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共犯図書館の書棚を、裏返せ! ル=グウィンパラパラ・・・『ゲド戦記』
Ursula Kroeber Le Guin
パラパラ・・・Earthsea

共犯とは、名付けること。

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2010年1月25日 月曜日 3:10Am)

サンテグジュペリ『星の王子さま』の
内藤濯の訳を読んだ者ならば誰もが
感じるのは、この本を翻訳し日本に
紹介してくれた著者たちへの感謝と、
「ぎこちない」訳文だ。
「ぎこちない」の理由はおおむね二
つあり、一つは「翻訳された当時の
日本語がすでに古くなった。」で、も
う一つは「あえて」、だろう。

もっとも、「ぎこちない」ながらも内藤
の訳は多くの読者の共感を生んだ。
『星の王子さま』の有名な言葉である
l'essentiel est invisible pour les yeux
は、直訳では「本質は眼では見えな
い」だが、内藤の訳では「大切なもの
は、目に見えない」となる。ここに内
藤の咀嚼力の代表的な姿をみること
ができよう。では、「ぎこちない」言葉
とは何なのだろう。

『星の王子さま』のように翻訳された
のが1953年3月という半世紀以上も
前の言語となれば、同じ日本語でも
外国語のような印象すら持つ世代が
出てきても不思議ではない。
『ゲド戦記』が清水真砂子によって最
初に翻訳されたのは1974年であり、
最終巻は2004年だ。
つまり、リアルタイムの日本語で読め
るわけである。しかし私が『ゲド戦記』
を読むとき、その訳文から常に「ぎこ
ちない」座り心地がつきまとうのだ。
旅路に果てがあるのはいい。しかし結局、大切なのは、旅そのものなのよ。
アーシュラ・クロー バー・ル=グウィン (Ursula Kroeber Le Guin、1929年10月21日生まれ)は、アメリカの作家。

たとえば、もっとも新しい言葉で翻訳されているであろう2004年に翻訳された最終巻に、こんな訳文が ある。

若い頃、悪態をつかずにいるのは、彼にはひどくつらいことだった。
(『ゲド戦記外伝』 Tales from Earthsea 原作;2001年、邦訳;2004年 240ページより。)

原文を照会しないで(がくっ。)訳するのもマヌケだが、私ならば、こう訳す。

若い頃の彼は、あらゆることに悪態をつかずにはいられなかった

どうだろう。私の訳文のほうが読んでいて理解のスピードが加速すると思うけど、どう(笑)?
しかし、ル=グウィンの文体と物語(=つまり、そのふたつは、「思想」&「思考方法」そのもの。)に長く付き合うと、「つらい」という言い回しが重要に なってくるのだ。
もちろん、それはル=グウィン独自というよりは、英語的、とゆーこともあるだろう。
それでも、「いられなかった」という能動性よりも、「つらい」という受動性にル=グウィンの世界観がある。
私の想像を加味してさらに踏み込んだ言い方をすれば、彼女の受動性には、受難とし ての世界のイメージが表現への衝動に直結していると思うのだ。
アメリカでの彼女は小説家よりも、かなり熱心なフェミニスト運動家として有名だそうだ。
また、彼女の両親は執筆などを通じてアメリカ原住民へのシンパシーを説いてきた有名な文化人類学者の夫婦だ。
それらの情報が私を誘惑するのは、ル=グウィンとは、世界という「つらい」受動性において言葉を産んでゆく母体なのではないのか、というイ メージだ。
「ぎこちない」訳文は、著者の底にまで降りていってから再び日本語訳の上空へと、はい上がる作業の結果の、永遠の保留なのではないのか。
園で写真を撮ったら、後ろに犬のヒモをつけて歩かされている子が写った。
清水 真砂子
(しみず・まさこ、
1941年5月27日、
北朝鮮生まれ)。
つまり、翻訳とは永遠の保留。
翻訳を読む、ということは永遠の保留を(読む時点での)現代に融かす共犯行為なのではないのか。
それは、英語を日本語にする以上に、
世界という「つらい」受動性の永遠機械に、自ら名付けることで、
得体の知れないもののイニシアチヴを公平にしてゆく作業なのだと私は思う。
そのとき、「ぎこちない」は戦士の傷のように我々の前に現れる。
「より理解しよう。」、「より正しくリ レーしよう」と真摯に闘うとき、血が流れていないはずはないのだから。

さて、私が『ゲド戦記』に初めて興味を持ったのは、1999年2月21日だった。
もちろん、以前からその書名は知ってはいたが、
その書名からのイメージなどで単なる子供向けの怪獣もの(?)のようなもの、つまり
すでに子供を持つ父親にとっては子供への贈り物以外の価値はないと思っていた。
なぜ私が興味を持った日にちまで憶えているかというと、
その日に旭川市の 古本屋で文芸評論誌『文学空間』の創刊号を買ったからだ。
この単行本形式の雑誌は、「批評の零点」の副題で1979年3月20日に980円で出版。
私は古本屋で手に取るまではこの雑誌(?)の存在は知らなかったのだが、
中に柄谷行人の論文が掲載されているし、柄谷が浅田彰とともに1988年から2002年ま
で主宰した雑誌の書名が似ている『批評空間』とゆーのも私の興味を引いた。
また1988年に、『長男の出家』で第98回芥川賞を受賞する
パラパラ・・・三浦 清宏(み うら・きよひろ、1930年9月10日生まれ)もエッセイを寄稿している。
三浦は北海道室蘭市で生まれ、東京大学文学部英文学科に進んだが、学生運動で
休講続きの東大を嫌って21歳で中退し、欧米を遊学し、1962年、31歳で帰国。
1957〜58年、米国留学中の小島信夫と知り合い、帰国して半年間、小島と同居。
ってゆー変った経歴の持ち主だが、『文学空間』当時は明治大学で英語を教えていた。
のちに小島信夫が書いた小説『別れる理 由』の中に柄谷が登場するのは有名な話。
まぁ、そんな三浦と柄谷に関係(?)があったとは私には小さな驚き(笑)だった。

そんなもう柄谷の愛読者ですら忘れているか、最初っから知らない雑誌『文学空間』の
創刊号のいちばん最初に掲載されているのが、なんと『ゲド戦記』の評論だったのだ!
もう、それだけで私の脳味噌の中での『ゲド戦記』の座席が席替えさせられた(笑)。
また、『ゲド戦記』が今のように深い思索の本としても読まれるようになったのは、4巻以降
が発売されてからだと私は思っていたのだが、『文学空間』が発売された1979年はまだ
3巻までしか発売されておらず、しかも、世界中のほぼ全ての読者は3巻で完結したと
自然に解釈していたはずだ。それだけ『ゲド戦記』はすでに3巻で子供向け冒険譚と
して完成されていたのだ。だから、まだ「子供向け」の段階で小難しい(笑)評論誌の
巻頭を飾る対象にした批評家と編集同人たちの嗅覚の鋭さにも私は敬服するのだ。

それを書いたのは、犬飼 和雄(いぬかい・かずお、1930年9月25日生まれ)。
金原瑞人の師匠であり、『モヒカン族の最後』などを翻訳する英文学者だ。
その翻訳本からしても犬飼がアメリカ原住民の文化に造詣が深いことは想像できるが、
『文学空間』に書かれた「名前(ゲド)と存在(エゴ)と影(シャドウ)」も、そこを触りながら
書き進められている。私には残念ながらまだ若書き(あは。ごめんねー。)の、まるで下書
きのような評論文以前の習作にしか感じられないが、やはりアメリカ文学への確かな知識
から生まれたいくつかのインスピレーションには、のちに倍の6巻で完結した今から振り
返っても価値と説得力のあるソースが多く紹介されている。
赤い本から黒い本へ。そして白い本の80年代へ。
『文学空間』 批評の零点 1 (1979年3月20日、初版、創樹社)の目次。

とくに犬飼の批評の最後に紹介されている、ル=グウィンと同じアメリカの児童文学作家ロイド・アリグザ ンダーによる長編ファンタジーの一文は、示唆的だ。

・・・・・・真の名前がわかれば、悪は無力となるから亡ぼす ことができるのだ。
(ロイド・アリグザンダー『プ リデイン物語』 「タランと角の王」

犬飼がこの部分を引用しながら驚いているのは、これが『ゲド戦記』より先に書かれた、ってことと、
「アメリカ・インディアンの神話、伝説をもとにしたもの」ではなくて、「ケルト族の 神話、古伝説マビノーギオンにもとづいて書かれたものであった」という発見。
つまり、「名前」=「名付け」がえぐりだす本質をめぐる考え方は
アメリカ原住民族だけのものではなくて、全ての人間にとって普遍的である、という発見だったのだろうか。
犬飼の論考はここからが面白くなるはずなのだが、感嘆の声を上げて、ここで終わってしまう。その中途半端振りが私を、やや、あきれさせたんだけど(笑)。

「でも私が正直に話すと、みんな冗談か演技だと思うの。
それでときどき何もかも面倒くさくなっちゃうけどね」(ノルウェイの森 上)
差出人: ローラにコーラを!ミカキチ@ろーら嬢
送信日時: 2010年1月26日(火) 1:00Am
宛先: うぇ〜ん!久保AB-ST元宏

共犯グウィン記事、私には、あちこちにレスをしたくなる内容満載です(笑)。
いろいろ私の中に蘇ってきていて、大変だった。
普遍的なことを個人的なものと並べて考えることが出来なかったら、どんな力を力と言うのだろう。

文中に出てくる『マビノーギオン』というのは、ウェールズの神話なんだけれど、
それを題材にした、これまたとても優れたファンタジーというか、児童文学作品があって、
アラン・ガーナーのパラパラ・・・『ふくろう模様の皿』というの。
以前、私が、ファンタジー作品としては、私には「ゲド」以外に個人的にとくべつなものは存在する。と言った、その代表作です。
発表は1968年。カーネギー賞とガーディアン賞を受賞してる。

私がこの作品を好きなのは、神話的モチーフと因果律の中で、ゲドの第2巻にあるような、性愛を水面下のテーマにおいた、
ある種「境界を乗り越えなくてはならない暗闇と、
そこに生まれる愛と憎しみ、そして優しさ受容と果てしない厳しさを 描こうとしてるから。

それは、私には、グウィンのSFの中でも、やはりどちらかと言うと軽く扱われてる、
ヤングアダルト向けな作品(ファン?は、ロマンチック・ル・グウィンと呼ぶ・・・・ホントかよ・笑)と、全く同じようなティストに私は感じるんだよね。

(ただ、やはりグウィンは、常に、とてもちゃんと、次へ行こうとした結末にしてるなとは思う。
 アラン・ガーナーは、その暗さと救いの無さの徹底振りがまた素晴らしく、
 想像力を絵的にまで喚起する書き手なのだけれど、とても暗い。
 救いがない感じがする。
 でもそれが一方で、ウェールズらしさそのものでもある辺りがまたいいんだけれど)

グウィンは、本当に大きい・・・・
でも、今もグウィンは生きてるんだよね。
頑張ろうー。

魔法を信じるかい?
「あきれ」た私は、『ゲド戦記』の脳内座席替えをしたままで、
まだ手にする動機にまでは届いていなかったのだが、
再び私に強く印象付けたのが2004年に『ゲド戦記外伝』が発売されて完結したときに
朝日新聞に書かれた高橋源一郎の書評だ。この時点でも私は1999年と同様に、
「子供向けの本を書評するって、フランク・ザッパ本までも書評する高橋源一郎らしいなぁ♪」と思った。
しかし&やはり、書評内の

魔法とはことば

には、強烈な印象を持ってしまった。

そして私がいよいよ、『ゲド戦記』を手にしたのが2009年1月25日だった。
嗚呼、今日からちょうど一年前、私は滝川市の古本屋でぐーぜん、
『ゲド戦記X  アースシーの風』が定価\1890→古本\300で売られているのを見つけてしまった!
それから、ぼちぼちと読み始め、よーやく今夜、まる1年かけて全巻を読み終えた♪

第1巻『影との戦い』は、私にはとても読みにくかった。
物語自体は主人公である少年ゲドの成長と、巨大な敵との魔法を使った戦いだから、単純なのだが、
そもそも私はそんなファンタジーを読みなれておらず、その単純さにまず苦労した。
「戦い」→「勝つ」は私にとっては読書の推進力にはならないのだ。
ところが、第2巻『こわれた腕環』は私には、ぐいぐい読めた。
こちらは少年から青年になって傷つき魔法の力が弱まったゲドが迷宮で少女アルハと出会う物語。
実は私は第1巻を読み終えるのに半年以上かかったのに、第2巻は1日で読んだ(笑)。
私は恋愛小説が好きなのかもしれない。
もちろん、趣味は個人差があるのが当然だから、個人によって推進力が違う、ということだと思 う。
「闘い」や「勝負の結末」が推進力の人とか、「推理」や「謎解き」が推進力の人とか。
「恋愛」小説は、ある種の「心理」に興味をもつタイプの人にとっての推進力だと思う。
それは私にとっては恋愛そのものへの興味とはまた違う、奥のものなのだろう。

その理由のひとつが、思わせぶり(?)に第2巻に出てくる井戸などの存在だった。
井戸は村上春樹のキーワードだが、
村上春樹のファンタジー・ライクな小説には『ゲド戦記』を思わせるキーワードや舞台が時折、出てくる。
特に『ゲド戦記』ではやはり第2巻が、特に村上春樹色が強いと思う。あの暗い地下の迷路は、
『羊をめぐる冒険』や、『世界の終わりとワンダーランド』、『羊男のクリスマス』などに
繰り返し出てくるイメージだ。
物語性から言えば第2巻は、全6巻中、一番、単純だが、
たしかに私にとって第2巻が『ゲド戦記』全体の構造の中心にある。
「単純」とは、神話性レベルが高い、ということか。

また私は『ゲド戦記』を読んでから、かつて読んだ増田みず子の短編集『童神』を読み返してみた。
『ゲド戦記』を読んだ直後に『童神』を読むとまったく印象が違った!!!
特に表題作「童神」は、『ゲド戦記』の第2巻そのもの(?)。続く「夢虫」は、第3巻、か?
とにかく、増田が『ゲド戦記』の影響を受けたかどーかよりも、読み手の私が『ゲド戦記』を読む前後で
同じ小説をこんなに違った印象で受け止めたことに驚いた。

そして私は第3巻『さいはての島へ』で壮年になったゲドが若いアレン王子に言うセリフである、

「そうだ。わしらは均衡というものを考えなくては ならん。
それが破れると、人は他のいろいろなことを考え出す。真っ先に考え出すのは迅速さだ。」
(『さいはての島へ』 The Farthest Shore 原作;1972年、邦訳;1977年 240ページより。)

を読んで、 について考え込んだ。

「社会」の「均衡」をキープしているのは、法律だ。ルソーの言葉では、「社会契約」としての法律だ。
ドロボウが悪いのではなく、窃盗が法律で禁止されているのが、「社会」だ。
小沢一郎が攻められるのも、抵触する法律がありそうだ、という可能性に対してであるから、
小沢一郎は(市民モラル意識よりも?)法律を守る事が検察との「戦い」だと思っている。
そして、時に法律をまたぐように、「超法規的措置」が行われる。
たとえば1977年のダッカ日航機ハイジャックで、日本赤軍が牢屋に入っている活動家を釈放させ、一緒に国外へ逃亡したことを政府が赦した事件などだ。
もしくは、テロや、アナーキズムも法律を超えたものと言えよう。
また、セーラームーンの決めゼリフ「月にかわって、おしおきよ!」の「月」とは広義の「法律」であると解釈すれば、これも法律を超えたアナーキズムだ。
つまり、法律を超えたものとは、魔法なのではないのか?というのが私が持ったテーマだ。
そうすれば、ハイジャッカーも、テロリストも、アナーキストも、セーラームーンも、魔法使いなのである。

では、正しさって何だろうか。
ハイジャッカーも、テロリストも、アナーキストも、セーラームーンも、魔法使いも、正しければ、超法規的でいいと私は思う。
しかし、その「正しさ」こそがさらに、ややこしいのだ。
『ゲド戦記』においても、当初は竜が悪の権化として登場するが、第5巻で、最年長の竜であるカレシンがこう言う。

「その昔、我々は選んだ。我々は自由を選び、人間はくびき (=法律)を選んだ。
我々は火と風を選び、人間は水と大地を選んだ。我々は西を選び、人間は東を選んだ。」
(『アースシーの風』 The Other Wind 原作;2001年、邦訳;2003年 213ページより。)
ただし、(=法律)は私による注釈。

こう竜に言われると、ついに「正しさ」も相対性の霧の向こうのものとなる。
それでも、既成概念の(=つまり、「法律」も含む)「正しさ」を超えた、本質的な「正しさ」を求めることを止めてはいけない。
たとえば『ゲド戦記』第4巻では、簡単な言葉である「公平」を使う。

(それはちょっと公平さを欠いた見方じゃな い?)ゴハがテナーに言った。
(『帰還 - ゲド戦記最後の書 -』 Tehanu, The Last Book of Earthsea 原作;1990年、邦訳;1993年 251ページより。)

「公平」とは易しい言葉ではあるが、「公平」を徹底することは厳しいことだ。
それは法律を守ることよりも厳しい。いわば、アナーキーな地平ですらある。
もちろん、「公平」とはそんな例のひとつにしかすぎず、まだまだ我々は法律よりも、「正しい」言葉を捜す厳しい旅を続けなければならないのだ。
だから、法律を超えた存在としての、魔法なのだ。
既に全てが理解され書かれていると思い込まれているこの世界を、
もう一度、最初からぜんぶ自分で(=「ひとり」で?=「孤独」?)新しい(=「正しい」?)言葉で書いてみるということだ。
それは、「名付ける」ということであり、自分で世界を抱きしめることだ。
実は「考える」とは、そのことを言うのだ。
そして、「魔法とはこ とばだ」とは、そのことであり、
厳しい旅だからこそ、清水真砂子の訳文は「ぎこちない」まま、世界にむき出しになって、いつ までも立ち尽くしているのだ。
たとえどのように体が疲れていたとしても、心の中にそれを入りこませてはならないのだ(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)
私の蔵書。左から、
パラパラ・・・ゲド戦記 第1巻 『影との戦い』 A Wizard of Earthsea (原作1968年、邦訳1976年)
パラパラ・・・ゲド戦記 第2巻 『こわれた腕環』 The Tombs of Atuan (原作1971年、邦訳1976年)
パラパラ・・・ゲド戦記 第3巻 『さいはての島へ』 The Farthest Shore (原作1972年、邦訳1977年)
パラパラ・・・ゲド戦記 第4巻 『帰還 - ゲド戦記最後の書 -』 Tehanu, The Last Book of Earthsea (原作1990年、邦訳1993年)
パラパラ・・・ゲド戦記 第5巻 『アースシーの風』 The Other Wind (原作2001年、邦訳2003年)
パラパラ・・・ゲド戦記 第6巻 『ゲド戦記外伝』 Tales from Earthsea (原作2001年、邦訳2004年)
パラパラ・・・清水真砂子『学生が輝く とき』 (1999年1月22日、初版、岩波書店)
パラパラ・・・『文学空間』 批評の零点 1 (1979年3月20日、初版、創樹社)



2009年711日 土曜日 山の上から太陽が転げ落ちてくる♪ 8Amの気温;12.2℃
高校の学校祭って、こんな感じだったかなー。なんだか、もっと高揚感があった気がするけど。本人たちはそうかもしれ ないけどー。
→100日雛で1050円かな。あとは日割りで一日単位で値段が上がっていく。2009年この「古本市」のポスター、階段に貼ってあったのを盗んできた(笑)♪いい感じじだよな、これ。。息子の高校の学校祭で、図 書館の古本市へ♪;2009年7月11日(土)


2009 太ったソクラテスまで、あと何キログラム?
ラーメンぺ〜ろぺろ、ゴクリ!gourmet days ! Oh ! うめぇ〜♪ジューシーな豚肉ソティ!gourmet nights !
すべては、共犯行為。あれも、 これも。・・・あ、あれだけは違う。かも。