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moto_kubo@hotmail.com
パラパラ・・・永瀬清子からはじまる、詩人リレー。
カニ缶、買って帰ろう。
小林多喜二
死の共犯方程式


Takiji Kobayashi
1903年12月1日〜1933年2月20日
享年29歳
2015 年11月3日(火)天長節&文化の日
0:39Am
新しい、って何だ?
倉田稔『小林多喜二伝』(2003年12月10日、初 版、論創社) を、読了。
9: 52Am
質問の果て。
1.1kgと言えば、米の尺貫法で言えば、7合ほどだ。
私がこの『小林多喜二伝』を入手したのは、
去年の11月30日の沼 田町お目当ては、トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』だったんだけど。無料♪古本市で。
だから読むのに約1年間もかかったのだが、
なんせ、この本は、なんと928ページ厚さ5cm重さ1.1kg

いくら無料の古本市とは言え、
「こんな本、私の他には誰も持ち帰らないだろうし、読まないだろう。」
と思って私は持ち帰ったのだが、よ〜く考えると、
この古本市は町民が自宅から持ち寄った古本が出品されるのだ。
ってコトは、
この本を買って&もしかしたら読んだ町民が、この沼田町にいるのか!
とゆー驚き。
案の定、この本に、
この本の発売前月の新聞広告の切り抜きがはさまっていて、
そこに書かれている名前と住所と電話番号が、おそらく買った方だ。
なんと、私も知っている方だった。

この方は、おそらく、この切り抜きを持って本屋に予約に行き、
本屋が、この切り抜きに名前と住所と電話番号を書いたのだろう。
なぜならば、名前の最後に「様」が付けられていたから。
そ の方の近所に住む私の同級生が先日、我が社に来たので、
聞いてみると、「もう引っ越しして、家を売ったよ。」と言うので、
その家を買った方に、
その方の現在をケータイで便利なケータイ仮面。聞いてもらった。
すると、その方は「まだ沼田町に住んではいるが、
施設に入園されていて、会話は難しいだろう」、とのこと。

で、この本には、もう1枚、新聞の切り抜きがはさまっていた。
北海道新聞1面下のコラム「卓上四季」だ。
赤い油性サインペンで、冒頭に二重丸と、文中の「蟹工船」が囲まれ、
後半の下記の文章に線が引かれている。

「多喜二は特高警察の拷問を受け死んだ。
75年前のきょうのことだ。」


と、ゆーことは、これは2008年2月20日の新聞だ。

少なくとも、この本を買った方は、発売日の2003年12月から5年間は
この本を手元近くに置いていたか、
この本を譲り受けた方が、新しい新聞の切り抜きをはさめたか、だ。

私は自分が独自に切り抜いていた多喜二の新聞記事を、
その次のページから順番に、はさめていこう。
9: 5 2Am
アインシュタインのイイワケ。
こ の重さの本を読むのは、物理的にも疲れる。
9: 55Am
市場の基準。
この厚さ&重さ。野菜の一夜漬けに、ちょうど良い。
さて、こ の本、おそら く小林多喜二の関連本の中では最も厚いようだ。
また没後50年より前から20年以上をかけて、
知人・友人の証言を集めた著者の苦労は、
生の証言を集めることができた、ギリギリ最後の機会だった。

その点では重要な記録集なのだが、なんせ日本語がヘタクソ過ぎる。
できるだけ多くの資料から引用し、多喜二を立体的に描こうとした意図は
理解できるのだが、文章の基本である、
引用の順番や、重複のトリミング、固有名詞の統一がなされていない。
この著書、マジに大学教授?とゆーぐらいにシトウトな文章。
ネット時代であれば、ネット検索→コピペで学生がやりそうな、
雑な貼り付けで論文を仕上げたような手抜き感すらある。
しかし、この本は過剰なアナログ手作業の果ての労作である。
出版社の編集者よ、もっと何とかすべきだったはずだよ。とほほ。

まぁ、そんなイライラを抱えながらも私が通読した理由は、
1.あまりにも劇的で、密度の濃い29年間の多喜二の人生。
2.時折り、ふと思い出したように書かれる著者の文学批評

上記の「2.」としては、たとえば、
「小林多喜二の死は二つの意味を持っている。」として、大衆に
共産党と警察は「恐ろしいという観念」を同時にすり込んだ。
確かに、この観念は量の程度は変化しつつも、今日でも持続している。
すべては、1933年2月20日の多喜二への警察の虐殺からなのだ。

もちろん現在の「民主」警察と、戦前の特別高等警察に違いはあるが、
著者の「警察は、この事件を起こしたために、
政治的に長期的には大失敗をした」との指摘には学ぶところが多い。

DJポリス(げー)、共産党「国民連合政府」(笑)の現在でも、なお、
なのだ。
私自身も、
共産党は時にはむしろ権力の補完機能を果たした印象すらあり、
いずれにせよ距離を置いて考察する対象である。
その考察の先には、「党」だからこそのタフさと不自由さが待っている。
つまり私は、教条主義が極端に苦手なのだ。
それは私がコミュニストよりアナーキストに近い思想の持主だからだろう。

しかし相手が共産党ではなくても、私が2013年に沼田町議会に
パラパラ・・・『特定秘密保護法』廃案の意見書を出した時に、
「久保は選挙を目的に動いている」などのデマで私の意見書への反対を
とりまとめようと動いた事実もあったそうで、とにかく「政治」は疲れる。

こんなささいなことぐらいで疲れる私だから、
小林多喜二のタフさには、あきれ返る。
そして多喜二は、結果を出す芸術家であった。

いわゆるプロレタリア文学に対する世間の印象&評価は、
「質の低い大衆活劇」程度のようだが、
多喜二の文章の魅力は、そこを、はるかに超えている。
それは初期の漱石が持ってはいたが高度な内省に向かうために、
いったん保留にしておいた饒舌な文体がストーリーを拡張する文学だ。
世界文学の基準で言えば、後期の漱石よりも、むしろ多喜二が本流だ。

その多喜二を、権力は嫉妬した。
母を大切にし、娼婦と純愛をし、弟のくらくらクラッシック♪無器っちょな俺は まるでリュリ♪バイオリンを聴くのが好 きな、
田舎から東京に出て来たジョークが好きな小柄な29歳の青年だった。

そーゆー意味では著者が断言するように、
小 林多喜二は神は、長ぁ〜〜〜い、お友達♪イエスである。小林セキはマリアで ある。」
との見方に、私は何の違和感も感じない。
たとえそこに、教条主義のトラップが待っていようとも。
9: 57Am
工作員の弟子。
死後82年。田舎の高校生ですら、名前だけは知っている 多喜二。
12: 54Pm
歴史の怖さを知らないヤツとは、いったいどっちか考えもんだね。
共犯書斎に蔵書されている小林多喜二関連本を発売日順に 並べた。
私がかつ て読んだ多喜 二がらみの本を、何冊か紹介してみよう。

蔵原惟人パラパラ・・・『藝術と無産階級』(1929年9月10日、初版、改造社)

多喜二が『蟹工船』を発表した年に出版された評論集。
当時の蔵原は27歳ながらも、文芸評論界のカリスマだった。
特に1928年4月に発表された論文「生活組織としての無産階級」、
5月に発表された論文「プロレタリア・リアリズムへの道」、
蔵原が訳したロシアの人気評論家であったア・ルナチャルスキーの
「マルクス主義文藝批評の任務に関するテーゼ」などは
当時の文学青年にとっては必読の重要論文だった。
ちなみに、これら3つとも、この単行本に収録されており、お買い得だ。
当然、多喜二も熱心に蔵原の論文を捜し出しては読んでいた。
仲間とア・ルナチャルスキー『実証美学の基礎』の輪読会までも行った。
『実証美学の基礎』も林芙美子『放浪記』に登場するほど必読書だった。
1928年5月、多喜二は蔵原に会いに小樽から東京にまで行ってる。
蔵原は26歳、多喜二は1歳下の25歳だった。
またこの本に、デビューしたての多喜二の小説の批評も書かれており、
1929年2月に読売新聞に掲載した文芸評論で、多喜二を絶賛している。

さて、なぜこんなマニアックかつ貴重な本を私は初版で持っているのか?
実は2008年1月、叔父の法事で 再会した
敗戦直後期に太宰治が好きな文学青年だった1932年生まれの伯父が、
「私は東京での学生時代、蔵原惟人に憧れて、
プロレタリア・レアリズム論なんかを書いたよ。」

言っていたのが印象的で、読みたかったのだ♪
それがなんと、翌月の2月3日に古本市でパラパラ・・・初版を315円で入手
 

多喜二の伝記映画のパンフレットを私が 持っているのも、奇縁 だ。

映画パラパラ・・・『小林多喜二』(1974年2月、初版、多喜二プロダクション)

私の食の師匠=田中千博(1936 年〜2006年)さんの遺 品154冊の本
いただいたことは『共犯新聞』に詳しく書いたが、亡くなる前に、
まるで死期をご存知であったかのように、個人的に思いれのある本を
何冊も私の自宅に贈っていただいた。
私と田中さんは、食を中心に映画、歴史など広い話題を語り合ったが、
なぜか政治やイデオロギーの話題はまったく語り合わなかった。
が、突然、宮 本研パラパラ・・・『戯 曲集・革命伝説四部作』などが届き驚いた。
その流れで、この映画パンフレットも私の家に贈られてて来たのだ。
私と田中さんとの交流は1980年代の後半からだが、
私が2001年から始めたホーム・ページ『共犯新聞』を田中さんが読んで、
これらの宝は、久保に渡すのが最上の判断だと決められたのだろう。
また田中さんは高校まで小樽で過ごされたから、多喜二は特別なのだ。

さて、パンフレットだから928ページの『小林多喜二伝』と比べれば、
わずか50ページだが、パンフレットとしては異例のページ数だ。
しかも、シナリオが掲載されているだけではなく、多喜二の関係者の
寄稿や対談などは、オリジナルであり、第一級の一次資料だ。
なんせ、1974年の映画だ。多喜二が殺されてからまだ41年。
多喜二の知人の多くが生きていた。まだ多喜二は同時代人だったのだ。
『小林多喜二伝』の読後に再読すると、資料の価値の高さに驚く。
まず冒頭は、殺された多喜二を警察から引き取り、葬儀委員長をした、
江口渙(えぐち・かん、1887年7月20日〜1975年1月18日)が書いている。
江口は夏 目漱石の葬儀の受付を、芥川龍之介と一緒に行った作家だ。
やはり、多喜二は突然変異ではなく、文学史の必然だっ たのだ。
また『小林多喜二伝』にひんぱんに登場する多喜二の小樽時代の友人、
文学仲間の島田正策と、政治仲間の風間六三による対談も貴重だ。
総勢20名以上が、多喜二の想い出を語っている。当時70歳前後。
すでに、彼ら全員は、おそらく亡くなっているだろうから、書物は貴重だ。
さらに、映画には『小林多喜二伝』を読んだ者にはシンパシーを感じる、
蔵原惟人、伊藤ふじ子、原泉、そして島田正策までが登場する。
う〜む。私は、この映画を観ていない。どうにか観れないものかな?
佐多稲子パラパラ・・・『夏の栞』(1983年2月25日、初版、新潮社)

佐多は長崎市で18歳の父と14歳母の求められない子として生まれ、
苗字や名前を変え続けながら、11歳以降は学校に行けなかったが、
文芸評論家の奥野健男に言わせれば「佐多稲子は、美しく、男にもてる
という体験を少女時代に味わって来た珍しい女流作家」であり、
1920年に16歳で上京した直後から上野の清凌亭で座敷女中として働き
客の芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、宇野浩二、江口渙などを知る。
これが、どこまで「知る」なのかが、興味深い裏の文学史であるのだが。
蔵原惟人『藝術と無産階級』にも、デビュー当時の佐多稲子の小説が
好意的に批評されている。1929年当時の佐多は25歳ながら、すでに
2人目の夫である小説家の窪川鶴次郎と結婚し、前年にデビュー。
『藝術と無産階級』で佐多が紹介されているのと同じページに、
「作家としての中野重治も新人である。」と紹介されている中野と佐多は
同じ志を持った文学者として、その後、中野の死まで交流を続ける。
そして、中野が1979年に77歳で死んだときに、佐多が書いたのが、
この本であり、副題は「中野重治をおくる」であり、長い追悼文である。
それは志の同伴者=中野を通じて語った、あの時代の鎮魂歌のようだ。
今から考えれば夢物語のような、芥川龍之介の自殺にいたる想い出や、
虐殺された多喜二の遺体が自宅に帰った直後に立ち会ったことが、
中野との想い出の中に美しく溶け込んでいる。
やはり文体は品格であり、品格は知性であるのだなぁと感じさせられる。

佐多には、多喜二を書いた『歯車』もある。
私小説が密室からはみ出るためには、美しい言葉が必要なのだ。
三 浦綾子パラパラ・・・『母』(1992年3月10日、初版、角川書店)

書名や装丁では想像つかないが、多喜二の母セキが語る自伝風小説。
さすがストーリーテラー、三浦。読ませる。三浦の作品の中でも人気が
高い理由も分かる。しかし当初、三浦は多喜二を書きたくなかった。
夫の三浦光世から「多喜二の母を書いて欲しい」と10年以上も頼まれた
のを断って来たそうだ。その理由は、三浦は多喜二も共産党も、
よく知らない、つまり興味が無かったからだった。
三浦が1999年10月12日に死に、すでに「文学史」の一部分となった今、
世間は三浦を左翼系の作家と処理しているが、
少なくとも彼女は『母』に取り組むまでは、共産党に好意的ではなかった
と解釈もできる。私は、そう受け取っている。だからこそ光世が多喜二を
書くことを熱心に三浦に薦めた行為には多くの意味と価値がある。
すでに晩年に入っていた三浦にとっては、『母』を書くことによって、
最後の長編小説の名作『銃口』を書き上げることができたのだと思う。
『銃口』は、小学館の月刊誌『本の窓』に1990年1月号から1993年8月号
まで連載され、1994年に刊行された。
まさに『母』と『銃口』は並行して、
それぞれに膨大な資料の読み込みをして、
それぞれ深淵な思索を重ね、それぞれ違う手法で文学に昇華した。
だから、『母』と『銃口』は兄弟のような作品だとも私は思う。
しかし、だからと言って三浦が人生の最後に左翼≒共産党に賛同したの
か、というと、そこは短絡過ぎる。
むしろ、左翼≒共産党をクリスチャンの視線から相対化した座標軸を
文学で残したきっかけとして多喜二は有効だった、と解釈すべきだろう。

また、多喜二の研究本の多くが共産党の闘士として死んだ側から
逆読みしているが、『母』は生まれた側から死を見つめている。
この視点の逆転は見事であり、今後の研究者にも必要な姿勢である。

そして三浦が『母』を書き上げてみると、
深い感動のうちに書き終えることができた。
それは、取材の途中で、「多喜二の死の惨さと、キリストの死の惨さに、
共通の悲しみがあること」に心を突き動かされたから、だそうだ。
ではこの小説は、多喜二=マルクスを、三浦=キリストに換言した
植民地小説なのだろうか?
確かにそこには、教条主義の甘い誘惑がある。
しかし、そのいやらしさが無いのは、多喜二と三浦の純情が読者に
ストレートに伝わるからだろう。
では、文学を、政治を、人間を汚したのは誰なのか。

そして、
それを回復するのもまた、文学の、政治の、人間の役割でもある。
倉田稔パラパラ・・・『小林多喜二伝』(2003年12月10日、初版、論創社)

ぐるっと時代を追って4冊を読み返して、ふたたび本書に戻れば、
やはり、文章力の圧倒的な無さに脱力するが、
まずは、この大著に取り組み出版にまで運び込んだタフさを祝福したい。

この大著が出版されてからすでに12年が過ぎたが、
この研究が多喜二に貢献すべきことは、
多喜二を共産党から解放することだろう。
それは共産党にとっても有意義な展開が待っていることだろう。

膨大な記録は、全体を目指すためにこそあるのだ。

日本共産党には、次のような時代がある。

1922年7月15日〜
第一次日本共産党
堺利彦、 山川均、荒畑寒村らを中心に設立。
設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。
コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。

1926年〜
第二次日本共産党
かつて解党に反対した荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)が再結党。
理論的指導者は福本和夫で、レーニンの『何をなすべきか』にのっとり「福本イズム」と呼ばれた。
1928年の「三・一五事件」と、1929年の「四・一六事件」と引き続く弾圧で、多数の活動家を失った。
1929年7月〜
再建共産党
「四・一六」の直後、党指導部は東大新人会出身の田中清玄委員長を中心にさっそく再建された。
本部を東京・赤坂に置き、指導者は非常に若い23歳の田中清玄、24歳の佐野博。
田中清玄は戦後、右翼に転向し、政商として1993年12月10日に87歳で死ぬまで黒幕として活動。
1929年7月〜1930年7月
武装共産党
田中清玄委員長の指導で、モスクワのコミンテルンの指示に基づき、
党員に「武装して公然活動し、場合によっては、警官を殺傷することも辞すな」と命じた。
その結果、数々の官憲との衝突事件を起し、1930年5月1日には、「武装メーデー事件」を起こす。
1931年初め〜1932年末
非常時共産党
武装共産党が無謀な武装方針と当局の弾圧により1930年7月14日の田中清玄の逮捕で壊滅し、
クートヴェ帰りの風間丈吉を中心に党中央が再建された。戦前では、最大の党勢を誇る時期。
他の中央委員は、飯塚盈延(松村昇、いわゆる「スパイM」)、岩田義道、宮川寅雄、紺野与次郎。
1933年1月〜1935年3月
リンチ共産党
1932年10月に熱海で幹部が一斉検挙「熱海事件」され、
翌1933年1月にモスクワ・クートヴェ帰りの山本正美によって党中央部が再建。
スパイMなどの存在で共産党はスパイ恐怖症におちいり、リ ンチ共産党事件を起こし、壊滅

多喜二は、小樽で無名時代に「第二次共産党」の選挙応援をし、「三・一五事件」を1928年に小説『一九二八年三月十五日』として書いた。
その小説で注目を浴びた多喜二は東京に引っ越し、共産党内部の情報は、商品なり。ス パイによって警察に売られ、1933年2月20日に虐殺された。

上記の共産党の歴史に登場する田中清玄は多喜二より3歳若く、1906年3月5日に北海道で生まれている。
スパイM(1902年10月4日〜1965年9月4日)は、満州に逃げ、戦後は北海道で元・特高たちに殺されることを恐れながら北海道で偽名のまま死ん だ。
多喜二を含め、重要人物が北海道にからんでいる因果を感じる。

多喜二の遺体は、1933年2月21日午後10時過ぎに自宅の6畳の書斎に運び込まれた。
遺体の写真は、日本プロレタリア作家同盟の貴司山治(きし・やまじ、1899年12月22日〜1973年11月20日)が撮影し、戦後まで密かに隠し守ら れた。

しるし。

多喜二は女性にモテたようだが、あまりにも純情すぎた。

坂道で、もう一度。
田口タキ
2009年6月19日、没。享年102歳。

多喜二は1924年、タキに出会い、
友人からの借金でタキを身請けし
結婚ではなく家族として暮らすが、
タキは何度も多喜二から離れる。
森で、もう一度。
伊藤ふじ子
1981年4月26日、没。脳卒中。

多喜二がタキと別れ暮らした女。
写真の左は、多喜二の死後、
知り合い結婚した森熊猛。
森熊は札幌生まれのマンガ家。

多喜二の過剰な純情を、マザコンと分析することも可能かもしれない。
あまりにも純粋な母を持ってしまったから、女性に幻想を持つことが自然にできた、という考え方だ。

しかし、純情であることが、いけないことであるのなら、文学を志すべきではないし、
純粋であることが、いけないのなら、政治を志すべきではない。
また、それは人間の問題でもある。

多喜二が優れた文学作品を残したのは副産物ではなく、全体像の重要なパーツであるだけだ。
それを確認するための1.1kgの倉田稔『小林多喜二伝』なのだろう。

『小林多喜二伝』の終わりかけには、やはり、母セキの「詩」に触れられている。


 母セキは、(多喜二の)姉にかくれて字の勉強をした。
彼女の唯一の書き物は、秋田弁風の一篇の詩であり、その死 後出てきた
多喜二の姉チマは、母が手習いをしていたのを知らなかった。



  あーまたこの二月の月かきた     ああ、またこの二月の月が来た。

  ほんとうにこの二月とゆ月か      本当にこの二月という月が

  いやな月 こいをいパいに        嫌な月、声を一杯に

  なきたい どこいいてもなかれ     泣きたい どこへ行っても泣かれない。

  ない あー てもラチオで        ああ でもラジオで

  しこすたしかる                少し助かる

  あーなみたかてる              ああ涙が出る

  めかねかくもる                 眼鏡がくもる



この詩は日本で最高級の詩である。

残酷な2月。

小林多喜二が虐殺された1933 年

1月30日 アドルフ・ ヒトラーがドイツ首相に就任、ナチスが政権を取る。

2月20日 小林多喜二が、特別高等警察の拷問により虐殺される。

3月27日 日本が満州国のでっちあげで孤立し、国際連盟から脱退。

9月21日 宮沢 賢治が、岩手県花巻町で病死。享年37歳。

この年、北海道の沼田町で、久保商店が開店。




text by うぇ〜ん!久保AB- ST元宏
(更新日;2015年11月4日 1:16Am)
12: 54Pm
フルートで、もう一曲。
宮沢賢治は1924年5月、花巻農学校の引率で小樽へ修学旅行訪問。


俳句は、パンク。今日の一句
旋律はほとんどひとつ虎落笛(も がりぶえ)
うぇ〜ん!久保AB-ST元宏(2000年2月)
猛吹雪…。突然、久保元宏がやって来た。いつも不意打(笑)。疾風のように現れて、疾風のように去っていく。沼田のソクラテス。
2017年2月1日(水) 10:51Pm メルティング・ポットで、待ち合わせ♪

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出 せ!
たとえば→2月11の歴史
まさか、ここで夢野久作と結びつくなんて。
I赤い目は、森に置き忘れてはいない。watched with glee !
While your kings and queens !
Fought for ten decades !
For the gods they made !
woo woo, woo woo !
I
転がる胆石♪shouted out !
"Who killed the Mr. Nobuharu Nishida ?"
When after all !
It was you and
うぇ〜ん!me !
who who, who who
!


俳句は、パンク。今日の一句
旋律はほとんどひとつ虎落笛(も がりぶえ)
うぇ〜ん!久保AB-ST元宏(2000年2月)
猛吹雪…。突然、久保元宏がやって来た。いつも不意打(笑)。疾風のように現れて、疾風のように去っていく。沼田のソクラテス。
2017年2月1日(水) 10:51Pm メルティング・ポットで、待ち合わせ♪

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たとえば→2月20の歴史
志の高さは分かるが、あまりにも学校演劇な演技。
Mr.
結果を出す芸術家Takiji Kobayashi
who the young writer
died due to violent torture
after arrest by the police,
at the age of 29
!