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2009年8月8日 ()
インソムニア

発行、発光、発酵
text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
(更新日;2010年3月18日 木曜日 0:10Am)

もう半年以上も前のことになるけれど、
美術作家のここがブログ♪山里 稔さんのアトリエに呼ばれて、
お話をうかがった。
なんでも、

「久保さんに
チョット話してみたいコトがありまして、
都合良い 昼間に、
アトリエでワインでも飲みながら
如何でしょうか?」

とゆーことなので、
遠慮せずに(笑)真っ昼間のアトリエへお邪魔した。
大きなトカゲがもうすぐ。

そこに白い紙があるから。
札幌のアトリエへ向かう途中、通り道沿いにある
新十津川町の手作りハム&ソーセージ屋Oh ! うめぇ〜♪ジューシーな豚肉ソティ!『ヴルスト よしだ』で、
パテとサラミを買い込み、
昼間の酒宴に参戦♪
呑むワインは、ここがブログ♪山里さんのコレクションから選ばさせていただいた♪
山里さんも、チーズやクラッカー、オリーブなどを用意していてくれて、
台所で赤いパプリカを切ったりして、準備ばんたん(笑)♪
そこにワインがあるから。
そこに言葉があるから。
ここがブログ♪山里さんの提案は、
かんたんに言うと、
「いっしょに雑誌を作りましょう。」
で、あった。
山里さんは、ここ1年ほどの私たちの交流に、
大きな価値を見出してくれたようだった。
それは、いいおとなが抽象的な議論を夜通しやったり、
一斉メールでお互いの超★長文をやりとりする
エネルギー(?)に、
可能性を見出してくれたようなのだ。
そこに手紙があるから。
そこに大きいトカゲがいるから。
それらが、ただ単に数人の中のことだけで
閉じてしまったり、
終わってしまったり、
消えてしまうのが、山里さんには、すごーーーく、もったいないこと、
と、感じたようだ。

そして、
だからこそ、それらをまとめて雑誌にして、
不特定多数に向けて情報発信しよう、
とゆーのが山里さんの提案の原点のようだ。
山里さんが、そう感じたことの理由はいくつもあるだろーけれど、
その中のひとつは、
1960年代初頭、北海道から東京へやってきた新人アーティストだった山里さんが
リアル・タイムに体験した
まったく新しい芸術運動、Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!ネオ・ダダの記憶があると私は思う。

その当時、青春まっさかりの山里さんは、
芸術家のタマゴだった仲間たちと
毎晩のように抽象的な議論を夜通しやったそうだ。
夜の議論で「闘う」ために、
昼間は最新の美術理論書や哲学書を読み込んだらしい。

それは山里さんの青春であり、ニッポン美術界の青春だった。
いや、1960年代、世界中が青春だったのだ。
そこに小さなトカゲがくるから。
そこに白い海があるから。
そして私は、ネオ・ダダの新しさは、
その奇をてらう作風だけではなく、
「考える」ことそのものをも作品にした点だと思う。

それはマルセル・デュシャンやロバート・ラウシェンバーグらを経由して、
オノ・ヨーコ、赤瀬川源平らを思い出すほどに、
言葉そのものがまるで物理的な作品のよう
私の脳味噌の中で屹立してくる。
まさに、コンセプチュアル・アートとゆー名称は、
言い得ていすぎる。
美術作家たちにとって、言葉とは、
美術作品に至るためのイン・プットで、
その結果のアウト・プット美術作品だったのだが、
その境界線が溶解し、
まさに1960年代の「政治」運動のように
表現のヒエラルキーが崩壊したのだ。

・・・私はネオ・ダダのほんとうの新しさとは、そこだと思っている。
そこに白い空があるから。
そこに白い人がいるから。
イン・プットと、アウト・プット
まさに、表現者はその繰り返しだ。
1960年代初頭からずっと、
表現者として自らを厳しい位置に立たせてきた山里さんにとっては、
それは(けっして大げさではなく)「生きる」ための推進力そのものなのだろう。
ここで余談になるようだが、
批評家の「聖地巡礼2――平成仮面ライダー補完計画 MISSING ACE」!東浩紀(あずま・ひろき、1971年5月9日生まれ)の
最近の活動と発言について少しふれてみたい。
東京大学大学院で哲学と表象文化論を専攻した東は、
ある意味、2000年代(=ゼロ世代)で「ひとり勝ち」した批評家とも言える存在だ。
そんな彼が批評ではなく小説本『クォンタム・ファミリーズ』を出版し、話題だ。
パラパラ・・・2010年3月11日の朝日新聞の取材に東は、こう答えている。
読者を自ら狭め、やせ細ってしまった批評の言葉と比べれば、
小説はまだマーケットがある。自由なことができるかな、と」

すでに東は小説だけではなく、批評雑誌『思想地図』も創刊させている。
批評家でありながら、
その対象となる小説も自ら書き、それらを流通させるメディアも出版しているのだ。
朝日新聞の記事は、さらにこう取材を進めている。
こうした試みのもつ意義について、『新潮』の矢野優編集長は、
二つの「通路」を示したことだと指摘する。
一つは近年深刻になった、小説と批評のあいだの溝に対して。
もう一つは、文壇と論壇のあいだの棲(す)み分けに対して。

 「明治維新後、近代文学が立ち上がっていった時期に、
作家は小説評論も書き、雑誌も発行した。
日本社会が様々な意味でリセットを求められている今、
東さんが恐れず一歩を踏み出した意味は、大きいと思う」

近代、「小説評論も書き、雑誌も発行した。」作家として我々は、
『文藝春秋』を創刊し、芥川賞を創設し、
つまりマーケットを切り開いた菊池寛を容易に思い出すことができる。

また、我々は明治期の文豪は「おじいちゃん」だと思い込んでいるが、
国木田独歩(1871年8月30日〜1908年6月23日)は享年36歳だ。
その短い生涯で、自然主義文学『武蔵野』の小説家だけではなく、
現在も続いている最古の女性誌『婦人画報』などを創刊した
ジャーナリストでもあったのだ。文学と雑誌の発行は近い関係なのだ。
そこに白い人がくるから。
そこに白があるから。
つまり、大きく言えば、表現、ということなのだ。
小説を書くのも、
その小説の評論を書くのも、
それらをひっくるめて雑誌とゆー形態で流通させるのも、
すべては表現、ということなのだ。

そして山里さんは、大きな指がもうすぐ。 その雑誌に書かれる
言葉
私を選んでくれた、
とゆーことなのだ。

そこに赤があるから。
説明がひと段落したところで、
山里さんは机の上にのっていた大量の紙束をとりだした。

うぇ〜ん!「な、なんですか、それ?」
ここがブログ♪ 「これは、ここ最近、みんなでやりあった
一斉メールをプリント・アウトしたものだよ♪
みんな長文だから、
私は印刷してからゆっくり読んでいるんだ(笑)。」

そう山里さんは、いとおしそうに大量の紙束を見つめる。

う〜ん。
確かに、山里さんたちとやりあった一斉メールのボリュームは、
雑誌どころか、百科事典が作れるかもしれない(笑)。

まさに、
「物理的な言葉」と化した紙束を見せ付けられ、
私もこれがただ単に数人の中のことだけで
閉じてしまったり、
終わってしまったり、
消えてしまうのは、すごーーーく、もったいないこと、
と、感じてしまった。
ところで、
山里さんがあらかじめ書いていた企画のラフ・スケッチ(?)には、
「テーマは、子供のために」と、書かれていた。
この日は、ここには深く踏み込まなかったけれど、
これも重要なキーワードであることには間違いない。

山里さんのと、私たちの言葉を、「子供のために」と、並べると
私は詩人であり画家であったイギリスの
ブレイク・スルー・ジ・アザー・サイド!ウィリアム・ブレイク
(1757年11月28日〜1827年8月12日)を連想した。

ブレイクこそは、
子供の世界を詩と絵で礼賛し、
汚れなき魂に天上を見た天才的な芸術家だった。
そこに赤ワインがあるから。
そこに赤い血があるから。
どーでもイーヨー。大江健三郎
(おおえ・けんざぶろう、1935年1月31日生まれ)は、
ブレイクからインスパイアされた小説を多く書いている。

パラパラ・・・2009年12月6日の日本経済新聞に、
文学専門の記者である浦田憲治が、
大江から「なぜブレイクに共感するのか。」について聞き出している
大きなグラビア記事が掲載されていた。
「ブレイクの根本の思想は、子供の世界こそ最も美しいということです。
天上には完全な世界がある。
ところが魂が地上に降りてきて人間の肉体に入ると、死や苦しみが生まれる。
ただその場合、子供だけが無垢でいられる。
だから子供はこの世界で完全な人間に近い存在だと考えるわけなんです。
つまり子供を通じて最も望ましい世界を見ることができる
その窓口を果たしていると考える。」

山里さんの企画書には、「テーマは、子供のために」の続きに、
「大人・子供・男・女・人種・民族・・・
立場を越えた、
大きなモノが、大切に見えるモノが・・・」
と書かれ、
「これは、始めの一つであって、
これより自由に、
好きなように発展できれば良いと思う。」
と、しめくくられていた。

つまり、山里さんにとっての子供とは普遍性の象徴なのだろう。
それは山里さんが作り出してきた造形作品が、
高度に抽象的な普遍性を含有してきたことが言い表している。
そこに赤い大地があるから。
そこに赤い夕日があるから。
ワインの抜栓が進み、
うまいサカナと言葉にここちよい酔いが回ってきたころ、
山里さんは、おもむろに大きな図鑑のような冊子を見せてくれた。

それは、1970年代以降、
東京から北海道に戻ってきた山里さんがやってきた仕事の記録だ。
驚く無かれ、北海道に住んでいれば誰もが知っている町並みやトンネルが、
なんと、山里さんの仕事だったのだ!

それまでの日本は土木工事までにしか関心が無かったところに、
山里さんは、環境工学という思想を注入し、
単なる土木工事にデザインとコンセプトの必要性を実践で説いてきたのだ。

特に、「環境」という言葉をこの業界に持ち込んだ先駆者であったそうだ。
う〜む。すげぇ・・・。
巨大なプロジェクトの仕事を長年してきて、
今は
ここのアトリエで
たったひとりで
手で持てるサイズの芸術作品の製作をしている山里さん。

そして
今また、
雑誌と言う複数で行うプロジェクトの魅力を語っている。
そこに赤い犬がいるから。
そこに赤い書物があるから。
そして私は、
この日に熱く語っていただいた魅力的な山里さんからの
「いっしょに雑誌を作りましょう。」
という提案を、「保留」というかたちで、断った。
いや、
断ったわけではないが、保留にしたのだ。

私の「保留」の理由は、こうだ。
  1. 私はペーパー・メディアに懐疑的だ。
  2. 雑誌を作ったつもりが、紙屋と印刷屋をもうけさせただけになるケースがある。
  3. (インターネットである)『共犯新聞』をはるかに超える可能性を知りたい。
  4. 持続可能なコンテンツのアイディアの担保を、もっと確認しておきたい。
  5. その雑誌の流通のシステムが見えてこない。
  6. 現在ある雑誌に我らが書くのではダメなのか?それを超える理由が必要。
もちろん、
オブジェとしての山里さんの作品としての書物ならば、
私もすごーーーーく、欲しい(笑)。
山里さんの作品であるオブジェとしての書物に、
私の言葉が書かれていると想像するとうっとりしてしまう。





・・・でも、山里さんの情熱はすてきだったよ。
何か、あとふたつぐらいの展開が加味されると、私も大きく動くかもしれないな。

それから私は、
ふら&ふらと地下鉄駅まで歩き、
酔っ払ったまま、地下鉄に乗った。
そこに闇があるから。
そこに黄色い水があるから。
ススキノの中華料理屋で、
いつもの
コメの商談会。

この日は、私が幹事として商談会の司会をすることになっていた。
乾杯の前から酔っ払っている私に、
各企業の社長たちは、「やれやれ。」な感じ。

しかし、酔っ払った私の司会のテンションがすさまじかったのか、
コメの流通がにぶる8月にしては、
かなりの商談が成立した。
大笑いさせながら、かなりまとめた。
AとBで商談が成立したコメは、
AからBへ「届ける」、「運ぶ」。

そのとき、
コメが作品で、
商談が言葉ならば、
「届ける」&「運ぶ」は雑誌なのかな。

「届ける」って、どうゆうことなんだろう。

「運ぶ」とは、なんなんだろう。

インターネットは触ることができない。
ホーム・ページを、喫茶店のレジの横にマッチのように置いておくことはできない。
ホーム・ページをクギでさして壁にぶら下げることはできない。

そこに表現する者がいる限り、
「届ける」&「運ぶ」は、永遠のテーマなんだろうな。
それは、つ・な・が・り・た・い、とゆーこと。

表現が発光するとき、
雑誌は発行されてきたのだろう。

たくさん決まったコメの売買伝票を整理しながら、
私の脳味噌は昼間のワインを、ゆっくりと発酵させていた。
そこに黄色い手帳があるから。