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札幌のアトリエへ向かう途中、通り道沿いにある
新十津川町の手作りハム&ソーセージ屋 『ヴルスト よしだ』で、
パテとサラミを買い込み、
昼間の酒宴に参戦♪ |
呑むワインは、 山里さんのコレクションから選ばさせていただいた♪
山里さんも、チーズやクラッカー、オリーブなどを用意していてくれて、
台所で赤いパプリカを切ったりして、準備ばんたん(笑)♪ | |
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山里さんの提案は、
かんたんに言うと、
「いっしょに雑誌を作りましょう。」
で、あった。 |
山里さんは、ここ1年ほどの私たちの交流に、
大きな価値を見出してくれたようだった。
それは、いいおとなが抽象的な議論を夜通しやったり、
一斉メールでお互いの超★長文をやりとりする
エネルギー(?)に、
可能性を見出してくれたようなのだ。 | |
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それらが、ただ単に数人の中のことだけで
閉じてしまったり、
終わってしまったり、
消えてしまうのが、山里さんには、すごーーーく、もったいないこと、
と、感じたようだ。
そして、
だからこそ、それらをまとめて雑誌にして、
不特定多数に向けて情報発信しよう、
とゆーのが山里さんの提案の原点のようだ。 |
山里さんが、そう感じたことの理由はいくつもあるだろーけれど、
その中のひとつは、
1960年代初頭、北海道から東京へやってきた新人アーティストだった山里さんが
リアル・タイムに体験した
まったく新しい芸術運動、 ネオ・ダダの記憶があると私は思う。
その当時、青春まっさかりの山里さんは、
芸術家のタマゴだった仲間たちと
毎晩のように抽象的な議論を夜通しやったそうだ。
夜の議論で「闘う」ために、
昼間は最新の美術理論書や哲学書を読み込んだらしい。
それは山里さんの青春であり、ニッポン美術界の青春だった。
いや、1960年代、世界中が青春だったのだ。 | |
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そして私は、ネオ・ダダの新しさは、
その奇をてらう作風だけではなく、
「考える」ことそのものをも作品にした点だと思う。
それはマルセル・デュシャンやロバート・ラウシェンバーグらを経由して、
オノ・ヨーコ、赤瀬川源平らを思い出すほどに、
言葉そのものがまるで物理的な作品のように
私の脳味噌の中で屹立してくる。
まさに、コンセプチュアル・アートとゆー名称は、
言い得ていすぎる。 |
美術作家たちにとって、言葉とは、
美術作品に至るためのイン・プットで、
その結果のアウト・プットが美術作品だったのだが、
その境界線が溶解し、
まさに1960年代の「政治」運動のように
表現のヒエラルキーが崩壊したのだ。
・・・私はネオ・ダダのほんとうの新しさとは、そこだと思っている。 | |
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イン・プットと、アウト・プット。
まさに、表現者はその繰り返しだ。
1960年代初頭からずっと、
表現者として自らを厳しい位置に立たせてきた山里さんにとっては、
それは(けっして大げさではなく)「生きる」ための推進力そのものなのだろう。 |
ここで余談になるようだが、
批評家の 東浩紀(あずま・ひろき、1971年5月9日生まれ)の
最近の活動と発言について少しふれてみたい。
東京大学大学院で哲学と表象文化論を専攻した東は、
ある意味、2000年代(=ゼロ世代)で「ひとり勝ち」した批評家とも言える存在だ。
そんな彼が批評ではなく小説本『クォンタム・ファミリーズ』を出版し、話題だ。
2010年3月11日の朝日新聞の取材に東は、こう答えている。
「読者を自ら狭め、やせ細ってしまった批評の言葉と比べれば、
小説はまだマーケットがある。自由なことができるかな、と」 |
すでに東は小説だけではなく、批評雑誌『思想地図』も創刊させている。
批評家でありながら、
その対象となる小説も自ら書き、それらを流通させるメディアも出版しているのだ。
朝日新聞の記事は、さらにこう取材を進めている。
こうした試みのもつ意義について、『新潮』の矢野優編集長は、
二つの「通路」を示したことだと指摘する。
一つは近年深刻になった、小説と批評のあいだの溝に対して。
もう一つは、文壇と論壇のあいだの棲(す)み分けに対して。
「明治維新後、近代文学が立ち上がっていった時期に、
作家は小説も評論も書き、雑誌も発行した。
日本社会が様々な意味でリセットを求められている今、
東さんが恐れず一歩を踏み出した意味は、大きいと思う」 |
近代、「小説も評論も書き、雑誌も発行した。」作家として我々は、
『文藝春秋』を創刊し、芥川賞を創設し、
つまりマーケットを切り開いた菊池寛を容易に思い出すことができる。
また、我々は明治期の文豪は「おじいちゃん」だと思い込んでいるが、
国木田独歩(1871年8月30日〜1908年6月23日)は享年36歳だ。
その短い生涯で、自然主義文学『武蔵野』の小説家だけではなく、
現在も続いている最古の女性誌『婦人画報』などを創刊した
ジャーナリストでもあったのだ。文学と雑誌の発行は近い関係なのだ。 | |
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つまり、大きく言えば、表現、ということなのだ。
小説を書くのも、
その小説の評論を書くのも、
それらをひっくるめて雑誌とゆー形態で流通させるのも、
すべては表現、ということなのだ。 |