールド・ロック・ナウで「現在ロックに意識的であろうとする人間は、ヒップホップを選ぶしかない」といった意味のことを言っていました。(久保さんは以前「ヒップホップこそが現代のパンクだ」といったことを書いておられ、全く同じ趣旨だと思いました)ランダム透明な赤い目は、森に置き忘れてはいない。読書てく&てく歩いた、他人の宇宙☆逍遥♪

村 上春樹パラパラ・・・『村上ラヂオ3 サラダ好きのライオン』転がる胆石♪高橋源一郎パラパラ・・・『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』

パラパラ・・・ 偏愛書物 ★ Book 古本屋Book Big Box (更新;2010年9月7日)
小説(更 新日;2018年2月16日 片 岡義男哲学 俳句 短歌 漫画 評論





交差点では、君の知らない鳥が。 ロサンゼルス共犯経済パラパラ・・・新聞

たまらんっ。2014年
たまらんっ。2015年
まぁ、どーぞ、どーぞ。2016年
まぁ、どーぞ、どーぞ。2017年